不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

大江氏の異様さを法廷に晒す! 大成功の模様

2007-11-11 07:47:52 | ★集団自決

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 沖縄タイムス 2007年11月10日(土) 朝刊 1・26面  

大江氏「軍命」主張/「集団自決」訴訟

 【大阪】沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、大江健三郎氏の「沖縄ノート」などの書籍に住民に自決を命じたと記され、名誉を傷つけられているとして、島に駐屯していた部隊の元戦隊長らが大江氏と著作発行元の岩波書店に、出版の差し止めなどを求めている訴訟の本人尋問が九日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。午後から大江氏が出廷。「集団自決」について「軍による命令と考えている」と語った。
 「沖縄ノート」の記述などをめぐって原告と被告双方の質問に約一時間ずつ答えた。

 大江氏は「集団自決」について「太平洋戦争下の日本軍、現地の第三二軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造によって、島民に強制された」とし、「日本軍による責任は明確で、『沖縄ノート』の記述を訂正する必要は認めていない」と述べた。

 原告側が戦隊長らの名誉棄損を主張している「沖縄ノート」の各記述について、大江氏は「日本軍の命令系統の最先端にいる責任者として、責任を負っている」としたが、「注意深く、隊長個人の名を書くことはしなかった。個人の名を挙げるよりも、問題が明確になる」とし、隊長個人は非難していない、との認識を示した。

 原告側は、大江氏が語った「タテの構造」の話は、「沖縄ノート」では説明されておらず「一般読者の注意と読み方に照らし、そうは読めない」と反論。各記述についてそれぞれ「戦隊長個人を非難している」などとただしたが、「文章を読み違えている」とする大江氏と平行線をたどった。

 大江氏は「『集団自決』が美しく、清らかだという欺瞞に反対するのが私の仕事だと思う」とし、「愛国心のために自ら命を絶った、国に殉じて美しい心で死んだと、事実をゆがめること自体が人間をおとしめている」と語った。

 午後の尋問では、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟秀一氏(74)も証言。「兄は尊敬の対象」だったとした上で、沖縄タイムス社の「鉄の暴風」で、嘉次氏が住民に「集団自決」を命じたと書かれ、「ショックだった。人殺しの大悪人と書かれているわけだから」と述べた。曽野綾子氏の著作「ある神話の背景」で、「兄の無罪がはっきりし、兄への親近感を取り戻せた。家族も戦隊の方々も心の支えになっていると思う」などと語った。

 被告側の反対尋問では、命令を出したことを生前、嘉次氏に確かめたことはないと述べた。


     ◇     ◇     ◇     
大江氏、身乗り出し反論


 書き上げたのは個人への断罪ではなく、琉球処分以後、大和世、戦世、アメリカ世と続き、施政権返還後も続きそうな沖縄への抑圧とそこに暮らす人々の苦しみ。それに対する日本本土の人々の無関心さ、無自覚さ。そうした自分を含む「日本人」への反省と問いかけだった。「沖縄ノート」(岩波新書)の著者、作家・大江健三郎さん(72)は、なぜこの本を書き、なぜ「集団自決(強制集団死)」を取り上げたのか、法廷で言葉を紡いだ。

 濃紺のスーツ姿で証言台に立った。

 「集団自決」を命じた日本―日本軍―三二軍と連なる「タテの構造」と、「その先端にいた渡嘉敷島の元戦隊長(海上挺進第三戦隊の戦隊長・故赤松嘉次さん)の沖縄再訪」に、沖縄と本土にある差異に無知、無自覚な日本人の意識が表れているとの考えを述べた。

 「いまでも慶良間諸島の『集団自決』に日本軍の軍命、強制があったと考えるか」との問いには「沖縄の新聞、本土の新聞にそれを示す新たな証言が掲載され、確信を強くした」と答えた。

 原告側は反対尋問で、「沖縄ノート」の記述の解釈や、根拠について詳細な説明を求めた。

 「罪の巨塊」という言葉で、個人を断罪しているのではないか。作家・曽野綾子さんが著作「ある神話の背景」などで「沖縄ノート」の記述を批判しているのと同様の主張を尋問でぶつけた。

 大江さんは「罪とは『集団自決』を命じた日本軍の命令を指す。『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考えて創作した言葉」「私は『罪の巨塊の前で、かれは…』と続けている。『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」と説明、「曽野さんには『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている」と指摘した。

 原告側は、別の記述を引用し「赤松さんらの個人の責任を追及しているように読める」などと、何度も詰め寄った。

 大江さんの反論にも熱が入った。顔を紅潮させ、身を乗り出すように「それは誤読です」「そうは読めません」と強く否定した。繰り返される原告側の主張を諭すように「説明しましょうか」と申し出て、「個人に対してではなく、『集団自決』を慶良間諸島の人々に命じ、強いた構造への責任を問う」ことが記述の主眼であることなどを説いた。

 「赤松隊長はどの時点で『集団自決』を予見できたと考えるのか」との質問には、「手榴弾が住民に配られた時点」と答え、体験者の金城重明さんや吉川勇助さんの証言を根拠に挙げた

 二時間にわたる尋問を終えた大江さんは、大きく肩を上下させてシャンと背を伸ばし、正面を見据えて証言台を後にした。(略)


 
                       ◇

ノーベル賞作家大江健三郎氏が法廷で被告席に立つ。

これだけでマスコミにとっては大きな話題だろうが、沖縄2紙にとっては特に力の入る「事件」である。

沖縄タイムスと琉球新報はこの「集団自決裁判」に対してタッグを組んで被告大江・岩波側を一貫して支援してきた。

当然、昨日の地元2紙は大江証言が一面トップを大見出しが飾ったが、両紙のウェブサイト・記事を見る限り、裁判支援とはいってもその力の入れように大きな差が見られた。

そもそも裁判の発端が沖縄タイムスの『鉄の暴風』であり、大江氏の証言は全て『鉄の暴風』の信憑性に丸投げしている以上、沖縄タイムスが「当事者」として必要以上に力が入るのも無理はない。

読者のコメントにも「・・・それよりも、今日の沖縄タイムスの記事の偏向ぶりに驚きました」と」いった沖縄タイムスの異常報道振りを訴えている。

上記引用記事も詳しいのは助かるが、それにしても長い!

一方琉球新報はいきがかり上一面トップで大見出しが踊るのはタイムスと同じだが、比較的冷静に裁判を眺めているように感じた。(あくまでタイムスに比較してだが・・・)


■渦の中では分からぬこと■

「11万人」集会の余熱が残る一月前。

動員数字の「11万人」に疑問を呈したらこんな事を言われた。

「参加もしていない者に何が分かる。 私は参加したがあの熱気は紛れも無く11万人から12万人以上はいた。」

渦の中に身が巻き込まれるとその渦の大きさが分からない。

集団の中に身を置くとその実態がつかめなくなることは小学生でも分かることだ。

ところが戦後雨後の竹の子のように沖縄で発刊された「沖縄戦記本」にはこの「渦の中」の理屈は通用しなかった。

沖縄人により体験者としての「沖縄戦」を記した本は何の検証も無く無批判に出版され続けた。

中でも太田元県知事が書いた一連の沖縄戦記物は自分のイデオロギーに合うようにした資料捏造の宝庫である。

資料捏造の例として「世界日報」が大田昌秀氏著の昭和五十二年に出された『写真記録 これが沖縄戦だ』(琉球新報発行、那覇出版社発売)を検証している。

≪ 問題の写真には、「米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(6月21日)」という説明文が付けられる。米軍の撮影した写真に付けられた説明が、「本島南端で(米軍の)砲撃による死」だと、大田氏は十分、承知していた。だから説明の冒頭で「米軍の説明では、……」と付けた。だが大田氏は、この写真を集団自決の証拠写真に仕立て上げたいという強い誘惑に負けてしまった。 ≫(世界日報)

太田氏の著作の捏造資料を検証するだけで一冊の本が出来るほどなので捏造検証はこれで終わる。

太田氏の著作を例にしたのは、沖縄で出版された戦記本を徒(いたずら)にあげつらうためではない。

本土の知識人の沖縄に対する歪んだ見方を説明するために沖縄人著作の「沖縄戦記本」を例に出したわけだ。

現地の人が現地で書いた「沖縄戦記本」は沖縄戦を体験していない本土知識人の一切の批判は許されなかったのだ。

太田元知事も膨大な量の「沖縄戦記」を書いているが、最も本土知識人に影響を与えたのが係争中の「集団自決裁判」にも関わる『鉄の暴風』である。

批判を許さぬ沖縄戦記本に始めて 真正面から批判の矢を放ったのが曽野綾子氏の『ある神話の背景』(「集団自決の真相」)であることは周知の通りである。

 

■大江氏は「集団自決」の証言者ではない■ 

ノーベル賞作家が「集団自決裁判」で法廷に立つと言うことで、マスコミは大騒ぎした。

だが良く考えて見たら、果たして彼に「集団自決」の証言者としての資格が有るのだろうか。

あの日あの時、大江氏はあの場所には居なかった。

しかも問題の『沖縄ノート』を書くに当たり一度たりとも現地取材や断罪する人物に話を聞くことさえしなかった。

ただ彼の思想信条である「反日・反日本軍」と見事にまで一致した『鉄の暴風』の記述を、

一切の検証も無く信じ込めば済むことであった。

「集団自決」の証言不適格者とも思える大江氏の「証言骨子」は琉球新報記事によると次のようになる。

①集団自決は軍の命令だと考えている。

②文献、資料のほか執筆者らから話を聞いて結論に至った。

③命令は隊長個人の性格、資質で行われたものではなく軍隊が行ったものと考え、個人名は出していない。

③その後も確信は強くなっている。 訂正の必要は認めない。

これでは論理もへったくれもあったものじゃない。

①「~考えている」⇒考えるのは勝手だが、一体何を根拠に考えたのか。

つまり②の「文献、資料ほか執筆者」から聞いた話しが根拠であり、

言い換えれば『鉄の暴風』を読んで著者の太田良博記者の話を聞いたと言うこと、つまり伝聞だけで一冊の本を書き上げたことになる。

勿論、伝聞元の『鉄の暴風』を盲信するという但し書き付きで。

伝聞、盲信、これではまるでカルト宗教と同じ行動パターンではないか。

③「個人名を出していない」を根拠に名誉毀損を逃れるつもりのようだが、『沖縄ノート』記述の根拠にした『鉄の暴風』で隊長の個人名を挙げて極悪人として糾弾しており同時に数多くの沖縄戦記でこれが引用されている以上、個人名を挙げなくとも隊長名には誰でも容易にたどり着く。

これは「集団自決裁判」で個人名を挙げなくとも「老醜を晒すノーベル賞作家」と言えば誰でも大江氏の名を思いつくのと同じことだ。

 

■ノーベル賞作家の文学講座■

新報報道によると、双方の見解の違いは歴史観だけではなく表現の解釈にも及んだという。

大江氏:≪太平洋戦争下の日本軍、現地の第三二軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造によって、島民に強制された」とし、「日本軍による責任は明確で、『沖縄ノート』の記述を訂正する必要は認めていない」≫

原告代理人:≪大江氏が語った「タテの構造」の話は、「沖縄ノート」では説明されておらず「一般読者の注意と読み方に照らし、そうは読めない」と反論。各記述についてそれぞれ「戦隊長個人を非難している」≫

大江氏:「文章を読み違えている」

本に書かれてもいない著者の長々とした解説(タテの構造云々)を聞いても、「文章を読み違える」ような『沖縄ノート』。

読者が読み違えるような悪文で個人攻撃をして、しかもこれが名誉毀損に当たらないという著者の意見には驚くしかない。

文章論はまだ続く。 

まさに大江文学論の独壇場だ。

≪「罪とは『集団自決』を命じた日本軍の命令を指す。『巨塊』とは、その結果生じた多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考えて創作した言葉」「私は『罪の巨塊の前で、かれは…』と続けている。『罪の巨塊』というのは人を指した言葉ではない」と説明、「曽野さんには『誤読』があり、それがこの訴訟の根拠にもつながっている」と・・・≫

うーん、奥が深くて不可解だ。

同じ作家の曽野氏が「誤読」したのなら曽野氏の方がまともなのだろう。

ちなみに筆者個人の『沖縄ノート』を読んでの感想をいえば「高名な文学者の文章とはかくも悪文なものなのか」という一言に尽きた。

この本を読んで「罪」とは「集団自決」を指し、「巨塊」とは「遺体」であると理解できる読者が果たして何人居るのか。

このように深遠且つ難解極まる悪文、・・もとい、名文でノンフィクションを書き、そして他人を断罪して、

「誤読するものが悪い」と嘯くことが許されるものだろうか。

証言台で著者自ら自著の「誤読されやすい」部分を滔々と解説したようだが、残念ながら一般の読者は著者自らの解説を聞く幸運はない。

 

■独壇場の「大江ワールド」■

筆者もそうだが、次の大江氏の尋問の詳細を読んで歯軋りした人も居たと思う。

【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」

原告代理人には、もっと鋭く突っ込んで相手を立ち往生させて欲しかったと・・・・。

ところが実際は大江氏の文学論の独演会の感も否めない。

だが、証人尋問終了後開かれたと言う記者会見の原告代理人の発言で納得した。

記者会見の様子を琉球新報は次のように伝えている。

≪同席した(原告側)弁護士は「難しい概念を持ち出す大江ワールドが展開された。 その異様さがさが裁判長に伝わればいい。 彼の言論の不誠実さを証言から感じとった」と話した。≫(琉球新報11月10日 25面ーウェブサイトには載っていない)

なるほど、大江氏に難解な文学論をしゃべるだけしゃべらされて、

「その異様さを法廷に晒す」

これが原告側の作戦だったのだ!

