通算1002回目の土俵を終え、24年間の現役生活に終止符を打った一ノ矢(46)=本名松田哲博、鹿児島県出身、琉球大学卒、高砂部屋=は「相撲が好きで、少しでも強くなりたいと思っていたからここまで続けてこれた。まだ引退という実感がわかない」と胸中を明かし「ここ2、3年は、そろそろ外から相撲を見てみたいと思った」と引退の理由を挙げた。
最後の取組に敗れ「勝って締めたかった。少し残念」と話した一ノ矢だが「角界入りした時は1002回も土俵に上がれるとは思っていなかった」としみじみと語った。
琉球大1年生の1979年4月、新入生ながらオリエンテーションで「一緒に相撲をやりましょう」と勧誘し、自らの手で土俵を整備し、一から相撲部をつくった。相撲部の顧問として在学中の一ノ矢を見てきた同大理学部の矢ヶ崎克馬教授は「受け身で学生生活を送るのではなく、学業以外にも明確な目的意識を持っていた」と、165センチの体にみなぎる開拓精神をたたえた。一ノ矢は卒業後も、同大の相撲部に新しい土俵や屋根を贈り、けいこに参加して胸を貸したり「自分の相撲の原点」と、後輩を温かく見守り続けた。
角界入りした後も、その知性と人柄を発揮して部屋のホームページを担当したり、新弟子の面倒を見たりと周囲の支えとなり、自らも相撲理論を研究して昭和以降最年長力士として土俵を務めた。
引退後も部屋のマネジャーとして相撲にかかわっていく一ノ矢は「相撲の面白さを伝えたいし、関取にも効率よく強くなれるように指導したい」と意欲に燃える。46歳、相撲人生はまだまだ終わらない。
(琉球新報 11/24 10:54)
◇
大相撲九州場所は優勝、三賞の表彰と共に昨日その幕を閉じた。
が、華やかな表舞台の影でひっそりと力士としての幕を下ろした男がいた。
あの朝青龍もが尊敬する男、一ノ矢とは。
沖縄タイムスが昨日の社説で引退する序二段力士・一ノ矢のことを取り上げた。
一ノ矢は46歳で戦後最年長力士の記録を持つが、もう一つ最初の「国立大卒力士」の記録も持つ。
大卒力士といっても今では珍しくなく、思いつくままにざっと幕内力士の名を上げただけでも、琴光喜(日大)、高見盛(日大)、豊真将(日大)普天王(日大)、海鵬(日大)、出島(中大)、玉春日(中大)、豪風(中大)、雅山(明大)、栃の洋(拓大)、時津海(農大)、時天空(農大)、垣添(日体大)、嘉風(日体大)、玉乃島(東洋大)・・・。
更に十両以下の学生出身力士を数えると大相撲はモンゴル出身力士と同じく、学士力士の存在を抜きにしては語れないほどの大人数である。
学生力士といえば学生時代それ相応の実績を持ってプロ入りするので初土俵から序二段や三段目で相撲を取るのが一般的である。
一ノ矢は同じ学生といっても国立大学琉球大学出身で、それも難しいといわれる理学部物理学科を卒業している。
大学卒業後、決まっていた高校の物理の教職を蹴り国立大学出身力士として史上初の角界入りをした。
身長が規定に及ばず新弟子検査を合格することが出来ずに半年ほど過ぎたが、お情けで新弟子検査に合格、前相撲から初土俵を踏んだ。
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■あの朝青龍がさん付けで呼ぶ■
相撲社会では番付の差はそのまま社会的地位の差。
横綱と二段目では天と地の差があるはずだが同じ部屋の、あの朝青龍さえも一ノ矢のことをさん付けで呼ぶという。
横綱・朝青龍の面倒を新弟子時代からずっと見続けていたため、朝青龍は横綱に昇進した現在も敬意を込めて「一ノ矢さん」とさん付けで呼んでいる。朝青龍は「彼ほど恐ろしい力士はいない」と一ノ矢を尊敬していると言う。 (ウィキぺディア)
沖縄タイムス社説(2007年11月25日朝刊)
[一ノ矢引退]
あっぱれ、最年長46歳
