狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

党首の悩み町長の悩み、村長さんも悩んでいます。 

2007-11-07 19:17:18 | 未分類

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陸自共同使用 金武町長、受け入れ明言  (11/7 9:52)

 【東京】在日米軍再編合意に基づく陸上自衛隊の米軍キャンプ・ハンセンの共同使用受け入れについて、儀武剛金武町長は6日午後、東京都内のホテルで琉球新報の取材に対し、「(陸自の共同使用を)受け入れる方向になると思う」と述べ、近日中にも受け入れ表明することを認めた。
 普天間移設措置協議会出席のため上京中の儀武町長は6日夜にも、同じく上京した東肇宜野座村長とあらためて話し合う。その上で地元に戻り、志喜屋文康恩納村長とも受け入れ表明についてあらためて話し合う予定。
 儀武町長は、共同使用について「受け入れる方向になると思う。そうしないといけないだろう」と話し、「(再編)交付金(が理由)ではない。全体で見て共同使用の内容がどうなるかを判断しないといけない」と述べた。
 3町村の首長と議長でつくる3町村連絡協議会は陸自の共同使用が負担増になるとして反対を表明していた。防衛省が官報で告示した「米軍再編関連特定周辺市町村」に3町村は記載されておらず、米軍再編交付金の交付対象から外れた。


(琉球新報 11/7 9:52)

                     ◇

小沢党首が辞めると言ったり、辞めないと言ったり。

「オザワる」という言葉が流行るとか流行らないとか。

「辞める、辞める詐欺」も流行語大賞の候補だとか・・・。

政治家はとかく自分の発言の撤回には苦労するものらしい。

ここにも悩める町長さんがいた。

                      *

防衛省:「米軍キャンプ・ハンセンに陸上自衛隊の共同使用を受け入れて欲しい」

町長:「基地負担が増えるので反対だ!」

防衛省:「それでは米軍再編交付金の対象外です」

町長:「むむ! (陸自の共同使用を)受け入れる方向になると思う」

琉球新報:「え? それってお金のため?」

町長:「交付金が理由ではない」

琉球新報:「では理由は何ですか」

町長:「うーん、そうしないといけないだろう」

(影の声:昨日の琉球新報の一面は、

「そうしないといけないだろう」

の大見出しが躍っていた。)

 

街の声①1:「そうしないといけないだろう?  これって理由になっていないのでは?」 「はっきり金のためだといえば分かりやすいのに」

街の声②:「マスコミに追求されるのが怖いのだよ。 町長も可哀そうだよ」

街の声③:「そうだよね。 反戦平和ではメシは食えないものね」

 

この村長さんも悩んでいるようで・・・。

やはり、反戦平和じゃメシは食えないと思うのですがね。

高江ヘリパッド/移設容認を東村長が陳謝

・・・伊集村長は四月の村長選で移設反対を公約していたが、就任後は容認の立場に転換。・・・ 

 

おっと、忘れてもらっては困ります。

ジュゴンとウミガメが気になって悩める知事と町長さんがいました。

県、沖合修正を要求 国、環境影響を指摘 普天間代替  (11/7 16:03)

 

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続々『鉄の暴風』のいかがわしさ◆渡嘉敷女子青年団 匿名座談会

2007-11-07 10:19:14 | ★集団自決

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 新聞社は、自社の紙面に掲載した連載が、読者からの反響を呼び好評だったものを単行本にまとめるのが通例だ。沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年八月、朝日新聞発行)もまた、同じ手順で作成されたと思っていたが、そうではなかった。
 沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊するが、その直後から、社を挙げてこの単行本プロジェクトが進められていたのである。(世界日報)

                      ◇

沖縄タイムス創立から『鉄の暴風』発刊に至る二年間を時系列で追ってみよう。

①沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊

②昭和24年5月『鉄の暴風』編纂開始

③取材(三ヶ月)、5月から7月

④執筆(三ヶ月)、8月~10月

⑤昭和24年11月脱稿。

⑥原稿清書⇒琉球大学大教授に全訳依頼。(米軍検閲用)

⑦昭和25年6月15日、米軍の出版許可が下りる。(※)

⑧昭和25年8月1日、『鉄の暴風』初版発行。(初版は朝日新聞社刊)