その意味では大江氏「文学論講座」は大成功だった模様だ。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

 

沖縄ノート (岩波新書)
大江 健三郎
岩波書店

このアイテムの詳細を見る

 

 

コメント (2)

絶品の沖縄そば

2007-11-11 05:43:03 | 未分類

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

仲間内の居酒屋談義で沖縄そばが話題になったことがある。

名護のそばが美味い、いや首里のさくらそばだ、と諸説が入り乱れ、酔いにまぎれて結局収拾が付かなくなってまった。

さもありなん。 蓼(たで)食う食う虫も好き好きだ。 

所詮は嗜好、好みの問題。

私は断然「どらえもんそば」に勝るそばを知らないと主張した。

・・・が、「どらえもんそば」なんてフザケタ名前のそばしか知らないのでは沖縄そばを語る資格無し、と誰かに一蹴された。

沖縄そばの有名店には地名を付けたものが多い。

那覇そば、名護そば、我部そば、与根そば、宮古そばに、おっと忘れちゃいけない、与那原そば等々。

その意味では「どらえもん」とは随分フザケタネーミングだ。

「どらえもんそば」は宮古そばに分類される。

沖縄そばには、御馴染の三枚肉やカマボコが具として麺の上に乗っている。

宮古そばは一見、丼の上に具の姿がない。

が、心配には及ばない。

麺の下に三枚肉やカマボコが慎ましやかに身を潜めている。

それが宮古そば、・・そう、どらえもんそばなのだ。

どらえもんそばの名前の由来は知らない。  

が、ともかく、先ず麺が美味い。

昔の麺の感触を残している。 

麺の下から具が顔を出すのはイナバウアー、・・・じゃなく、イナイイナイ・バー、それはこの際ドウでもよい。

汁が淡白で脂ぎっていない。 その割にダシが利いているのが上品だ。

一昔前、国道58の安謝橋から首里の儀保に向かう道沿いに「宮里そば」という瓦葺屋根の大きなそば屋があった。

そこのそばもあっさりタイプで一定のファンがいた。

が、「やはり沖縄そばは味クーターに限る」という客が多く、「那覇そば」「我部そば」の「味クーター・タイプ」に押されて結局は閉店してしまった。

その当時の客は殆どウチナンチュだった。

観光客の沖縄そばファンが増えた昨今だったらあの店も繁盛していたかも知れない。

一寸時代が早すぎた感がする。

あっさりタイプで現在地元客にも観光客にも人気を呼んでいるそば屋がある。

安謝橋から海側、レクセンター方向へ行く道沿い左側にある「あじゃず」。

「あじゃず」は安謝洲とア・ジャズをかけた名前で店内には沖縄そば屋らしからぬジャズの調べがいつも流れている。 そのミスマッチも売り物のようだ。


我が家の近辺の商店街が消えていくと言う嘆き節を以前に書いた。

久し振りに近くのマックスバリュー(スーパー)に行ってみた。

駐車場敷地内にあった回転寿司屋と和食屋が閉店していた。

寂しい限りだ。

和食屋の後に「あがり屋」と言う沖縄そば屋が新開店していた。

この近辺は沖縄そばの激戦地で50メートル先に我部そばがあり、200メートル先にはあの「どらえもん」がある。
 
さらに知る人ぞ知る「高江洲そば」があり「てだこそば」もある。

11時過ぎで昼飯には一寸早かったが新開店を祝して「あがり屋」にあがりこんで見た。

妻は普通の「沖縄そば 540円」、私はその店一押しの「あぶりソーキそば 690円」を注文した。

麺は独特の歯ごたえがあるストレート。

あっさりタイプの汁はアグー豚ダシでコクがあって上品な味であった。

「あぶりソーキ」はトロトロに煮込んだソーキ肉を火にあぶり香ばしくして、骨からほぐして、それを別皿に山葵(ワサビ)を添えて出す。 

これを通常どおり丼に入れてそばの具として食するのもよし。

口の中でとろける感触。

添付のワサビにつけて食うのも又変わった美味さであった。

豚のあばら肉を火にあぶり、香ばしく調理した技に店主の工夫が光った。

ワサビを付けて食うあぶりソーキ肉は泡盛の肴にしたら絶品だろうと思った。

メニューはそばの他に沖縄家庭料理が豊富にあった。

一事が万事。 他のメニューも美味そうに思える。

全国チェーン店だけでなく、地元の店が繁盛し長続きしてくれればいいが。


★蛇足1:「沖縄そば」は方言では「ウチナースバ」と発音する。

★蛇足2:「ソーキ」: あばら。 ソーキ骨(ブニ)はアバラ骨。肋骨。「ソーキそば」は豚のアバラ骨付き肉が具のそば。
沖縄では女性に現(うつつ)を抜かすことを、「ソーキ骨を抜かれる」と例えることから「ソーキ」とは「正気」からの訛りだという説もある。

★蛇足3:「味クーター」:味にこくがある。 味がこってりしている。

★蛇足4:「アグー」:沖縄土着の黒豚。米軍占領時代までは沖縄豚の主流であったが、日本復帰とともに白豚に取って代わられた。 鹿児島に黒豚の本家を奪われて、最近アグー復活運動が起きている。
因みに「薩摩芋」も本家は沖縄で、鹿児島では薩摩芋の事を琉球芋と呼んでいる。

★蛇足5:本文は去年のエントリーに一部加筆したものです。

★蛇足6:あがり屋情報http://r.tabelog.com/okinawa/rvwdtl/353983/

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (4)

老醜を晒すノーベル賞作家  毒を食らわば皿まで

2007-11-10 10:12:40 | ★集団自決

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

大江健三郎氏「軍命令説は正当」と主張 沖縄集団自決訴訟11.9 21:44  

 先の大戦末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に集団自決を命じたとする本の記述は誤りとして、当時の守備隊長らが、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償や書物の出版・販売差し止めなどを求めた訴訟の口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であり、本人尋問が行われた。大江氏は「参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊の命令という結論に至った」と述べ、軍命令説の正当性を主張した。今回の訴訟で大江氏が証言するのは初めて。  

 一方、大江氏に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)は「(自決用の弾薬などを求める住民に対し)死んではいけないと言った」と軍命令説を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一さん(74)は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と批判した。

 訴訟は、来年度の高校日本史の教科書検定で、集団自決を「軍の強制」とした記述を修正した根拠にもなったが、その後、教科書会社が削除された記述を復活させる訂正申請を出している。

 大江氏は座間味、渡嘉敷両島の元守備隊長2人が直接自決を命じなかったことは認めたうえで、住民に手榴(しゅりゅう)弾が配布されたケースがあることを指摘。「当時は『官軍民共生共死』の考え方があり、住民が自決を考えないはずがない」と軍の強制があったと述べた。自著『沖縄ノート』について「強制において(集団自決が)なされたことを訂正するつもりはない」と語った。

大江氏言葉に詰まる場面も 沖縄集団自決訴訟11.9 23:08  

 元守備隊長が集団自決を命じたのか否か。9日、大阪地裁であった沖縄戦の集団自決をめぐる訴訟の本人尋問では、“無実”を訴える原告側と、軍命令説を崩さない大江健三郎氏の主張がぶつかりあった。大江氏の尋問時間は約2時間に及び、軍命令説の根拠を重ねて問う原告側弁護士に対し、言葉に詰まる場面もみられた。閉廷後、原告の元守備隊長は「(大江氏の主張は)自分の書いた本の弁護ばかりだった」と不満を述べた。

 この日午後からあった原告の一人で元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、秀一さん(74)と大江氏の本人尋問。先に秀一さんが証言台に立った。

 冒頭、渡嘉敷島での軍命令説を記述した大江氏の著書『沖縄ノート』の感想を原告側代理人から聞かれた秀一さんは、一気に思いのたけをぶちまけた。

 「兄に会ったこともなければ渡嘉敷島に行ったこともないのに、兄の心の中にまで入り込んだような内容だった。まるではらわたを火の棒でかき回すようなやり方に憤りを感じた」

 被告側の当事者席から身を乗り出しながらも、表情一つ変えない大江氏。秀一さんは曲がった背中を証言台で支えながら、「『私は集団自決の命令をしていない』という手記を残した兄の無念を晴らしたい」と力強く訴えた。

しかし、その後、証言台に進んだ大江氏は、被告側代理人の尋問に答え、淡々とした表情で「日本軍総体としての命令、強制はあった」と述べ、「著書の記述を訂正するつもりはない」と言い切った。

 また、大江氏は軍が集団自決の約1週間前、住民に手榴(しゅりゅう)弾を手渡した点に言及。「(赤松元大尉は)集団自決を予見できた」と述べたため、原告側代理人が「米軍の上陸前なのに予見できるわけがない」として根拠を繰り返し追及。大江氏は言葉に詰まり、気色ばむ場面もあった。

 閉廷後、大阪司法記者クラブで会見した原告の秀一さんは「大江さんは著書で個人攻撃をしているのに、問題点をすり替えている」。もう一人の原告の元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)も「ダラダラとした尋問だった」と批判した。

                      ◇

一言で言えば昨日の大江証言に、一つとして説得力のあるものは見られなかった。

>参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊の命令という結論に至った

ここで言う参考資料とは『鉄の暴風』で、執筆者とは沖縄タイムスの大田良博記者のこと。

大江氏にとってネタ本とその作者を信じること、

それに作家としての想像力、それが『沖縄ノート』著作の全てであった。

ノーベル賞作家大江健三郎氏の『沖縄ノート』とそのネタ本『鉄の暴風』の関係を考えていて、ふとこんなことを考えてしまった。

 もし、高名な作家が稀代の詐話師・吉田清治の著書『私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行』をネタ本にして、

「従軍慰安婦」の物語を創作してもその文学作品の評価とネタ本とは別の議論だろう。

だが、同じネタ本を鵜呑みにして「従軍慰安婦」に関すいる歴史ドキュメントを書いたら、そのネタ本の信憑性がそのままこの作家の信用を壊滅させることは論を待たない。

言うまでもないが、吉田清治の著書『私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行』が全くのデタラメな創作であったことは現代史家秦郁彦氏が綿密な実地調査で証明している。

 

昨日の大阪地裁に大江氏は証言台に立ったが原告が提示する「同じ土俵」に立つことは無かった。

いやむしろ立つことが出来なかったというのが正しい。

「子どもにも分かりやすい」説明には程遠く、「理」を避けて「情念」による場外(土俵外)乱闘に持ち込む以外に戦う手段を持ち合わせていなかったのだ。

>大江氏は軍が集団自決の約1週間前、住民に手榴(しゅりゅう)弾を手渡した点に言及。「(赤松元大尉は)集団自決を予見できた」と述べた・・

自決現場に居合わせず、敵の無差別艦砲射撃に「軍民共に」晒されている状況で隊長に対して大江氏は「自決を予見できたから止めるべきだった」と迫る。

原告側代理人が「米軍の上陸前なのに予見できるわけがない」として根拠を繰り返し追及したことに、

大江氏は言葉に詰まり、気色ばむ場面もあったという。

その一方、「予測・予見」に関して次のようなやり取りもあった。

原告代理人「赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読んだのは誤読か」

 大江氏「内面は代弁できないが、赤松さんは『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しいために読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」

 原「作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」

 大江氏「(傷つけるかもしれないという)予想がつくと思いますか

 原「責任はない、ということか」

 大江氏「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」

戦時中の敵軍上陸直前で艦砲射撃の無差別攻撃の状況下で隊長には「予見」を要求し、

平和な時代の自分の「作品」の中の個人攻撃で傷つくことが「予期できない」と強弁する。

この人物の人権感覚は一体どうなっているのだ。

かつて筑紫哲也氏は「場」と言う言葉を使って糾弾されたことがあるが、大江氏は赤松氏のことを「者」と罵倒しても傷つくことが予期されなかったのだろうか。

1970年3月、渡嘉敷島の慰霊祭出席のため沖縄に訪れた赤松嘉次元隊長が抗議団に阻止させる記事を見て、赤松氏の「犯罪」の糾弾を開始する。

 大江氏は『沖縄ノート』(岩波新書)で次のように書いている。

新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。...かれは25年ぶりのと生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(208頁)

当時まだ米軍占領下にあった沖縄は、大江氏の絶対平和主義にとっては、広島、長崎と並ぶ「平和の聖地」であった。

地元の記者が「沖縄戦の惨状を軍と共に行動しつぶさに報告した」とされる『鉄の暴風』に見られる反日的記述には一点の疑いを挟まなかった。

参考ネタ本は鵜呑みにすれば済むことだった。

絶対平和主義の大江氏にとって『鉄の暴風』は一冊のバイブルであり、

これと一片の新聞記事があれば自著『沖縄ノート』で赤松隊長をアイヒマン(ナチの戦犯)並べて断罪するには十分過ぎるほど想像力は豊かだった。

赤松氏の弟秀一氏は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と怒るが、

そこに描かれる赤松隊長は「残虐非道」の悪魔の象徴であり、悪魔を糾弾するのに一々本人に取材する必要は無かったのだ。

曽野綾子氏の調査により『鉄の暴風』のデタラメさが指摘された頃、大江氏は他の沖縄戦記本がそうした様に、

訂正するか絶版にするかの選択肢はあった。

だが、社会主義が1990年前後に崩壊し、それに寄生していた大江氏にとって沖縄は反日運動の最後の砦であり、

『鉄の暴風』の初版の発刊者である朝日新聞と

『沖縄ノート』の発刊者岩波書店の

【朝日=大江=岩波=沖縄】という左翼メディア結束の一角を崩すわけにはいかなかった。

大江氏は「日本軍総体としての命令、強制はあった」と述べ、「著書の記述を訂正するつもりはない」と強気の態度を崩さない。

日本軍総体の責任を問うのならば、島の守備隊長を者として罵る必要は何処にあるのだ。

だが、絶対平和主義のシンボルが今更逃げるわけには行かない。

大江氏はその時点で「毒を食らわば皿まで」の心境に達していたのだろう。

彼らが腐臭を放って社会主義の幻想にしがみついているかぎり、

「戦後レジーム」はしぶとく生きながらえ続ける。

大江氏は沖縄タイムスと手に手を取って滅びの道を驀進するつもりなのだろうか。

高名な作家が晩節を汚すのは見たくもないし、老醜を晒すのも見たくない。

 

