田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

松永安左エ門と加藤恒忠(2010/10/21)

2010-10-21 23:13:03 | 松永安左エ門の足跡巡り
田舎生活をしていると、時間は十分にある。
本を読む時間もたっぷり。
この数年は、「坂の上の雲(司馬遼太郎)」「チャーチルの第二次世界大戦」「史記(司馬遷)」「松永安左エ門著作集」の結構なボリュームのある4冊の本を、順番に繰り返し読むようにしている。
2年で一巡する感じ。
どれも不朽の名著。
今は、松永安左エ門著作集を読んでいる。
坂の上の雲の主人公の一人の秋山好古の竹馬の友で、正岡子規の母方の叔父で子規を東京に遊学させた加藤恒忠との交友を松永安左エ門が下のように記している。
第一次大戦終了前、福岡県から衆議院議員を一期務め、そのとき、パリ講和会議の日本代表団の一員として、パリに出かけた時の思い出を書いたもの。
坂の上の雲の作者の司馬遼太郎の描く、加藤恒忠の暖かい人物像と、下の松永安左エ門の飾らない加藤恒忠像は、ともに魅力的。
明治の偉人の話を、松永安左エ門から直接物語ってもらった気分。
なお、松永安左エ門は晩年の福沢諭吉の薫陶を受け、九州では九電・西鉄の生みの親で、東邦電力を率いて、日本の電力の1/3を傘下に収め、戦時中は隠棲、戦後電力会社民営化に辣腕を振るった実業家であり、茶人であり、随筆家であり、歴史家であり、登山家であり、遊び人であり、どれにも傑出。
96歳で生涯を終わるまで、存在感は群を抜いていた人。
この11月に飲み仲間でバスを仕立てて、日帰り旅行を計画しているが、福岡市美術館の松永安左エ門コレクション(茶器、掛け軸)も訪れる予定。


昭和25年8月 経済往来社発行の松永安左エ門著「淡々録」(松永安左エ門著作集第三巻)

加藤恒忠の飄逸(故人の思い出)

パリの講和会議に西園寺さんに随って来ている人のうちに異色のあったのが、加藤恒忠さんだ。外交家出身で、原敬さんがフランス公使館にいた頃の同僚で多分、原総理大臣の推薦もあったのであろう、会議の正員ではなかったかも知れぬが、ホントウのパリージャンらしいのはこの人ひとりで、まことに洒脱円滑の風流紳士として飄々塵外に遊ぶといった態度をとっていた。私が一度来ている連中をいいレストランでお招きしたいから、世話をして頂けんかと相談をかけたら、それは止めたがよい、第一、今来ている連中は西園寺和尚を除けば他は田舎者ばかりで一向に招き甲斐もないからだ。それより二人でブルーバードの木陰の料亭で夕食にでも今から出かけようという風でアッサリしている。そのうちブラッセルの会議に行ったとき、小パリといわれている同地はかつて加藤さんが公使であった関係上なかなかくわしい。二人でよく遊びまわった。
 ある時パリの画商というほどでなく、ここには額縁屋がある。そのうちの一軒に美人がおってサービスする。二階の接待室で油絵などを取り寄せて見ながらその美人のごあいそうを聞いているのも面白いといわれるのでつい野心を起こして、その店舗に二人で出かけた。主人は見知りあって早速二階の貴賓室に通し、いろいろな大家のデッサンなど出して並べる。批評をする、そのうちボルドウの葡萄酒が出るという風で待遇は至れり尽くせりだが、肝心の美人の娘さんは姿を見せぬ、ようやくにして蕎麦かすだらけの痩せた年増の夫人が出てきてこれまた愛想をいうのみである。とうとう言い訳に鉛筆画とオランダ水彩画の小品を買って帰った。帰りのみちみち加藤さんは頭を掻いて、ドウモ美人の娘と思ったのが彼の主人の妻君であったか、今から十数年前のことだから、あの老婦人も若くて脂切って美しく、お嬢さんと思って秋波を送っていたが物にならなかったはずだよ、アレは妻君だったのだ。それも昨日今日と思っておるうち十何年もたったのであるから天女出現が婆出現と変わった筈だ、ソレにしても君には済まなかったネーと呵々大笑いされるには怒るわけにもいかず、いつしかその逸脱振りに私も感化されるようになった。
 加藤さんはその後小林一三が経営していた「大阪新報」を岩下清周に頼まれて監督していた。その後郷里松山の市長となり、その号の佩川随筆を書かれたりしていたが、松山で癌で亡くなられた。六十八であったろう。フランス文学よりは漢学の薀蓄の深きことを詩文の上に現している。俳人正岡子規の叔父さんとして子規や虚子、碧梧桐などの育ての親でもある。


↓加藤恒忠のこのときの話より30年前の写真。


右から3人目が若き日の加藤恒忠、右から2人目がこれも若き日の秋山好古
コメント
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