※米軍の許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と、手元に置いて手離そうとせず、部下連中はお手上げだったという。(高嶺朝光著『新聞五十年』・世界日報孫引き

※高嶺朝光氏は当時の沖縄タイムス社長。

 「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムス創刊当初より戦記刊行が企てられ、終戦四年目の昨年五月、本書編さんを、豊平(監修)、牧港(執筆)、大田(同上)の三名に託し、半年を経て、上梓の運びに到つたのである」(原文のまま)

『鉄の暴風』発刊の影の主役ともいえるの座安盛徳氏は、取材記者のために証言者を旅館に集めたり、沖縄に本の印刷機がないため上京し、GHQにマッカーサーを訪問するなど、『鉄の暴風』の発刊はまさに会社挙げての大事業だった。

座安氏は元来は新聞人というより商売の分野で能力を発揮した人物で戦前はマニラ麻の輸入販売などで成功しその経験から人脈形成には独特の才能を持っていたといわれる。

座安氏が米軍に太いコネを持った契機は戦後を沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の災害処理を通じてだという。

米軍は、圧倒的優位の武器弾薬で全島に「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、貧弱な装備の日本軍を圧倒し沖縄占領を果たしたが、

沖縄名物の台風の強襲は全くの想定外であった。

当時米軍宿舎の主力だったトタン製のコンセット建造物は飴のように曲げられて、米軍は壊滅的打撃を受けた。

巨大台風「グロリア」の猛威に晒され、沖縄が「台風銀座」だと知って米軍は日本軍よりむしろ台風の強襲に慄いた。

米軍首脳の中には沖縄占領を撤退しようと言う意見さえあったという。

そのとき元々商売人で交際術に長けていた座安氏が米軍情報部長R・E・ハウトン大尉との知遇を得て、新聞発刊に必要な諸物資を支給してもらう事になる。

台風被害を避けて那覇の天妃小学校に保管してあった大量の新聞用紙は、

米軍情報部長ハウトマン大尉、そして座安氏を通じて沖縄タイムスに払い下げられたという。

このように沖縄タイムスの設立から『鉄の暴風』の発刊まで全て米軍の庇護・支援、そして検閲の下に行われたのであるから、

『鉄の暴風』の内容がが企画当初から米軍の広報本という主旨で貫かれるのは自然の成り行きであった。

米軍は解放者であり日本は侵略者だという視点が無ければ米軍の発刊許可が出るはずが無いことは著者が一番承知していたはずである。  

≪昭和二十五年八月一日発行の「月刊タイムス」には、『鉄の暴風』の予約申し込みの広告が一面を使って出ている。そこに二つの読後感が掲載されている。

 J・Rシーツ前琉球軍政長官「“鉄の暴風”の英訳をみせて貰つたが、實に立派なよい本だ。殊に戦斗中の悲惨極まる住民の動きについての描写は、私自身沖縄戦に参加して目撃体験している事実だけに、その正しさもわかるし、感銘を新にして一氣に精読した。私は“鉄の暴風”が沖縄人必読の良書たることを推奨するにはゞからない≫(世界日報)

いかに米軍占領下とは言え『鉄の暴風』の広告に、沖縄占領の米高官が推薦文を書いていた事実には今更ながら驚きである。

「・・・・、實に立派なよい本だ。・・・感銘を新にして一氣に精読した。私は“鉄の暴風”が沖縄人必読の良書たることを推奨するにはゞからない」

このJ・Rシーツ前琉球軍政長官の手放しの推薦の言葉は沖縄タイムスとしては決して現在の読者の目に触れて欲しくない文に違いない。

これで『鉄の暴風』の取材・執筆・発刊にまつわるいかがわしさが白日の下に晒されることになるから。

 

■戦争の残虐さ■

『鉄の暴風』は終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれている。

同じアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』でさえも、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

一方、米軍に占領された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

だが、戦争が元々残虐なものであることをアメリカ人ヘレン・ミアーズが次のように指摘している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

【付記】

『鉄の暴風』の二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』を書いた、ヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年、ようやく出版されることとなった。

アメリカ人が書いた本が発禁で、沖縄人が書いた『鉄の暴風』が米軍の推薦を受ける。

これも歴史の皮肉である。

 