法廷が「理」で戦う場であるとすれば、大江、岩波側は既に勝負に負けたことになる。

「軍命の有無」という「理の土俵」に上がらない(上がれなかった)のなら何を争おうというのだ。

これまでの被告側の証人(宮城晴美氏、金城重明氏、大江健三郎氏)の証言はいずれも「情念」で満ちており、その中に「理」の一欠けらでも見つけるのは困難だ。

【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」11.9 20:49

【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】

 

大江証言でこの裁判は「原告勝訴」と思った方
クリックお願いします。

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (3)

【沖縄集団自決訴訟の詳報】 梅沢裕さん(90)本人尋問

2007-11-09 17:36:14 | ★集団自決

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】11.9 15:12 (1/4ページ)

  沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。

 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」

 梅沢さん「はい」

 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」

 梅沢さん「はい」

 原「当時はどんな装備だったか」

 梅沢さん「短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」

 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」

 梅沢さん「戦えない」

 原「陸上戦は予定していたのか」

 梅沢さん「いいえ」

 原「なぜ予定していなかったのか」

 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」

 原「どこに上陸してくると思っていたのか」

 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」

 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」

 梅沢さん「していない」

 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」

 梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」

 原「5人はどんな話をしにきたのか」

 梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」

 原「誰から言われているという話だったのか」

 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】 (2/4ページ)
2007.11.9 15:12
 
 原「どう答えたか」

 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」

 原「弾薬は渡したのか」

 梅沢さん「拒絶した」

 原「5人は素直に帰ったか」

 梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った」

 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」

 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」

 原「その後の集団自決は予想していたか」

 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」

 原「集団自決のことを知ったのはいつか」

 梅沢さん「昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」

 原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」

 梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」

 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」

 梅沢さん「とんでもない」

 原「島民に餓死者はいたか」

 梅沢さん「いない」

 原「隊員は」

 梅沢さん「数名いる」

 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」

 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」

 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」

 梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】 (3/4ページ)
2007.11.9 15:12
 
 原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」

 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」

 原「団長以外の4人の運命は」

 梅沢さん「自決したと聞いた」

 原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」

 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」

 原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」

 梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」

 《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》

 原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」

 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」

 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」

 梅沢さん「1人で行った」

 原「会って、あなたは何と言ったか」

 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」

 原「そうしたら、何と返答したか」

 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」

【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】 (4/4ページ)
2007.11.9 15:12
 
 原「どんな話をしたのか」

 梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」

 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」

 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した」

 原「その反対を押し切ったのは誰か」

 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」

 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」

 梅沢さん「資力がなかったから」

 原「裁判で訴えたいことは」

 梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」

 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」

 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」

 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」

 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】
2007.11.9 17:12
  《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》

 被告側代理人(以下「被」)「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたのは知っていたか」

 梅沢さん「島の長が島民に教育していたと思う」

 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」

 梅沢さん「それくらいは浸透していたと思う」

 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」

 梅沢さん「そういうことは、新聞や雑誌が言っていたことだ」

 被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」

 梅沢さん「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」

 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」

 梅沢さん「私から基地隊長にお願いした」

 被「軍の装備について。軍にとって手榴(しゅりゅう)弾は重要な武器か」

 梅沢さん「はい」

 被「女子青年団長が軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」

 梅沢さん「はい。団長から聞いた」

 被「(座間味村史を示し)『民間人だし足手まといになる』『万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いている女性のことは知っているか」

 梅沢さん「知らない人だ」

 被「こんなことがあった、というのは知っているか」

 梅沢さん「こんなことはありえない」

 被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという女性の手記は知っているか」

 梅沢さん「言うはずがないと思う」

 被「別の女性は『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」

 梅沢さん「そういうことは知らないし、ありえないと思う」

 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」

 梅沢さん「ありえない」

 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」

 梅沢さん「知らない」

 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」

 梅沢さん「知らない」

 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」

 梅沢さん「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」

 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」

 梅沢さん「同じだ」

 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」

 梅沢さん「言った」

 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」

 梅沢さん「言った」

 《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》

 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」

 梅沢さん「違う」

 被「別の機会の会話の録音テープがあるのだが、助役の弟が『公表しないでほしい』と言ったのに対し、あなたは『家族や知人には見せる。公表は考える』と答えているが、間違いないか」

 梅沢さん「はい」

 被「じゃあ、家族に見せるためと、証言を頼んだんでしょう」

 梅沢さん「それだけのためじゃないですよ」

 被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」

 梅沢さん「去年」

 被「どういう経緯で読んだのか」

 梅沢さん「念のため読んでおこうと」

 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」

 梅沢さん「ない」

 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」

 梅沢さん「ない」

 被「昭和55年に出した島民への手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響下にあり、まったく遺憾である』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」

 梅沢さん「私は『軍は関係ない』とは言っていない」

 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」

 梅沢さん「全然認めていないわけではない」

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》

 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという軍令を島民に出したか」

 梅沢さん「出していない。兵も配置していない」

 原「軍は何かしたのか」

 梅沢さん「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」

 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」

 梅沢さん「ありえない」

 原「軍は全島に展開していたからか」

 梅沢さん「はい」

 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、(曽野綾子さんの著書で軍命令説に疑問を示した)『ある神話の背景』は読んでいたのか」

 梅沢さん「はい」

 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」

 梅沢さん「知っていた」

 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅沢さんの名前は書かれていなかったという意味か」

 梅沢さん「そういう意味だ」

 《被告側代理人も再び質問》

 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」

 梅沢さん「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」

 《梅沢さんの本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント

「同じ土俵」に立つか 大江氏の論点は?◆朝日社説

2007-11-09 12:13:37 | ★集団自決

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

沖縄タイムス 連載「11・9「集団自決」訴訟尋問」(1)  
 
(11月5日朝刊社会面)
(1)隊長命令の有無・旧軍復権狙い提訴/「名誉回復」透ける思惑

 (略) 沖縄戦時の慶良間諸島における住民の「集団自決(強制集団死)」で、住民に命令を出したと書物に書かれて、旧日本軍の元戦隊長らが「すさまじい人格的な非難」を受け続けているという。被告はノーベル賞作家の大江健三郎さんと、著作「沖縄ノート」などを出版している岩波書店。

 「沖縄戦の問題は日本人として大変に重要で、世に語り継いでいかなければなりません。しかしながら、そういう重大な歴史を決定付ける事実がないがしろにされてきた。沖縄戦をめぐる戦後の言論空間を見直したい」

 訴訟の最大の争点は、戦隊長が住民に直接「集団自決」を命じた事実があるかどうかだという。代理人や支援者の中には「靖国応援団」を自称する人たちの姿も。元戦隊長ら個人の名誉回復を強調する背後に、皇軍復権の狙いがちらつく。

 軍による命令や強制と戦隊長命令とを明確に区別する論理に、沖縄平和ネットワークの津多則光・沖国大非常勤講師は、沖縄戦の実相をとらえる上でナンセンスと話す。

 住民に対する日本軍の加害行為だった住民虐殺や食料強奪、壕追い出しを含め、軍や戦隊長による「集団自決」への命令・強制はもともとあったと指摘。戦隊長は部隊の最高責任者として、それを止めずに行使したかどうかだととらえる。

 岩波側の支援者の一人は「隊長命令が重要ではないと強調するほど『結局、隊長による個別の命令はない』という原告の主張を勢いづかせる。どう支援すればいいのか初めは距離感がつかめなかった」と振り返る。

 津多さんは「それでも隊長命令が争点と言うなら放っておけない。同じ土俵に上がって勝負をつけ、こちらの土俵に引っ張り込まねば」。提訴から二年余、被告と同じ立場で原告側の主張に分析を重ね続けている。(略)

                     ◇ 

2005年8月の提訴から二年三ヶ月、今日の本人尋問で訴訟は愈々大詰を迎える。

当初出廷を拒否したといわれる被告大江健三郎氏も証人喚問という形で原告梅沢元隊長本人、そして元赤松隊長の実弟と法廷で対決をする。

ある意味では裁判の当事者である沖縄タイムスは、

今日の裁判を山場と見たのか、11月5日より連載で

「11・9「集団自決」訴訟尋問」を掲載し始めた。

当事者なら止むを得ない得ないだろうが、

記事内容は「被告側応援記事」に徹している。

これまで主張してきた、

「軍命の有無は問題でない」(林教授)

「軍官民共生共死一体化」(宮城晴美氏証言)

「軍命なしに集団自決はありえない」(金城重明氏証言)

といった抽象論では不利と見たのか作戦を変更を迫られているようだ。


>隊長命令が重要ではないと強調するほど『結局、隊長による個別の命令はない』という原告の主張を勢いづかせる。どう支援すればいいのか初めは距離感がつかめなかった」

>それでも隊長命令が争点と言うなら放っておけない。同じ土俵に上がって勝負をつけ、こちらの土俵に引っ張り込まねば」

いつまでも「論点ずらし」を続けても、

法廷という「論理の場」では被告が不利になることに今頃気がついたのだろうか。

早めに「同じ土俵」に上がって、論理で戦って欲しいものだ。

被告側支援団体の山口剛史琉球大学準教授も、

「同じ土俵」に気がついたのか、次のように述べている。

隊長の直接命令の有無という原告側が敷いた土俵に大江氏が乗るかどうか。 大江氏がどう準備しているかも注目だ。(琉球新報 11月9日)

                                             ◇

「集団自決裁判」では沖縄タイムスと共に当事者と言える朝日新聞(『鉄の暴風』の初版を発行)が大江氏出廷の日に「集団自決」辛味の社説を書いた。

だが、記事内容は大江健三郎氏の出廷については一言も触れず教科書検定に終始している。

そう、朝日新聞はこの裁判では既に敵前逃亡をしている。

朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 

スルーしようかとも思ったが一応付き合っておこう。

それにしても粗雑な論旨だ。

朝日新聞 社説 2007年11月9日

集団自決検定―審議会も問われている

 沖縄戦の「集団自決」をめぐる教科書の検定で、教科書会社が「日本軍の強制」を復活させる訂正申請を文部科学省に出した。文科省は検定調査審議会に諮って年内に結論を出すという。

 問題の発端は、今春の検定で「集団自決は軍に強いられた」という趣旨の記述が軒並み削られたことだ。訂正を申請した各社の執筆者らによると、新たな記述は、多少表現を変えてはいるものの、元の記述と同じ趣旨を盛り込んだという。

 私たちはこれまで社説で、検定を撤回すべきだと主張してきた。文科省は従来、「日本軍の強制」を認めてきた。それを覆さなければならないような理由が見当たらないからだ。

 文科省は、軍の命令を否定する証言が新たに出てきたと言う。

 しかし、軍の強制を証言する住民は現に数多くいる執筆者らは「すべての集団自決に軍の強制があった」と書いているわけではない。それにもかかわらず、「軍の強制」という表現をすべて削らせたのは乱暴極まりない。

 検定は、文科省職員である教科書調査官が「調査意見書」をつくり、それをもとに審議会が結論を出す仕組みだ。

 文科省は今回、検定の撤回には応じず、教科書会社に訂正申請を出してもらい、改めて審議会にかける道をとった。

 本来は検定を撤回するのが筋だが、せめて審議会はきちんと間違いを認め、記述を元に戻させなければならない。

 それにしても不可解なのは、なぜ審議会が「軍の強制」を消し去る調査意見書をそのまま通したのか、ということだ。調査官の姿勢はもちろん問題だが、その意見書について特に異論がなかったというのだから、驚いてしまう。

 審議会は学者や専門家で構成されている。教科書の記述が現在の研究実績から外れていないか論議する。今回のように文科省側から問題のある意見書が出てきた場合はブレーキ役となる。それが審議会に求められる役割だろう。

 いまの審議会には沖縄戦の研究者はいないという。しかし、それは意見書を黙認した言い訳にはなるまい。訂正申請の審議では、沖縄戦の専門家から意見を聞くという。なぜ、最初からそれができなかったのか。

 気になるのは検定当時の政治状況である。「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍政権という時代の空気が、歴史の見直しというかたちで、文科省だけでなく、お目付け役の審議会にも影を落としていなかったか。

 とんでもない検定がまかり通ったことについて、文科省だけでなく、審議会もいきさつを明らかにする責任がある。

 渡海文科相は審議会のあり方について再検討すべきだと言い、「もう少し透明性を上げる必要はある」と述べた。

 検定の公正さを保つ機関というのなら、どんな論議をしたのかをきちんと公表していくのは当然のことだ。

                    ◇

>しかし、軍の強制を証言する住民は現に数多くいる

確かに悲惨な「集団自決」の証言者はいる。

だが「軍の強制」を客観的に証言する住民は1人もいない。

証言もしていないのに沖縄タイムスが「隊長が舌を噛み切って死ね」と言ったという誤報を流し、それを9月30日の社説にそのまま引用したのは朝日ではなかったのか。朝日の“捏造記事”タライ回し  沖縄タイムスが“捏造写真”

それに教科書会社の記述訂正申請も「伝聞による証言」と但し書きをつけたのも朝日ではなかったのか。

教科書執筆者が自爆テロ! 朝日も認める「軍命は伝聞」 

依然として現在のところ「軍の強制」を客観的に証言する住民は1人もいない。

>執筆者らは「すべての集団自決に軍の強制があった」と書いているわけではない。それにもかかわらず、「軍の強制」という表現をすべて削らせたのは乱暴極まりない。

だから、「誤解を受ける表現」に相当するのではないか。

教科書にわざわざ誤解を受ける記述をすれば、左翼教師がこれを根拠にどんなデタラメな思想を生徒に吹き込むかは明らかだろう。

教科書に誤解を受ける記述は不要である。

>せめて審議会はきちんと間違いを認め、記述を元に戻させなければならない。

審議会はこれまでの記述の間違いを認めたからこそ、検定意見通り記述変更したわけであり、これを元の間違いに戻す必要はない。

>その意見書について特に異論がなかったというのだから、驚いてしまう。

正当な意見書だから異論がないのは当然で、

当然の行為に驚く朝日の社説にこそ驚いてしまう。

この社説、事情を良く知らない人が書いたのじゃないの。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします 

コメント

大江健三郎氏が本日午後法廷に立つ!