琉球大学を卒業後、角界入りした一ノ矢(46)=本名松田哲博、徳之島生まれ、高砂部屋=が、九州場所を最後に二十四年間の土俵生活に終止符を打った。初の国立大出身力士として話題を呼び、戦後最年長力士だった。
序二段の東103枚目の一ノ矢は、千二回目の最後の土俵で二十六歳も違う若者に敗れた。今場所は勝ち越しを決めていたものの、有終の美を飾れなかった。だが、「力士として土俵に上がることが夢だったから、幸せです」というコメントが、人生を土俵にささげた一ノ矢の終始変わらぬ姿勢を示している。ご苦労さまと言いたい。
夢を実現させるため努力を惜しまなかった一ノ矢は、入門当初からエピソードが多かった。本人によれば、新弟子検査で「身長が足りず、八カ月間居候生活の後、お情け合格」。大卒であろうが学歴、年齢は関係なく、先に入門した者が兄弟子という相撲界にあって、「入門したときから最年長だった」という。
押し、出し投げ、肩透かしを得意技に、一九八三年に初土俵を踏み、力士生活をスタートさせたが、関取と呼ばれる十両には昇進できず、最高位は東三段目6枚目だった。ただ、二回、序二段で優勝(七戦全勝)したことは本人にとって誇りであろう。
一ノ矢は琉大に入学した年の一九七九年、相撲部を創設した。県内の大学で唯一の相撲部だった。二年前には土俵を寄贈、毎年二回は母校を訪れ、後輩にけいこをつけている。
決して大きな体格ではないが、積み重ねてきた成績は、四百八十四勝五百十八敗、休場はわずか六日。
派手な成績は挙げられなかった。だが、好きで飛び込んだ相撲界で、相撲を極めることを常に考え努力を怠らなかった。その結果、現役で最年長まで土俵に上がったということだろう。日々の努力がいかに大切であるかを教えている。
引退後は高砂部屋のマネジャーとなり、来年には結婚するという。一ノ矢の新たな出発を期待したい。
◇
「おまけ」
明治時代に一ノ矢という力士が青森県田舎館村出身でいたらしく、今朝の東奥日報がコラムで一ノ矢を取り上げている。
沖縄タイムスは琉球大学出身ということで一ノ矢を取り上げたが、地道に頑張った老雄の引退に、奇しくも南と北のローカル紙が惜別の文を書いた。
果たしてこの二つの文章、どちらに軍配が上がるやら。
東奥日報 コラム 2007年11月26日(月)
明治二十年代、大相撲の高砂部屋に剛力大関がいた。田舎館村出身の一ノ矢藤太郎である。二十三歳での遅い入門だったが、出世はずば抜けて早く幕内優勝もある。西ノ海らとともに部屋の隆盛にあずかった。その由緒あるしこ名を受け継ぎ、四十六歳まで土俵を務めた同部屋の一ノ矢が引退した。
鹿児島県徳之島出身で琉球大卒。最高位は三段目で大先達には遠く及ばなかったが、角界最年長の名物力士だった。国立大の物理学徒が好きな相撲にのめり込み、気がつけばまげも薄くなる年ごろに。「やればやるほど奥深さを知り、やめられなくなった」。小さな体でコツコツと歩んできた土俵人生に、満足感も漂う「千秋楽」の弁だった。
一芸に夢を託し、悔いなき舞台を去る人がいれば、夢を再びと新たな舞台に挑む人たちもいる。社会人の硬式野球クラブ「ブルーズヨシフォレスト」が船出した。入団テストは雪のため面接だけとなり、応募した六十人が合格した。歌手の吉幾三総監督は、最初に手を挙げた人たちを大事にしたいと、全員を受け入れた。
元プロ選手から高校での経験者、女子中学生まで、さらには最年長は四十九歳などと、多彩な人たちが集まった。野球を通じて古里を元気づけたい。そんな旗印を掲げ、チームは来春から本格始動する。その先には、都市対抗に出場し東京ドームへという未来図も描く。
人生には時と縁がある。歳月は人を待たずとも。人それぞれに夢を生きられるのも、出合いの機微があってのことだろう。
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