抄訳版 アメリカの鏡・日本 (角川oneテーマ21)
ヘレン ミアーズ,Helen Mears,伊藤 延司
角川書店

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【付録】

女子青年団の中にも「兵事係」がいたのが分かります。

「兵事係」も「兵事主任」も軍の肩書ではなく、村役場の役職だというのが分かります。

                      ◇

 

昭和49年(1974)出版 沖縄県史 第10巻各論編 9沖縄戦記録2

渡嘉敷女子青年団                    785P
匿名座談会

K 私が女子青年団になったのは、昭和18年で、その時には、すでに、ルーズベルトやチャーチルの人形を造って、竹槍で刺す訓練をしていたりして戦争気分は最高潮に来ていたと思います。
M 私はその頃、役場の兵事係をしていましたので、直接戦争と関係のあることばかりやらされていました。渡嘉敷は、徴兵検査は抜群に成績がよく、それだけに、竹槍訓練なども、身にはいったと思います。
N 標準語励行なども、徹底していました。私はちょうどその年に女子師範を卒業して、赴任したばかりでしたが、私が見た那覇のどの学校より標準語が上手でした。
M 基地隊が来て、はじめて、大量の日本兵だったので、島中が大変だった。私たちは、あの基地隊上陸の日から、ずっと終戦まで、日本軍に奉仕していたわけです。
K 始めは奉仕のつもりが、とうとう職業になって月給をもらっていた。私は前の年の11月から2月まで20円の月給をもらっていました。3月は下旬に戦争が始まったために、3月分はもらっていません。
K 私たちは主として、炊事の手伝いではなかったか。私は第2中隊の炊事班に居りました。
H 私は特攻舟艇の滑走路作りや、またそれをカムフラージュする草刈りなどをやっていました。朝、その作業現場に行く時は、いったん港まで来て、積まれている弾薬をかついで、山に持っていって、それから作業は始めるという日課でした。
K 洗濯場ははなやかでした。川は洗濯班の娘達でいっぱいでした。
K 10・10空襲は、作業中、変だとは思っていましたが、いくら空襲でもこんな小さな島までくるはずないと思っていたのです。そうしてたら港に爆弾が落ちた。それで、はじめて兵隊もあれは本物だと壕の中に入っていきました。
  その時やられた船には私の父が乗っていて、機銃掃射で死にました。渡嘉敷に爆弾が落ちたのは、11時頃でした。それまで、兵隊は演習だといって、のん気に那覇の方を眺めていました。すきとおるように、那覇がよく見える日でした。
N 学校も爆弾がおちてから、生徒達を家にかえしました。
K 3月23日まで、とにかく女子青年団という組織じゃなかったが、団員85名、全面的に軍に協力しました。
M 私はむしろその後からが、軍と一緒にやった時期です。それまでは、役場で仕事がありますから団員と一緒ということはありませんでした。
K 基地隊が本島に帰って、赤松隊がきたわけですね。基地隊は武器は全部持って行きましたが、食料はそのまま置いてありました。カツオ節工場2棟は食料が入っていました。基地隊の送別会の席上で、鈴木隊長は、赤松隊と村民も仲よく分けあって食べて下さいとおっしゃつていました。しかし、その食料は23日の空襲でまる焼け、米だけはどうやら食べられたようでした。
M 食料といえば、渡嘉敷の人で栄養失調で死んだ人は居ないでしょう。日本軍には居たようですけれど。
N 渡嘉敷はもともと、米も刈りとると、籾のまま保管し、使う人のだけしか精米はしませんので、どの家でも1年分の食料はいつでもあります。何しろ台風で昔は餓死もしたという経験もありますから。
M 食料はあまり島外に出しません。島外に出るのは、子豚くらいでしょう。カツオ節は特産品ですので戦争中どの家でも2、30斤くらいは持っていたと思います。
K 3月23日は、第2中隊で作業中でした。夕方いったん空襲は終わっていましたので、とっぷり日はくれていましたが、渡嘉敷は赤々と燃えていました。私たち団員ひとりびとり高橋伍長が送ってくれました。私の家の壕に帰ってみると、どこへ行ったのか誰もいませんので、私はそのまま陣地にもどって、そこで夜を明かしました。翌日早朝、第2中隊の陣地に防衛隊がかけ込んで、今、山から見ていると、アメリカの艦隊が、本島の喜屋武岬を廻って、ここに向かっていると報告してきました。