2007-11-09 06:25:48 | ★集団自決
 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
 
沖縄集団自決冤罪訴訟第3回証人尋問予定
平成19年11月9日(金)
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/
大江健三郎氏証人尋問
沖縄集団自決免罪訴訟第3回証人尋問
傍聴券獲得に列ぶ人は彼我併せて
500人以上になる見込み
傍聴席は65席しかありません。
皆様是非傍聴券確保にご協力ください。
傍聴券の抽選は朝1回だけです。
途中休憩を挟んで再入廷するとき、
券を持っていれば人が交替しても問題ありません。
 
・日時 平成19年11月9日(金)午前9時半までに集合
    ※傍聴券の配布は、9時45分頃
・場所 大阪地裁(大阪市北区西天満2-1-10)
TEL 06-6363-1281
・内容 10時半~正午     梅澤  裕  氏 証人尋問
    13時半~14時10分  赤松  秀一 氏 証人喚問
    14時半~16時半    大江 健三郎 氏 証人喚問

                     
                     ◇
 
大江健三郎氏は当初出廷を拒否していたという。
 
その為大江氏が以前に出廷を宣言していた記事等を提示、原告側は大江氏の証人申請していた。
 
原告側には「大江氏を法廷に呼び出そう!」という運動も起きていたという。
 
本日の大江氏の出廷は裁判長の「召喚」で証人喚問になった模様。
 
結局、裁判当事者である大江氏は法廷に立って証言をすると言うより、法廷に引きずり出されるという形になった。
 
                     *
  

大江健三郎が出廷を宣言している新聞記事(05/27 )

大江健三郎氏は平成17年8月16日(火)朝日新聞の「伝える言葉」という欄に当裁判への出廷の意志を明確に示し、「求められれば、私自身、証言に立ちたいと思います。その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもりです。」と宣言しています。

当方弁護団は大江健三郎氏の証人申請をしています。
大江氏はよもや逃げるようなことはせず、堂々と出廷して、何故、何を根拠にその著書『沖縄ノート』において現地調査も一切せず、あのような誹謗中傷を書き連ねる事ができたのか、明らかにしもらわねばなりません。

                   *

 

大江健三郎氏を法廷に呼び出そう!(06/23 )
大島信三のひとことメモより。(雑誌『正論』編集長)
2007年03月31日

「定説」を広めたのは、主に岩波書店だった。そのうちの1冊は、曽野さんの著書が刊行される3年前の昭和45(1970)年に出版された大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』(岩波書店)。大江氏らの著書で名誉を傷つけられたとして元守備隊長らが、大阪地裁に提訴。「沖縄集団自決冤罪訴訟」は、平成17(2005)年10月28日、大阪地裁で始まった。原告側の徳永信一弁護士は、『正論』(平成18年9月号)でこう述べている。
<大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなければならない。やがて法廷の証言に立つという大江氏の約束が果たされる日を待ち遠しく思う。そのとき、彼はなにをどう語るのだろうか>
 この裁判で読み上げられた梅澤裕元少佐の意見陳述書が、今回の「軍命令」修正に大きな影響を与えたとされる。昭和20(1945)年3月23日、海上挺進第1戦隊の隊長として梅澤元少佐は、座間味島にいた。米軍上陸目前という緊迫感に包まれていたその夜、島の幹部が本部の壕をおとずれた。自決のための手りゅう弾や実弾をわけてほしいという。梅澤元少佐は、こう諭(さと)したという(『正論』参照)。
<決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない> 梅澤元少佐の証言には、村民と部隊との良好な関係が端的に表されている。大江氏の『沖縄ノート』には、故意かどうか知らないが、そういう雰囲気はない。いずれにしても、
徳永弁護士が述べたように、こんどは大江氏が発言する番である。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (2)

持ちつもたれつの「教科書会社と日教組」

2007-11-08 12:13:13 | 教科書

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

沖縄タイムス 2007年11月8日(木) 朝刊 1面  
 
専門家から意見聴取へ/日本史小委

沖縄戦 審議公開も議論
 【東京】沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で、教科書会社からの訂正申請を受けて記述を再審議する教科用図書検定調査審議会の日本史小委員会が五日に開かれていたことが七日、分かった。関係者によると、審議に際して沖縄戦の専門家から意見を聞く必要性で一致。二〇〇六年度の審議会が検定意見の決定過程で密室性が強かったとの批判を受け、審議の公開の在り方も議論した。訂正申請後、同委員会が開かれたのは初めて。
 沖縄戦専門家の選定は現在、四―五人の候補が挙がっており、最終的な人選を委員長に一任することになったという。

 五日の日本史小委は、〇六年度の教科書検定で検定意見が付いた五社のうち、二日までに四社が訂正申請を終えたことを受け、「予備的な会合」(関係者)として開かれた。記述内容の審議はまだ始まっていないという。十一月中に再度、会合を開く見通しだ。

 同小委での結論は、審議会の第二部会(社会科)を開いて決定する段取りも確認した。

 「集団自決」記述に関する訂正申請は、一日に東京書籍と実教出版が文部科学省に初めて提出。二日には清水書院と山川出版が申請した。

 教科書会社関係者によると、文科省は五社に対して「五日までに申請してほしい」と要望していたが、七日時点で三省堂がまだ申請していない。

                                                ◇
>審議に際して沖縄戦の専門家から意見を聞く必要性で一致。 

>沖縄戦専門家の選定は現在、四―五人の候補が挙がっており・・・

ここで言う「沖縄戦の専門家」が何を意味するのか不明だが、

少なくとも左翼新聞・沖縄タイムスや琉球新報で偏向記事を書いている「左翼学者」はこの概念には該当しない。

彼らは学者・専門家と称してはいても、やっていることは「政治活動」でありその言動はアジテーターそのものである。

沖縄2紙の記事を調べれば、その「証拠」探しは容易だろう。

 

◆ 執筆者懇「検定撤回を」声明発表

【東京】沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で、教科書会社の執筆者や編集者でつくる「社会科教科書執筆者懇談会」は七日、文部科学省で記者会見し、同省に(1)訂正申請された記述の受け入れ(2)検定意見の速やかな撤回―などを求める声明を発表した。検定意見の決定に強い影響力を持つ教科書調査官と、教科用図書検定調査審議会委員の人選の透明化・公正化など、検定制度の改善を文科省に求めていく考えも盛り込んだ。

 声明は執筆者や教育研究者ら十七人が呼び掛けて作成した。

 「集団自決」に関する二〇〇六年度の教科書検定で、文科省が検定意見の根拠に大阪で係争中の「『集団自決』訴訟」を挙げていることを指摘。「係争中の裁判での一方の側の主張を教科書に記述してはならないと言ってきた、文科省自身のこれまでの言明とも明らかに反する」と批判している。

 記者会見した執筆者の石山久男さんは「訂正申請がきちんと受け止められることと、訂正申請によって検定意見の撤回があいまいにされないよう願っている」と述べた。

 子どもと教科書全国ネット21の俵義文事務局長は、一九九一年度の検定で教科書に引用された著書の記述に検定意見が付き、後に文部省(当時)が作者に謝罪した事例などを報告。「文科省は『制度上、検定意見の撤回はできない』と言うが、事実上、撤回した経緯はある」と指摘した。(沖縄タイムス 2007年11月8日)

                                              ◇

南極点に立てばどの方向も北になる。

「左極点」に立てば全ての方向は右になる。

教科書業界から見れば世の中の物すべてが右に見えるのだろう。

教科書業界は左翼の巣窟だと言われて久しい。

それもそのはず、教科書の大御得意さまはサヨクの巣窟日教組。

となれば教科書業界がサヨクの巣窟になるのは自然の成り行きだ。

教科書会社と日教組の関係は、

経済学でいう需要と供給の法則を示す生きた例だ。

重複引用で恐縮だが、読者から次のようなコメントが入った。 

教科書会社は左翼の巣窟 (ライダー)
2007-04-02 10:02:27
恥ずかしながら以前教科書会社に勤めておりました。
おっしゃるように、。ほとんどの教科書会社は左翼の巣窟です教科書会社が所属する出版労連は共産党の支持母体です。10年以上前ですが、マスコミにたまに登場する俵義文とかいう男が偉そうに「講義」にきていました。この男もある教科書会社の社員でしたが、仕事そっちのけで政治活動をしているようでした。新入社員は赤色でなくても、こんなところにいたらみんな赤色に染色されてしまいます。自分も新入社員だったころ、いきなり社長室に向かってシュプレヒコールをやらされたときは正直ドン引きでした。でも教科書会社の編集者は二流ですので、執筆者および日教組のいいなりですから、文部科学省がきちんと検定で取り締まってもらえればいいと思います。教科書会社は、だいたい印刷会社がバックについているところが多いのですが、組合が強いために人件費が高く経営状態はどこも悪いはずです。つぶれるところも出てくるのではないでしょうか。それでは、失礼いたします。日本のためにがんばってください。応援しております。

やはり教科書業界は左翼の巣窟だった。

だが、左翼マスコミと連動した教科書業界は常に次のようなイメージで国民の前に現れる。

「教科書執筆者がまじめに歴史の事実を記述しようとしても、常に国の壁が立ちはだかり無念の涙を飲む」

「教科書検定意見書はまじめな執筆者に記述削除あるいは訂正を迫る」

教科書執筆者にはマルクス主義史観で凝り固まった人が多い。

10月1日の町村官房長官の次のコメントに左翼執筆者に対する憂慮が表れている。

≪教科書の中身というものがそのときどきの政治的な思惑によって動かされることがあって本当にいいんだろうか。我々自民党の立場からすると、マルクス・レーニン主義によって、あるいはマルクス・レーニン主義者を自ら認めているような教科書の執筆者によって書かれたものが率直に言って不満に思ったことはずいぶんあります。しかし、それでも自由民主党としては、これは教科書検定という制度の中で認められたものだから、ということでそれ以上のことはいいませんでした。≫

教科書執筆者は「集団自決」検定意見には批判的な人が多い

「集団自決」検定/執筆者「恣意的」と非難

当日記はこれまで次のように主張してきた。

歴史教科書の記述は市民運動で決めるのではなく、学者・専門家の議論・検証に委ねるべき

では教科書執筆者も多いという「歴史教育者協議会(歴教協)」に検証を委ねればとも思うが、

この団体はマルクスレーニン主義者の集まりだというから驚く。

軍命削除撤回を決議 歴史教育者協議会

 

歴史教育者協議会(歴教協)はマルクス史観の歴史家松島栄一氏の創立したものであり、

それに日教組の社会科の教師が集まったとなると、全ての歴史はマルクス史観の色眼鏡を通して判断される。

この集団は「マルクス史観」の研究団体ではあっても、まともな歴史研究団体ではない。

いや、むしろ「政治団体」といったほうがその名に相応しい。

記者会見した執筆者の石山久男さんは「訂正申請がきちんと受け止められることと、訂正申請によって検定意見の撤回があいまいにされないよう願っている」

執筆者の石山久男氏が左翼団体歴史教育者協議会委員長であることを報じる新聞はない。

子どもと教科書全国ネット21の俵義文事務局長は・・・

 「子どもと教科書全国ネット21」が子どもの名を騙った左翼団体であることはクリックしてみれば一目瞭然。

今回の検定意見は教科書のマルクス主義史観の記述からバランスの取れた記述への変更であり、

検定意見の妥当性は実は執筆者自身が一番承知している筈だ。

 
 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 


 

コメント

党首の悩み町長の悩み、村長さんも悩んでいます。 

2007-11-07 19:17:18 | 未分類

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

陸自共同使用 金武町長、受け入れ明言  (11/7 9:52)

 【東京】在日米軍再編合意に基づく陸上自衛隊の米軍キャンプ・ハンセンの共同使用受け入れについて、儀武剛金武町長は6日午後、東京都内のホテルで琉球新報の取材に対し、「(陸自の共同使用を)受け入れる方向になると思う」と述べ、近日中にも受け入れ表明することを認めた。
 普天間移設措置協議会出席のため上京中の儀武町長は6日夜にも、同じく上京した東肇宜野座村長とあらためて話し合う。その上で地元に戻り、志喜屋文康恩納村長とも受け入れ表明についてあらためて話し合う予定。
 儀武町長は、共同使用について「受け入れる方向になると思う。そうしないといけないだろう」と話し、「(再編)交付金(が理由)ではない。全体で見て共同使用の内容がどうなるかを判断しないといけない」と述べた。
 3町村の首長と議長でつくる3町村連絡協議会は陸自の共同使用が負担増になるとして反対を表明していた。防衛省が官報で告示した「米軍再編関連特定周辺市町村」に3町村は記載されておらず、米軍再編交付金の交付対象から外れた。


(琉球新報 11/7 9:52)

                     ◇

小沢党首が辞めると言ったり、辞めないと言ったり。

「オザワる」という言葉が流行るとか流行らないとか。

「辞める、辞める詐欺」も流行語大賞の候補だとか・・・。

政治家はとかく自分の発言の撤回には苦労するものらしい。

ここにも悩める町長さんがいた。

                      *

防衛省:「米軍キャンプ・ハンセンに陸上自衛隊の共同使用を受け入れて欲しい」

町長:「基地負担が増えるので反対だ!」

防衛省:「それでは米軍再編交付金の対象外です」

町長:「むむ! (陸自の共同使用を)受け入れる方向になると思う」

琉球新報:「え? それってお金のため?」

町長:「交付金が理由ではない」

琉球新報:「では理由は何ですか」

町長:「うーん、そうしないといけないだろう」

(影の声:昨日の琉球新報の一面は、

「そうしないといけないだろう」

の大見出しが躍っていた。)

 

街の声①1:「そうしないといけないだろう?  これって理由になっていないのでは?」 「はっきり金のためだといえば分かりやすいのに」

街の声②:「マスコミに追求されるのが怖いのだよ。 町長も可哀そうだよ」

街の声③:「そうだよね。 反戦平和ではメシは食えないものね」

 

この村長さんも悩んでいるようで・・・。

やはり、反戦平和じゃメシは食えないと思うのですがね。

高江ヘリパッド/移設容認を東村長が陳謝

・・・伊集村長は四月の村長選で移設反対を公約していたが、就任後は容認の立場に転換。・・・ 

 

おっと、忘れてもらっては困ります。

ジュゴンとウミガメが気になって悩める知事と町長さんがいました。

県、沖合修正を要求 国、環境影響を指摘 普天間代替  (11/7 16:03)

 

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント

続々『鉄の暴風』のいかがわしさ◆渡嘉敷女子青年団 匿名座談会

2007-11-07 10:19:14 | ★集団自決

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 新聞社は、自社の紙面に掲載した連載が、読者からの反響を呼び好評だったものを単行本にまとめるのが通例だ。沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年八月、朝日新聞発行)もまた、同じ手順で作成されたと思っていたが、そうではなかった。
 沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊するが、その直後から、社を挙げてこの単行本プロジェクトが進められていたのである。(世界日報)

                      ◇

沖縄タイムス創立から『鉄の暴風』発刊に至る二年間を時系列で追ってみよう。

①沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊

②昭和24年5月『鉄の暴風』編纂開始

③取材(三ヶ月)、5月から7月

④執筆(三ヶ月)、8月~10月

⑤昭和24年11月脱稿。

⑥原稿清書⇒琉球大学大教授に全訳依頼。(米軍検閲用)

⑦昭和25年6月15日、米軍の出版許可が下りる。(※)

⑧昭和25年8月1日、『鉄の暴風』初版発行。(初版は朝日新聞社刊)

※米軍の許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と、手元に置いて手離そうとせず、部下連中はお手上げだったという。(高嶺朝光著『新聞五十年』・世界日報孫引き

※高嶺朝光氏は当時の沖縄タイムス社長。

 「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムス創刊当初より戦記刊行が企てられ、終戦四年目の昨年五月、本書編さんを、豊平(監修)、牧港(執筆)、大田(同上)の三名に託し、半年を経て、上梓の運びに到つたのである」(原文のまま)

『鉄の暴風』発刊の影の主役ともいえるの座安盛徳氏は、取材記者のために証言者を旅館に集めたり、沖縄に本の印刷機がないため上京し、GHQにマッカーサーを訪問するなど、『鉄の暴風』の発刊はまさに会社挙げての大事業だった。

座安氏は元来は新聞人というより商売の分野で能力を発揮した人物で戦前はマニラ麻の輸入販売などで成功しその経験から人脈形成には独特の才能を持っていたといわれる。

座安氏が米軍に太いコネを持った契機は戦後を沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の災害処理を通じてだという。

米軍は、圧倒的優位の武器弾薬で全島に「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、貧弱な装備の日本軍を圧倒し沖縄占領を果たしたが、

沖縄名物の台風の強襲は全くの想定外であった。

当時米軍宿舎の主力だったトタン製のコンセット建造物は飴のように曲げられて、米軍は壊滅的打撃を受けた。

巨大台風「グロリア」の猛威に晒され、沖縄が「台風銀座」だと知って米軍は日本軍よりむしろ台風の強襲に慄いた。

米軍首脳の中には沖縄占領を撤退しようと言う意見さえあったという。

そのとき元々商売人で交際術に長けていた座安氏が米軍情報部長R・E・ハウトン大尉との知遇を得て、新聞発刊に必要な諸物資を支給してもらう事になる。

台風被害を避けて那覇の天妃小学校に保管してあった大量の新聞用紙は、

米軍情報部長ハウトマン大尉、そして座安氏を通じて沖縄タイムスに払い下げられたという。

このように沖縄タイムスの設立から『鉄の暴風』の発刊まで全て米軍の庇護・支援、そして検閲の下に行われたのであるから、

『鉄の暴風』の内容がが企画当初から米軍の広報本という主旨で貫かれるのは自然の成り行きであった。

米軍は解放者であり日本は侵略者だという視点が無ければ米軍の発刊許可が出るはずが無いことは著者が一番承知していたはずである。  

≪昭和二十五年八月一日発行の「月刊タイムス」には、『鉄の暴風』の予約申し込みの広告が一面を使って出ている。そこに二つの読後感が掲載されている。

 J・Rシーツ前琉球軍政長官「“鉄の暴風”の英訳をみせて貰つたが、實に立派なよい本だ。殊に戦斗中の悲惨極まる住民の動きについての描写は、私自身沖縄戦に参加して目撃体験している事実だけに、その正しさもわかるし、感銘を新にして一氣に精読した。私は“鉄の暴風”が沖縄人必読の良書たることを推奨するにはゞからない≫(世界日報)

いかに米軍占領下とは言え『鉄の暴風』の広告に、沖縄占領の米高官が推薦文を書いていた事実には今更ながら驚きである。

「・・・・、實に立派なよい本だ。・・・感銘を新にして一氣に精読した。私は“鉄の暴風”が沖縄人必読の良書たることを推奨するにはゞからない」

このJ・Rシーツ前琉球軍政長官の手放しの推薦の言葉は沖縄タイムスとしては決して現在の読者の目に触れて欲しくない文に違いない。

これで『鉄の暴風』の取材・執筆・発刊にまつわるいかがわしさが白日の下に晒されることになるから。

 

■戦争の残虐さ■

『鉄の暴風』は終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれている。

同じアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』でさえも、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

一方、米軍に占領された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

だが、戦争が元々残虐なものであることをアメリカ人ヘレン・ミアーズが次のように指摘している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

【付記】

『鉄の暴風』の二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』を書いた、ヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年、ようやく出版されることとなった。

アメリカ人が書いた本が発禁で、沖縄人が書いた『鉄の暴風』が米軍の推薦を受ける。

これも歴史の皮肉である。

 

抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
ヘレン ミアーズ,Helen Mears,伊藤 延司
角川書店

このアイテムの詳細を見る

                       

【付録】

女子青年団の中にも「兵事係」がいたのが分かります。

「兵事係」も「兵事主任」も軍の肩書ではなく、村役場の役職だというのが分かります。

                      ◇

 

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2

渡嘉敷女子青年団                    785P
匿名座談会

K 私が女子青年団になったのは、昭和18年で、その時には、すでに、ルーズベルトやチャーチルの人形を造って、竹槍で刺す訓練をしていたりして戦争気分は最高潮に来ていたと思います。
M 私はその頃、役場の兵事係をしていましたので、直接戦争と関係のあることばかりやらされていました。渡嘉敷は、徴兵検査は抜群に成績がよく、それだけに、竹槍訓練なども、身にはいったと思います。
N 標準語励行なども、徹底していました。私はちょうどその年に女子師範を卒業して、赴任したばかりでしたが、私が見た那覇のどの学校より標準語が上手でした。
M 基地隊が来て、はじめて、大量の日本兵だったので、島中が大変だった。私たちは、あの基地隊上陸の日から、ずっと終戦まで、日本軍に奉仕していたわけです。
K 始めは奉仕のつもりが、とうとう職業になって月給をもらっていた。私は前の年の11月から2月まで20円の月給をもらっていました。3月は下旬に戦争が始まったために、3月分はもらっていません。
K 私たちは主として、炊事の手伝いではなかったか。私は第2中隊の炊事班に居りました。
H 私は特攻舟艇の滑走路作りや、またそれをカムフラージュする草刈りなどをやっていました。朝、その作業現場に行く時は、いったん港まで来て、積まれている弾薬をかついで、山に持っていって、それから作業は始めるという日課でした。
K 洗濯場ははなやかでした。川は洗濯班の娘達でいっぱいでした。
K 10・10空襲は、作業中、変だとは思っていましたが、いくら空襲でもこんな小さな島までくるはずないと思っていたのです。そうしてたら港に爆弾が落ちた。それで、はじめて兵隊もあれは本物だと壕の中に入っていきました。
  その時やられた船には私の父が乗っていて、機銃掃射で死にました。渡嘉敷に爆弾が落ちたのは、11時頃でした。それまで、兵隊は演習だといって、のん気に那覇の方を眺めていました。すきとおるように、那覇がよく見える日でした。
N 学校も爆弾がおちてから、生徒達を家にかえしました。
K 3月23日まで、とにかく女子青年団という組織じゃなかったが、団員85名、全面的に軍に協力しました。
M 私はむしろその後からが、軍と一緒にやった時期です。それまでは、役場で仕事がありますから団員と一緒ということはありませんでした。
K 基地隊が本島に帰って、赤松隊がきたわけですね。基地隊は武器は全部持って行きましたが、食料はそのまま置いてありました。カツオ節工場2棟は食料が入っていました。基地隊の送別会の席上で、鈴木隊長は、赤松隊と村民も仲よく分けあって食べて下さいとおっしゃつていました。しかし、その食料は23日の空襲でまる焼け、米だけはどうやら食べられたようでした。
M 食料といえば、渡嘉敷の人で栄養失調で死んだ人は居ないでしょう。日本軍には居たようですけれど。
N 渡嘉敷はもともと、米も刈りとると、籾のまま保管し、使う人のだけしか精米はしませんので、どの家でも1年分の食料はいつでもあります。何しろ台風で昔は餓死もしたという経験もありますから。
M 食料はあまり島外に出しません。島外に出るのは、子豚くらいでしょう。カツオ節は特産品ですので戦争中どの家でも2、30斤くらいは持っていたと思います。
K 3月23日は、第2中隊で作業中でした。夕方いったん空襲は終わっていましたので、とっぷり日はくれていましたが、渡嘉敷は赤々と燃えていました。私たち団員ひとりびとり高橋伍長が送ってくれました。私の家の壕に帰ってみると、どこへ行ったのか誰もいませんので、私はそのまま陣地にもどって、そこで夜を明かしました。翌日早朝、第2中隊の陣地に防衛隊がかけ込んで、今、山から見ていると、アメリカの艦隊が、本島の喜屋武岬を廻って、ここに向かっていると報告してきました。
  私はたちどころに家族のもとへ帰りました。この防衛隊は誰だったかは忘れましたが、住民は早く恩納河原に避難せよと、ふれ歩いていました。
H 23日は身動きもできませんでした。でも私たちは、特攻舟艇の出撃を感じていましたから、準備だけは、兵隊の命令で一生懸命やっていました。空襲がいちじ止んで夕方家族の所に帰ってきました。
K 27日でした。再び防衛隊がやってきて、米軍が上陸したので、恩納河原をはなれて、本部の方に避難しなさいと命令してきました。しかし、私たちの家族4名は、私が、母を背負っているものですから、難儀しないようイズン川筋にあった、ナガスジに壕を掘ってあったのでそこに行きました。ウチマシ(屋号) の壕とは隣同士でした。
G 私たちもそういうことで本部に行ったのですが、そこには、4百名くらいの人がいました。
K 命令は、私たちの場合は聞きませんでした。人々が、特に私たちの近くを阿波連の人たちがぞろぞろ行くものですから、私たちもそうしただけでした。
N 私は映画みたようでした。死にに行くってよー、あなたたちはいかないのー、といっているのを夢みたいに聞いていました。
H うしろに米兵がいて、それが、追っかけて来るような錯覚におち入っていました。
G 私たちが本部に着いた時は、とっぷり日は暮れていましたが、みんな死ぬ準備していました。
N その時、手榴弾を防衛隊が配っていた。
   万歳をしたり、君が代を歌ったりしていました。その中で防衛隊が手榴弾の発火のさせ方をみんなに教えていました。
K 私たちの心の中には、敵に殺られるより、自分で死んだ方がよいという考えがありました。女はさんざんいたずらし、男は男根を切る、といいふくめられていましたね。私は部隊が私たちを解散させた23日の晩、手榴弾を2個もらってかくし持っていました。1発は米兵に、2発目は自分にと、それほどまでに決意は固められていました。
  私たちはナガスジを出てウチマジのお父さんは、微雨の側の立木に首をつって死んでしまいました。
H 私たちも、ヨシ門(屋号)(吉門)のおじいさんを中心にして、12、3名でしたが、円をつくっていました。そうしていると、私の弟が、自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました。手榴弾はあちこちで爆発していました。私たちは、なんとなく、ただ皆が死ぬのを見ていました。死にきれない人が、殺してくれと、叫んでいました。そこで私は、オノで頭を割っている光景を見ました。私はその時は無神経のようでしたよ。
N 手榴弾がどかんどかんやっている所へA高地から迫撃砲が飛んできました。死のうとしている人も、死にきれない人も、それで死んだのも少なくありません。
K 自決に失敗して、本部に助けを求めに行く途中、迫撃砲の直撃弾が仲門(屋号)お父さんに当たって、その破片が、西銘のお父さんまで即死させました。すくそばに私はいましたが、かすり傷1つありません。
H 押しあいへしあいで本部になだれ込んでいた。
K 私は、西(北)山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私を撃って下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされて引きかえしました。
  本部に行ってみると、西村大尉が軍刀を抜いて身がまえして、住民はここへ寄るな、きかないかー、斬るぞーと叫んでいた。その時も迫撃砲は間断なく撃ち込まれていました。どうしたわけか、松川の兄さんの手榴弾が爆発して、その破片が、白刃の西村大尉に当たって倒れていました。
N 本部を迫っぱらわれた人たちは、今、言われている第2玉砕場に集まっていました。そこでも自決は行われていましたが、多くは米軍の迫撃砲でやられたのではないかと思います。
T 私は27日、恩納河原に居ました。防衛隊がやって来て、米軍がこの山の上であかりをつけて壕を掘っているというものでから、敵はもうここに来ているのかと、恩納河原をたって本部に行きました。その日は大粒の雨でしたね。荷物が非常に重くなっていました。私たちが着いた所は本部ではなく、玉砕場でした。
S 私のグループは比嘉利輝さんが、手榴弾の信管を抜いて、自分の靴の底にパカパカたたきつけていましたが発火しないので、すぐそばの樫の木にパカパカやったところ、爆発して、比嘉さんの右手がふっ飛び、私たちは無傷でした。みんなが、死んで行く様を見ていると、こわくなって、私たちは、そのまま、本部に行きました。そしたら「こっちへ来たら殺すぞー」と将校が叫んでいました。
  本部で日本軍に追っぱらわれてから、みな乱れていましたね。その瞬間気ちがいになった人もいました。私もどこでどうしたか、本部のあとのことは憶えていません。
K 人情も何もあったものじゃありませんでした。恩納河原を出て玉砕場へ向かっている時です。Mのお祖父さんは寒さのあまり、気絶しているのを家族は早合点して、捨てて先に行ってしまいましたが、この人が生きがえってちょうどそこを歩いていた私にとりすがってつれていってくれというのです。私は母をおんぶしているし、どうにもならないので、本部に行ったら、あなたの家族に知らせますと、別れてさっそく家族を探して、ことの次第を話したのですが、死んだ人が生きかえるはずがないとか、行くまでにまた死んでいるよ、とかいってうけあってくれませんでした。いたる所でこのようなことが起きていました。
H 本部を迫っぱらわれて、第2玉砕場の反対の方向のジーシップ(儀志布)に面する谷間に50名ほどの人たちと隠れていました。全く皮肉なことに、松本の姉さんは男児を出産しました。そのあと私は食料を求めて、ジーシップの上の方に登ってみると、谷間の水はぶくぶく泡を立てていました。血が腐って悪臭をはなっていました。そのままずーっと進んでいくと、玉砕場に出ていました。谷川に落ちた死体もあります。食料はないものかと死体の間を歩いていますと、私を呼ぶのです。よく見ると仲村初子さんでした。今しがたアメリカ兵が来て、見込みのある者は注射してタンカで運び、私は見込みがないと、そのまま、ほったらかされたというのです。私が発見した生き残りは4名でした。山を下りると避難小屋へ急ぎ、4人の人を救出しましたが、2人はまもなく死んでしまいました。Tさんに一家殺されたという人がいました。しかしTさんも、一家自決して果ててしまっていました。
  私の従弟のMは、I先生に殺して下さいと頼んで殺されました。この先生一家もまた全滅しました。玉砕場で死んだのは2、300名ではないかと思います。
K 私は本部を迫っぱらわれたあと、ジーシップの方に下りて行って、そこで頭から毛布をすっぽりかぶって夜を明かしました。ちょうど、そこを通りかかった村長に中村茂子さんといっしょに、医務室の手伝いをするよう命令されました。
  気持ちも落ちつかないし、いやだったのですが、自決場から運ばれた患者の治療だというものですから、仕方なくやりました。そこにはいろいろな人が集まっていました。


 

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント (4)

「パールハーバー」とは何だったのか

2007-11-06 20:26:53 | 歴史

  よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

徳富蘆花は昭和史の執筆にとりかかった時に、その前の明治がわからんと昭和が書けない。明治を書く前にはさらにその前とさかのぼってしまい、ついには大日本史になったと聞きます。(読者のきんじょうさんのコメントより)

                      ◇

東京の世田谷区が教育改革をして良い結果を生んだことを偶然ラジオで聞いた。 

世田谷区教育委員会教育長・若井田正文氏は元々教育畑の出身ではなく根っからの商社マンだが、

その長い海外生活で子供たちをフランスの学校で教育した経験で日仏の学校教育に興味を持つようになったという。

その中で若井田正文氏は日本語を通じ哲学や伝統文化を学ぶ、つまり読み書きの重要性を説く。

「国家の品格」を書いた藤原正彦御茶ノ水大学教授も同じような意見を言っておられるが、読み書き(国語)については別に改めて触れるとしてここでは歴史について触れたい。

若井田教育長によると、フランスでは国語(フランス語)の次に重要視されるのは歴史そして哲学だという。

その歴史も日本の学校のように古代から年代順に現代に向かうのではなく、現代史から次第に時代を遡っていくという。

従って小学生でも日本の大人が驚くほど現代史に詳しいという。

冒頭引用したきんじょうさんの文にある徳富蘆花の歴史の勉強法に興味を持つ。  

良書と推薦されたヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」(角川書店)の要約サイトを引用するので興味のある方は目を通してください。

以下要約の又要約の引用です。 全文はリンクでどうぞ。

                      *

  国際派日本人養成講座
   地球史探訪:アメリカの反省http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog219.html
             日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らな
         かったことではなく、よく守ったことなのだ。

■1.「パールハーバー」とは何だったのか■

         パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んで仕掛け
        られた「一方的攻撃」であるというが、この論理では日本
        を公正に罰することはできない。なぜなら、私たちの公式
        記録が、パールハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済
        戦争への反撃だったという事実を明らかにしているからだ。
        [1,p87]
       
     1948年、戦後わずか3年目にこのような主張をした本がアメ
    リカ人女性によって書かれた。ヘレン・ミアーズの "Mirrorf
    or Americans: JAPAN"である。この本の日本での翻訳出版は、
    占領軍総司令部によって禁じられた。
   
    「占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むこ
    とはできない。」と、マッカーサーはある書簡に書いた。その
    言葉通り、「アメリカの反省」と題した翻訳が出たのはマッカ
    ーサーが帰国し、占領の終わった1953(昭和28)年だった。
   
■2.日本人には隠しておくべき真実■

     実は当のマッカーサー自身が次のような発言を1953(昭和2
    6)年5月3日に合衆国上院の軍事外交合同委員会で行ってい
    た。[2,p565]
   
         日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もない
        のです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、
        錫がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如して
        いる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在し
        ていたのです。
       
         もしこれらの原料の供給が絶ち切られたら、1千万から
        1千2百万の失業者が発生するだろう事を彼らは恐れてい
        ました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、
        大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
       
     マッカーサーのこの見解はミアーズと同じである。ミアーズ
    の本を翻訳禁止としたのは、それが単なる日本弁護のプロパガ
    ンダではなく、日本人には隠しておくべき真実を語っていると
    判断したからであろう。
   
■3.私たちアメリカ人の責任■

     ミアーズは1925年、二十歳代の時に日本や中国を訪れて、ア
    ジアに深い興味を抱き、大戦中は大学で日本に関する講義や研
    究をしていた。戦後、占領軍の労働局諮問委員会のメンバーと
    して来日し、労働法の策定などに参加したが、帰国してからこ
    の本を書き上げた。
   
     アメリカでは日本擁護者として批判され、本は絶版となって
    ごく限られた専門家以外には忘れ去られ、ミアーズ自身も学者
    として世に出ることができなかった。

     しかしミアーズが書きたかったのは、日本弁護論ではない。
    著者自身の前書きには次のように述べられている。
   
         私たちアメリカ人は、今のところ、地球上で最も強い国
        民である。・・・だからこそ、私たちは世界が置かれてい
        る深刻な無秩序状態の責任を免れることができないのであ
        る。私たちが本当に平和を望んでいるなら、世界の戦争原
        因を究明するにあたって、もっと現実的になる必要がある。
       
     ミアーズの本を読んでいて心うたれるのは、「現実的」にな
    るために史実を曇りない目で見据える客観性と、それを根底で
    支える人類愛である。

■4.英米蘭に依存していた日本の軍事力■(略)

    ■5.日本に石油を売らなければ戦争になるだろう■(略)

        
■6.生き死ににかかわる問題■(略)

 ■7.日本の求めた生存圏■(略)

     
■8.日本は行くところまで行くしかなかった■(略)

   
■9.学んだことを実行すると、先生から激しく叱られる■

         私たちはアメリカから多くのこと、とくに隣接地域の不
        安定政権にどう対処するかを学んできた。そして、学んだ
        ことを実行すると、先生から激しく叱られるのである。
           
     新渡戸稲造のこの言葉をミアーズは引用する。次の例はその
    典型だろう。
   
         つい5年ほど前、米英両国の軍隊と砲艦が自国民の生命
        財産を守るために中国の「盗賊」を攻撃したとき、両国の
        世論は中国人を野蛮人と呼んで非難した。イギリスとアメ
        リカの国民は忘れているようだが、日本人はよく覚えてい
        る。ところが、日本が同じように中国の「盗賊」を攻撃す
        ると、同じ国民が日本人を野蛮人と呼ぶのである。
        [1,p295]

     (略)    
         西洋列強はいま、日本を激しく糾弾している。日本が
        「凶暴で貪欲」であったことは明白な事実だが、だからと
        いって、西洋列強の責任は、彼らが思っているようには、
        免れることはできない。日本の本当の罪は、西洋文明の教
        えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。
        [1,p386]

■10.アメリカの鏡:日本■

     ミアーズがこの本を書いていた頃、終戦からまだ2年も経っ
    ていないのに、米ソ冷戦が始まっていた。
   
          私たちは現在、「ソ連を押し戻す」、そして「共産主
         義の脅威と戦う」ことを政策として明らかにしている。
         これは実に日本が、彼らの全近代をかけて実践してきた
         政策だ。[1,p410]
        
          今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅
         威」であり、(JOG注:日露戦争当時)日本を支援したか
         つての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ
         連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国
         における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保する
         ために、満洲を緩衝国家にしようとした日本を支援しな
         かった1931年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に
         無能だったことになる。
        
          そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールま
         で悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでな
         く、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶ
         りは、犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。
         [1,p410]
        
     日本はパワー・ポリティックスを西洋列強に学び、そしてそ
    れをよく守ったがゆえに、悲惨な結果を迎えた。その日本の近
    代史を鏡として、アメリカは自らのパワーポリティクスを見つ
    め、反省せよ、というのが「アメリカの鏡:日本」という原題
    の意味である。
   
     しかし、その後もアメリカはソ連の脅威を封じ込めるために、
    共産中国とまでも手を結び、中国が成長して脅威となると、今
    度はこちらを封じ込めようとする。東京裁判史観によって真実
    を覆い隠したまま、アメリカがそのパワーポリティクスを続け
    る限り、「世界が置かれている深刻な無秩序状態」はまだまだ
    続くだろう。
                                          (文責:伊勢雅臣)

抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
ヘレン ミアーズ,Helen Mears,伊藤 延司
角川書店

このアイテムの詳細を見る

 

コメント (4)

アリバイ作りの県議団調査  結論は決まっていた!

2007-11-06 06:21:58 | ★集団自決
 
 
⇒⇒最初にクリックお願いします
 

NO!残紙キャンペーンサイト

 

 

■ウソ記事のロンダリング■

マネーロンダリングは国際詐欺集団の手口。

銀行を使えばいかがわしいお金もクリーンになる。

沖縄の新聞は、いかがわしい記事をロンダリングする方法の達人のようだ。  

有名人の口を介すればウソの数字も本物になるらしい。

沖縄タイムスは「教授」も登場 させて「11万人集会」のロンダリングに大童のようだが、

今後どんな有名人がロンダリングに協力するか楽しみだ。

三日後の9日にノーベル賞作家が法廷に立つ(正確には「引きずり出される」)日までは続くのだろう。

■順序が後先の県議団調査■

県議会で教科書の記述をを変えるような重要案件を決議する。

それなら、議決の前に調査・検証をしてその後に議決を計るのが順序だろう。

だが、「11万人」集会に至る端緒となった県議会の「教科書検定意見書撤回決議」の採択には、

奇妙な「アリバイ工作」が有った事を知る人は少ない。

事は歴史教科書の記述に関わる重要案件だ。

歴史の素人である県会議員が安易に多数決で決める問題ではない。

だが、県議会は検証をする前に決議採択をしてしまった。

そして、その後アリバイ作りの為の現地聞き取り調査をしたのである。

結局、このマスコミ向けの「現地調査」が狂乱騒動の発端となった。

「県議会採決」と議員団による現地聞き取り調査の順序が後先になった事実。

この後先実施の不自然さを報道するマスコミは一つもない。

議決採択の後の現地調査では「後の祭り」ではないのか。

当日記はこの県議文教厚生委員の聞き取り調査が、

デタラメナなアリバイ工作だった事を再三指摘してきた。

調査なんて今更どうでも良かったのだ。

だがマスコミの大々的報道で、デタラメな調査も信憑性を帯びてくるから、メディアの印象操作は恐ろしい。

県議団の調査となると、天下の文科大臣も態度が揺れ動かされるものらしい。

渡海紀三朗文部科学相は「検定後に新たな事実や証言が出ている。新事実が少し増えた状況で、どのように考えていくかだ」と語り、

教科書記述に「強制」の文言を復活させることもあり得るとの考えを示した。

渡海文科相が再修正の根拠として指摘した「新事実」というのは、

沖縄県議会議員団が行った、デタラメな聞き取り調査を実施した際の証言のことだろう。

そこで、座間味村の上洲幸子さん(84)が、旧日本軍隊長による直接命令があったと証言した。 

ところが、上洲証言を報道した沖縄タイムスは、二度、「隊長」ではなかったとの訂正記事を掲載している。 

だが、これが誤報だったことを伝える新聞はタイムス以外に一つも無かった。

沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」

ちなみにこの沖縄タイムスの捏造記事はそのまま朝日新聞の社説に引用され全国を一人歩きし始める。(朝日の“捏造記事”タライ回し  沖縄タイムスが“捏造写真” 

                                              ◇

県議会文厚委 検定撤回へ現地調査

 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。

(7/6 16:05)全文 >>

「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村

上記写真で調査団を先頭で案内している当時14歳の金城武徳さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に封鎖殺された。

一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。

 

■デタラメだった聞き取り調査■

島の人によると、聞き取り調査は実に酷いものだったという。

金城さんが「軍の命令は無かった」と証言すると、

議員団のK女史(社民党)は、金城さんの発言を封じるように次のように決め付けたという。

私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」

当時15歳で生き残ってきた証言者に対して、この「決め付け」発言がこの調査団の左翼的性格を物語っている。

証言者の発言を封じるなら何のための聞き取り調査だったのか。

そう、議会決議に合致する証言だけを聞けばよかったのだ。

「不都合な証言」を聞く耳など最初から持ち合わせてはいなかった。

社会科の教師をしていたら証言を聞かなくとも全てをお見通しだとは細木数子先生もきっとびっくりでしょう。

又調査団の団長で、後に「県民大会実行委員長」となる仲里県議会議長は、調査現場で驚くべき発言をしている。

あの「毒おにぎり」証言の仲里議長である。

みんなで既に決めたこと(採択したこと)だから、早く話をまとめましょう」

もう既に決まった結論のアリバイ造りの調査だったことがこの議長の一言で、語るに落ちてしまっている。

この調査団の左翼偏向的性格は今更説明を要しないが、この一連の県議団の動きがマスコミのセンセーショナルな報道と相まって、

その後県民を狂乱の渦に巻き込んでいく。

沖縄タイムスは恥知らずにも、

「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。

そう、タイムスは己が創作した“県民の総意”が重要であり、

重要証人の証言などどうでも良かったのだ。

沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。

デタラメな調査で「県民の総意」を捏造される県民もたまったものではない。

 

■平和学習の語り部が証言者■
  
沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】

証言者・吉川嘉勝氏(68)は調査団に対し、

自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」

と語った。

吉川氏は最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm

このように沖教組関連の「平和教育」でどっぷりツカッタ文教委員議員団の調査は、形だけのアリバイ作りのためだけの噴飯モノあった。

ちなみにこの吉川氏、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。

そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもあったのです。

いくら語り部でも、日本軍の残虐さは語って語っても「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だったのでしょう。

参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 カメラ  (7/5 16:05)

 

この吉川氏が証言するのは今回が始めてではない。

今年の慰霊の日の朝日新聞の記事で証言している。

だが、「軍曹が命じた」と巧妙に作文された朝日記事でも

吉川氏は一言も「軍の命令」とは証言していない。

 

http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB
200706230011html

62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分

 沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。

 62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。

 那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。

 「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。

 吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。

 母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。

 母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。

 その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。

 富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。

 沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
 
朝日新聞は、既に「集団自決」の「軍命令論争」で敗北していることを承知している。

子分ともいえる沖縄タイムスが暴走するの止められず、当たり障りの無い記事でしか援護できない、・・・というより、既に敵前逃亡を決め込んでいる。(朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 

                     ◇

これまでも学術調査団が何度も現地調査を行っており、「軍命令はなかった」という多くの証言者がいたが、これらは地元マスコミに載ることはなかった。(例えば宮平さん→★文末に引用)

■【動画と“新聞証言”の違い】

いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)

琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。

【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o

 

連日紙面を飾るのは「多くの悲惨な証言がある」と言う極めて曖昧な記事のがオドロオドロしく報じられる。

確かに沖縄戦で悲惨な体験をした人は数多くいるだろう。

だが、「数多くの悲惨な証言」を必死で「軍命令で集団自決した」の結論にもっていこうと紙面づくりに追われているのが地元二紙だ。

最近では「命令の有無ではなく、強制性が問題だ」なんて言い変えだしているようが・・・。

そのうち「強制性の有無ではなく、軍隊がいたことが問題だ」なんて言い出すと思う。

まともな研究者、そして良識ある証言者達は皆「その事実」に気がついている。

 

 

※お願い。 ランキング分散を避けるため下記↓のランキングは、無視してください.(押さないで!)
コメント (11)

全体主義の島「沖縄」 ◆教育長よ何処へ行く

2007-11-05 14:40:26 | ★集団自決

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

全体主義の島?■

沖縄では「11万人」説を定説にしようと地元マスコミは「主催者発表」の五文字をつけずに報道されている。

これに疑問を呈して連日孤軍奮闘している産経新聞那覇支局小山さんの「今夜も、さ~ふ~ふ~」を以前に紹介した。

「11万人」に疑問を呈している本土マスコミは、産経新聞、日経新聞、読売新聞、西日本新聞、週刊新潮、Will,正論などなど。

それに、「わしズム」も「11万人」はデマだと言っている。


 

「わしズム 全体主義の島『沖縄』」で、次のようなくだりがある。

<小林よしのりの本を読んでいるだけで「けしからん」という沖縄で、リスクを背負い4人が声を上げた。 『沖縄論』で現地案内を買って出てくれた宮城能彦氏、高里洋介氏、砥板芳行氏と匿名参加のA氏(40代男性)。 大マスコミではまず伝わってくることのない沖縄のサイレントマジョリティの声にじっくり耳を傾けて欲しい。>

白熱200分座談会:「『同調圧力の島』沖縄への異論」

座談会に出ている石垣市砥板芳行(トイタ ヨシユキ)さんのブログ「身土不二」を紹介です。http://blog.goyah.net/toita/31022-msg.html

                      *




本日のタイムスオピニオン面

小山さんは「一部本土マスコミ」 と称する地元、マスコミに、差別的ニュアンスを感じてしまうそうです。


                    

                    ◇

■教育長よ何処へ行くー秋田に学べ■

沖縄は未成年の飲酒が多いと書くと 、

「沖縄の悪口を書いて楽しいか!」といった内容の抗議が来るそうです。飲酒の少年5人補導 与那原署  (11/4 10:24)

事実を報道しずらい沖縄は自由にものが言える 雰囲気ではないのだろうか。

教育の荒廃は教師の荒廃にあるという指摘にはそっぽを向いて、

このお方は文科省に「何とかせよ」というのだから驚きだ。

学力向上策の支援要請/県教育長 文科省へ

何かあるとすぐ上京して、役所に何とかしてくれではあまりにも知恵がなさ過ぎる。

それに学力向上は支援しろ、教科書記述は変えろと文科省で言いたい放題だ。

教育長は文科省より、秋田県に行って勉強してきた方が早いと思うのだが。

秋田県は沖縄と同じく最低時給でも、工夫の結果で学力は高いという。

最低時給の秋田と沖縄、学力では明暗…全国テスト結果(10/30)

 <では、秋田県はどうか。・・・・ 「他県の教師が口をそろえるのが『授業の密度の濃さ』。東北全体にいえることですが、教師と生徒の人間同士の距離が非常に近いんですね。東北地方は都市部も過度に密集しておらず、豊かな環境と風土にはぐくまれた双方の人間性が、教育面でも良い方向に出ているということでしょう」

 県教育委員会も、全国最低時給や自殺率NO.1、畠山鈴香被告の2児殺害など暗いニュースが続く中、学力テスト全国1位の報道に手放しで喜んでいるという。秋田・沖縄両県とも、関係者にとって予想外の結果だったことは間違いなさそうだ。 (ZAKZAK 2007/10/30)

問題が起きるとすぐに上京では、防衛庁へ行って「産婦人科医」を遣せといった名護市長(沖縄のローマ市長)のことをを想いだした。

ちなみにこの時、名護市長は「11万人集会」と同じ宜野湾海浜公園で行われた「県民大会」をすっぽかして上京していたが、

そのときの動員数は3万五千人(主催者発表)となっていた。

という事は・・・。

 ◆防衛庁長官 医官派遣は難しい

【東京】島袋吉和名護市長(北部広域市町村圏事務組合理事長)ら北部の三首長は六日午後、防衛庁に額賀福志郎長官を訪ね、県立北部病院産婦人科再開へ自衛隊の医官を派遣するよう正式に要請した。額賀長官は自衛隊病院でも産婦人科医が不足している現状から「厳しい」とした上で、「検討させてもらう」と返答した。(以下略)
(琉球新報 2006年3月7日)



◆沿岸移設「反対」/普天間代替で県民大会

「頭越し」3万5千人抗議

 日米両政府が合意した米軍普天間飛行場の新たな移設先、名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設案に反対する「普天間基地の頭越し・沿岸案に反対する県民総決起大会」(主催・同実行委員会)が五日午後、約三万五千人(主催者発表)の県民らが参加して、宜野湾市の海浜公園多目的広場で開かれた。地元の頭越しで決められた移設案を厳しく批判し、沿岸案に反対する県民の意思を真摯に受け止めるよう日本政府に求める決議を採択した。実行委は今月中旬にも上京し、政府に直接、訴える予定。
 主催する実行委は県政野党や労働組合、市民団体などで構成。県政与党は組織的な参加を見合わせ、稲嶺恵一知事は超党派の主催ではないとして、参加しなかった。

 実行委の比嘉幹郎共同代表(元副知事)は「沿岸案反対は県民の総意といってもいい。政策決定のプロセスとして関係市民の声を聞くというのも民主主義の重要な原理。今回の日米両政府の合意形成の際、このような理念が無視または軽視された」と両政府を批判。
(以下略)

(沖縄タイムス 2006年2月6日)

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント

やぶ蛇、自爆、自殺点? 左翼作家のよしりん批判

2007-11-05 07:38:09 | ★集団自決

 
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

11月3日の琉球新報・文化欄で作家の目取真俊氏が、小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」を批判している。

目取真氏が批判しているのは雑誌「SAPIO」11月14日号掲載の「集団自決の真相を教えよう」だが、

不覚にも新報記事を読むまで小林氏の雑誌「SAPIO」掲載漫画のことは知らなかった。

目取真氏が引用し、批判しているのは次の部分である。

<そもそも「軍命」があったからこそ親が子を殺したとかとか、家族が殺しあったなどという話は、死者に対する冒涜である。 そんな「軍命」が非道と思うなら、親は子を抱いて逃げれば逃げればいいではないか! 自ら子供殺すよりは、「軍命」に背いて軍に殺される方がましではないか!>

<明日にも敵が上陸するという状況下では、島の住民に集団ヒステリーを起こさせるに十分な緊張が漲っていた。 しかも本土より沖縄の方が、村の共同体の紐帯は(ちゅうたい)ははるかに強い。 そのように強い共同体の中には「同調圧力」が極限まで高まる。 誰かがここで「全員ここで自決すべきだ!」と叫べば、反対しにくい空気が生まれる。 躊躇する住民がいれば、扇動するものは「これは軍命だ!」と嘘をついてでも後押しする>

<ひょっとして沖縄出身の兵隊が「敵に惨殺されるよりは、いっそこれで」と手りゅう弾を渡したかも知れない。 だがこれは、あくまで「善意から出た」関与である>

うーん、引用部分は批判している目取真氏には気の毒だが全て説得力がある。 

目取真氏が矛盾点として批判しようと引用した部分が逆に説得力があるのは皮肉なものだ。

目取真氏の批判は、

「米軍に残酷なかたちで殺されるよりは自分の手で殺した方がいい。 そう思った親がいたとしても、問題はどうしてそのような心理状態に追いつめれらていったかである。・・・・」 ・・・・と作家らしく心理面で反論しようとするがどうも説得力がない。

自決に追い込まれた「心理状況」なら、目取真氏が引用した小林氏の次の文のほうがよっぽど理解できる。

「明日にも敵が上陸するという状況下では、島の住民に集団ヒステリーを起こさせるに十分な緊張が漲っていた。・・・」

目取真氏は批判するつもりで引用した小林氏の文章で自爆してしまったのではないか。

自分が批判はした小林よしのり氏の引用文で逆によしりんファンを大量に作ったのではないのか。

ちなみに本屋に行ってみたら「SAPIO」好評で売り切れとの事。

目取真氏は宣伝もつもりじゃなかったと思うのだが。

これってやぶ蛇? それとも自殺点? 自爆テロか。

このままでは目取真氏に気の毒なので、新報記事(8段の囲み記事)の見出しを書いておこう。

<事実ねじ曲げる小林氏>

「軍命」否定に家族愛利用

ん? 「家族愛のため」と法廷で証言したのは金城重明氏ではなかったのか。

目取真氏は小林氏を批判してこうも言っている。

「現在の沖縄を『全体主義の島』呼ばわり、9・29県民大会の意義を否定するのに必死になっている」

県知事を初め各議会、そして教育界の総責任者の県教育長までもが県下の校長を前にして、

政治集会への生徒・教職員の動員を訓示し、当日の全テレビ局は中継で電波ジャックされた様子、そして二つしかない地元紙の狂乱ぶりを見たら

「全体主義の島」のそしりも当たらずとも遠からずだと思うのだが。

これもやはりやぶ蛇。

                    ◇

やぶ蛇といえばもう一つ。

これまで「鉄の暴風」の主張に異論を唱える証言者は黙して語らなかったが、

今回の「11万人集会」に触発され、真相を探る動きが良識派県民の中に見え始めた。

今まで沖縄タイムスにとって「不都合な真実」を証言した記録を整備し資料として残そうという地味な運動も地元で起きているという。

これも一種のやぶ蛇になるのだろうか、「鉄の暴風」で教育された世代が覚醒し始めたのだ。

これまで「集団自決」の証言といえば左翼メディアや左翼学者にとって「都合の良い証言者」のみがメディアに登場してきた。

今まで日の当たらなかったこれらの埋もれた「不都合な証言」がネットで公開される日も近い。

「集団自決」を語るとき手りゅう弾を配ったとされる「防衛隊員」の性格が常に論議の的である。

又「兵事主任」という言葉も故意に軍隊を代表するかのように扱われてきたが、これも防衛隊員の兼任であり、通常は村役場の助役等がこれに任じた。

ちなみに島の女子青年団員の中にも「兵事係り」を任ずるものがいたが、勿論これは正規の軍隊ではない。

「防衛隊員」は現地召集のため家族と常に接触しており住民として家族と起居を共にしながら、あるときは防衛隊員として最小限の武器は携帯していた。

その最小限の武器が論争の争点になる手りゅう弾である。

以下は小林よしのり氏の発言を裏付ける証言です。

証言者はその防衛隊員です。

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録渡嘉敷島で起こったこと                           …778P

渡嘉敷村阿波連

元第3戦隊第1中隊付防衛隊 大城 良平

 (略)

住民と兵隊との板ばさみ

我々が軍の法に従って行動すると、自分の故郷ですから、つらいこともありました。住民をいじめなければならない立場は、人間として矛盾があります。住民は戦争はしませんから、作戦に関係ないと思っておりました。こちらには住民にやっていけない事が少なくありません。捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては、大変迷惑な話です。

敵につれ去られていって、4、5日してから帰ってくる。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します。私は土地のものですから、事情に詳しいので、上官は私を側おいて取調べをやる。罰するのは下の私です。私がやらなければ、又私自身も変な目でみられる。これが大変つらかったです。

渡嘉敷はあまりにも内部の問題が多すぎました。戦史の中では、いろいろな記事が出たり、中には間違ったものもあると思います。私は板ばさみのつらい立場から、その内部問題にふれてみます。

 

集団自決

集団自決は私の家内と子供も半殺しにあって、今家内の傷あとを見ると、よくも生きられたものだと、人間の生命力に感心しています。

家内の経験はむごいものです。手榴弾が発火しないので、お互い殺し合いが始まり、家内は確かに何人かを棒で殴ったし、自分もさんざんクワのようなもので頭といわず胴といわず殴られ、米軍に救われた時は自決の日から3日たっていたといいます。

あの日は米軍の攻撃も激しく、何が何やら全然わからなかったそうです。この辺の真実はどう文章で表現するかが問題です。遺族は運命だとあきらめています。

赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていたのです。

私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長はそんなことは知らなかったと、いっていました。

ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきといぅことです。自発的にやったんだと思います。

それに「はずみ」というものがあります。あの時、村の有志が「もう良い時分ではないか」といって、万才を三唱させていたといいますから、それが「はずみ」になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたといいます。

その時、村の指導者の1人が住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやったと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります

自決の日から2日目、私は中隊長の命令で、東側の儀志保近くに住民がまだたくさん居るので、状況を見に行きました。本部の近くに居りました。

そこが第2玉砕場です。ここでも自決したのかどうかわかりませんが、自決場から逃げてここまで来ると、アメリカの迫撃砲が雨のように降って来て、死傷者が出たということでした。

生き残りには阿波連の人が多いようでした。その中に、弟と親がいましたが、家内と娘はどこにも見あたりませんでした。私は持参のタバコと水を置いて、戦争はどうであろうと仕方がないが、命はぜったいに粗末にするなと、励まして帰って来ました。

前にもちょっとふれましたが家内と娘は、自決場で手榴弾が発火しないので、したたかにクワのようなもので殴られ3日間仮死状態ののち、アメリカ軍に助けられたとのことです。娘は37歳、今那覇に嫁いでおります。

私の家内は自決を体験し、また人のするのも見ているので、真実を知っております。しかし真実の表現がむつかしいのです。集団自決と部隊とは何も関係ありません。軍隊は勝つために一生懸命でした。集団自決をとりあげて、部隊がどうのこうのと書く、それが後世に悪い影響として残ります。大城徳安氏の場合も軍は何も悪いことはありません

(略)

                      ◇

目取真しは小林氏がよっぽど憎いのか一昨年小林氏が『沖縄論』出版を記念して宜野湾市コンベンション・ホール(11万人集会が行われた広場に隣接)で講演会をしたとき同じ日の同じ時刻に目取真氏は反対の集会をぶっつけた。

が、結果は小林講演会は開演前から行列ができ、満員の2000人前後が集まった。

一方、「目取真集会」は70名前後だったが、何故か新聞報道は「目取真集会」を大きく報じていたことを覚えている。

幻の討論会 「小林よしのりvs糸数慶子(沖縄県知事候補)」

緊急!小林よしのり氏招き「沖縄論」緊急シンポ


 
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 沖縄論
小林 よしのり
小学館このアイテムの詳細を見る

 

わしズム 2007年 11/30号 [雑誌]

小学館

このアイテムの詳細を見る



 

コメント (1)

カレーは煮込んだほうが旨い!

2007-11-04 15:35:13 | 年金・老人・身辺雑感

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

曜日ののんびりとした朝。

先ほどから妻は外出の準備で慌ただしい。

着替えをしながら夫に昼食の指示をしていた。

「昨日の残りのカレーがあるので、温めて食べてください」。

「カレーは一晩たった方がおいしいんですって」。

妻は隣の奥さんと一緒にデパートに買い物に行く予定。

それで朝からうきうきしている。

自分たちはきっとホテルかどこかで美味いものでも食ってグルメを気取るのだろう。

「それからもう一つ。 云い忘れていたことがあるわ」

「昨日保険屋さんから電話があったわよ」

「ガン保険か」

「いえ、この家の火災保険が昨日で期日だ切れるんですって。 土・日なので月曜日に契約お願いしたわ」 

「判った」「いいから早く行きなさい」

カレーだ保険だと出る間際になって慌しいことだ。

                *

妻が出かけた後は台風一過の静けさだ。 

しかし1人で留守番するのもたまにはいいものだ。 

テレビを見ながら背伸びをして大きなあくびをした。

すこし早いと思ったがカレーの鍋に火を入れた。

其の時玄関のブザーが鳴った。 

宅急便だった。

「ここにサインと印鑑を下さい」。

印鑑の置き場所がわからず一寸慌てたが何とか用を済ました。 

宅急便屋が帰ると同時に隣のご主人が尋ねて来た。

「女房どもは外でうまいもの、亭主族は内で残り物、これでは割が合いませんなー」。

隣のご主人とは将棋の相手で親しくして貰っている。

「近くに日本蕎麦屋が開店したそうですよ」。

「一緒に昼ご飯食べに行きませんか」。

彼の提案を断る理由は無かった。 

近所だということで下駄履きで出かけた。

隣のご主人は前もって食べたいものが決まっていたらしい。

メニューを見る間もなく注文を決めた。

「私は天ぷら蕎麦にします。 貴方は・・・?」

私はメニューをじっとにらんで何を食べるか考え込んだ。

「そうですね~、蕎麦屋のカレーはうまいですよね」

「私はカレーうどん・・・・? カレー ?」

「しまった! カレーだ!」

私は裸足で蕎麦屋を飛び出した。

全力で走り着いた我が家の前は野次馬の人だかり。 

消防車のホースの先には黒焦げに焼け落ちた我が家があった。

「しまった! 火災保険は昨日で切れていた!」

去年エントリーの「カレーは煮込んだほうが旨い」の再掲です。


 

 

★蛇足:この物語りはフィクションでありで実在の人物、お店には何の関係もない。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

コメント

続・『鉄の暴風』のいかがわしさ 米プロパガンダとしての任務

2007-11-04 06:18:34 | ★集団自決

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

曽野綾子著『集団自決の真相』(旧題「ある神話の背景)は『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)のアンチテーゼとして出版された。

以来、「集団自決」を巡って互いに相対立する立場を代表する本として、この二つの本が論議の中に頻繁に登場する。

その一方を代表する意見として、『鉄の暴風』は現役新聞記者が取材した実証的戦史であるのに対して『集団自決の真相』は小説を書くのが本業の作家が書いたフィクションに近い読み物だ、という論がある。

だが少なくともまともな読解力のある人が両者を読み比べれば上記の評価がまるで正反対であることは一目瞭然だろう。

ノンフィクションの基本である実地調査を無視し、「証言」の裏取りも無く伝聞を主として想像で記事を書きなぐり、新聞記者ならデタラメを書かないという「素人のたわごと」のみで、その内容の正当性を主張しても読む人が読めばその評価は明白だ。

当日記では『鉄の暴風』の記事内容はともかく、初版が出た昭和25年の米軍占領下の沖縄がどのような出版環境だったかを検証して、11月1日「『鉄の暴風』のいかがわしさ」をエントリーした。

その中で当日記が触れた当時の米占領軍とそのプロパガンダ紙としての沖縄タイムス、そして『鉄の暴風』の出版の背景について、

昨日(3日)の世界日報が詳しく報じているので同紙の了解を得て、以下に全文引用する。

沖縄タイムス、琉球新報両紙が地元紙としての本分を忘れ「集団自決」に関しては反対の証言者は全く無視し、一面的報道しかしないのに対し、

「世界日報」は独自の調査で地元紙が報じない「集団自決の真実」を追い続け「真実の攻防 沖縄戦『集団自決』から62年」という企画を連載している。

その特集記事第一部の集大成は「ダイジェスト版世界日報」として発売されているが、

10月より特集第二部として現在新聞に連載中である。

同記事は基本的には有料ネット配信だが下記引用分は同社のご好意で全文引用させてもらった。

同記事を読めば『鉄の暴風』が日本と沖縄を永久分断を計る目的で書かれた米軍のプロパガンダ本であることが改めて確認されるだろう。

                 

                    ◇

「以下引用」(太字強調は当日記)

 
平成19年11月3日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <12>

軍民両政府の命令政策伝達
占領軍、沖縄タイムスに期待

 沖縄戦で亡くなった新聞人14人の霊が眠る「戦没新聞人の碑」=那覇市波上護国寺そば (写真省略)


 昭和二十年七月二十五日創刊の「ウルマ新報」は、米軍の命令で作られた。創刊にかかわった高良一氏は「米軍によって軍政府の情報課に引っぱられ、新聞をやれといわれた。しかし、米軍の宣伝をする新聞を作るとスパイ扱いされるからご免だと思ったが、断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった」と語っている。
 題字を「うるま新報」に変えた同二十一年五月には、「米軍政府ならびに沖縄民政府の機関紙として指定されました。つつしんでご報告申し上げ、引き続きご愛読願います」と、機関紙であることを明言している。

 ところが同社の社長に、瀬長亀次郎氏が就任すると、やがて米軍との関係は悪化。そのため、米軍が協力を約束して発行を認可したのが「沖縄タイムス」だった。

 同二十三年七月一日の創刊の辞で高峯朝光社長は、「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活してゐる、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」と語っている。

 その横に、志喜屋孝信知事の祝辞が載っているが、両者の挨拶(あいさつ)の上に、米軍政府幹部のメッセージが掲げられている。このレイアウトが当時の力関係を、歴然と物語っている。

 軍政府副長官W・H・クレイグ大佐「米国の民主々義を琉球住民に対して啓蒙することが出来るのは斯くの如き機関に依らねばならない。軍民両政府の命令、政策及び指令も国際、地方の情報とともに報道してもらいたい」

 軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉沖縄タイムスが沖縄人民の情報、時事並びに軍民両政府から発せられる指令や命令を報道することは軍政府の要望するところである」

 このメッセージに付けられている「沖縄再建の重大使命/軍民両政府の命令政策を伝達/国際及地方の情報を報道せよ」という見出しからも分かるように、米軍政府は、沖縄タイムスを通じて命令、指令、政策を沖縄の人々に浸透させるのが創刊の目的である。

 こうした経緯で誕生した沖縄タイムスではあるが、検閲が緩かったということはまったくなかった。

 占領下の沖縄において、米軍政府の許可がなければ、新聞、機関紙・誌、雑誌、歌集さえも発行できない。届け出たとしても、その中身がパスしなければ、発行停止や逮捕という事態に陥る。しかし、ここで地元関係者を悩ませたのは、許可の基準が明示されなかったという点だ。

 そこで、沖縄民政府側で、検閲規定草案を作成し、情報部長ハウトン大尉に承認を求めたのである。沖縄民政府から米軍情報部へ出向していた情報部統計課長、川平朝申氏が作成した「演劇・演芸・放送・映画・出版検閲規定草案に関する伺い」の中で特徴的なものを抜粋してみる。

 「2 天皇現人神主義、封建主義、軍国主義、財閥、武士道、大東亜、自殺あるいは、自由人の本然の権利を否定するすべての思想、又は信仰(仇討を美徳とする思想)をすべからず。非民主的封建思想に対する盲従的伝統に従い、民衆の利益をジュウリンすべからず」

 「5 連合軍ならびに連合国を悪批判する演劇、出版なるものを禁ずる」

 「9 衣装、景色、装置、小道具ならびにセリフは上記の規則に順応すべし」

 「10  これらの上演及び発表せんとするすべての原稿は事前に軍情報部の検閲を受くべきである」(門奈直樹著『アメリカ占領時代 沖縄言論統制史』、雄山閣出版)

 これは昭和二十三、四年のころのことだが、軍の方はこれに返答しなかった。そのため、関係者は、軍の怒りに触れないよう恐る恐るという心理状態にあった。何しろ、ようやく新聞が発行されたのだが、必要な資材はすべて軍からもらい受けていた時代だ。

 沖縄タイムスのスタートは、タブロイド判よりも小型の新聞で、二ページ建てのガリ版刷り。週二回の発行だったが、軍補給用紙の見通しが困難という理由で、第十四号以降「本紙は軍命に依り、従来週二回発行を八月十五日以降週一回に変更」と告知している。

 門奈直樹氏は、著書『アメリカ占領時代 沖縄言論統制史』で、アメリカ占領軍も「軍についてありのまま書くことは許すけれども、批判は絶対に許されない」と、常に忠告をし続けていた、と指摘している。そのような状況下で、米軍政府の命令を住民に伝え、また軍命で新聞紙の配給が減るなど、「軍命」に振り回される沖縄タイムスだった。 (世界日報 11月3日)

(編集委員・鴨野 守、写真も)

「引用終了」

『鉄の暴風』はこのような米軍管理の下、僅か3ヶ月のおっつけ仕事で出版された。

その内容が反日思想に満ちた記事で埋め尽くされたのは当然の成り行きであった。

昭和25年、沖縄タイムスは『鉄の暴風』でデマを撒き散らした。

あれから半世紀、出版元の沖縄タイムスは、依然としてこのようなデマを撒き散らしている。

≪沖縄県民11万人島ぐるみの抗議≫⇒デマ

≪集団自決の“軍関与”を削除した教科書検定の撤回を求めた≫
⇒デマ

 

【付記】

『鉄の暴風』の「まえがき」には、「壕中で新聞開発の使命に生きた、旧沖縄新報社全社員は、戦場にあって具に体験した苛烈な戦争の実相を世の人々に報告すべき責務を痛感し‥‥」と書かれているが、沖縄タイムス創立の経緯を検証すれば「まえがき」にある美文が後で取ってつけたきれい事であることが良く分かる。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

沖縄戦記 鉄の暴風
沖縄タイムス社
沖縄タイムス社

このアイテムの詳細を見る

沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO)
曽野 綾子
ワック

このアイテムの詳細を見る

 

 

コメント (3)