  私はたちどころに家族のもとへ帰りました。この防衛隊は誰だったかは忘れましたが、住民は早く恩納河原に避難せよと、ふれ歩いていました。
H 23日は身動きもできませんでした。でも私たちは、特攻舟艇の出撃を感じていましたから、準備だけは、兵隊の命令で一生懸命やっていました。空襲がいちじ止んで夕方家族の所に帰ってきました。
K 27日でした。再び防衛隊がやってきて、米軍が上陸したので、恩納河原をはなれて、本部の方に避難しなさいと命令してきました。しかし、私たちの家族4名は、私が、母を背負っているものですから、難儀しないようイズン川筋にあった、ナガスジに壕を掘ってあったのでそこに行きました。ウチマシ(屋号) の壕とは隣同士でした。
G 私たちもそういうことで本部に行ったのですが、そこには、4百名くらいの人がいました。
K 命令は、私たちの場合は聞きませんでした。人々が、特に私たちの近くを阿波連の人たちがぞろぞろ行くものですから、私たちもそうしただけでした。
N 私は映画みたようでした。死にに行くってよー、あなたたちはいかないのー、といっているのを夢みたいに聞いていました。
H うしろに米兵がいて、それが、追っかけて来るような錯覚におち入っていました。
G 私たちが本部に着いた時は、とっぷり日は暮れていましたが、みんな死ぬ準備していました。
N その時、手榴弾を防衛隊が配っていた。
   万歳をしたり、君が代を歌ったりしていました。その中で防衛隊が手榴弾の発火のさせ方をみんなに教えていました。
K 私たちの心の中には、敵に殺られるより、自分で死んだ方がよいという考えがありました。女はさんざんいたずらし、男は男根を切る、といいふくめられていましたね。私は部隊が私たちを解散させた23日の晩、手榴弾を2個もらってかくし持っていました。1発は米兵に、2発目は自分にと、それほどまでに決意は固められていました。
  私たちはナガスジを出てウチマジのお父さんは、微雨の側の立木に首をつって死んでしまいました。
H 私たちも、ヨシ門(屋号)(吉門)のおじいさんを中心にして、12、3名でしたが、円をつくっていました。そうしていると、私の弟が、自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました。手榴弾はあちこちで爆発していました。私たちは、なんとなく、ただ皆が死ぬのを見ていました。死にきれない人が、殺してくれと、叫んでいました。そこで私は、オノで頭を割っている光景を見ました。私はその時は無神経のようでしたよ。
N 手榴弾がどかんどかんやっている所へA高地から迫撃砲が飛んできました。死のうとしている人も、死にきれない人も、それで死んだのも少なくありません。
K 自決に失敗して、本部に助けを求めに行く途中、迫撃砲の直撃弾が仲門(屋号)お父さんに当たって、その破片が、西銘のお父さんまで即死させました。すくそばに私はいましたが、かすり傷1つありません。
H 押しあいへしあいで本部になだれ込んでいた。
K 私は、西(北)山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私を撃って下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされて引きかえしました。
  本部に行ってみると、西村大尉が軍刀を抜いて身がまえして、住民はここへ寄るな、きかないかー、斬るぞーと叫んでいた。その時も迫撃砲は間断なく撃ち込まれていました。どうしたわけか、松川の兄さんの手榴弾が爆発して、その破片が、白刃の西村大尉に当たって倒れていました。
N 本部を迫っぱらわれた人たちは、今、言われている第2玉砕場に集まっていました。そこでも自決は行われていましたが、多くは米軍の迫撃砲でやられたのではないかと思います。
T 私は27日、恩納河原に居ました。防衛隊がやって来て、米軍がこの山の上であかりをつけて壕を掘っているというものでから、敵はもうここに来ているのかと、恩納河原をたって本部に行きました。その日は大粒の雨でしたね。荷物が非常に重くなっていました。私たちが着いた所は本部ではなく、玉砕場でした。
S 私のグループは比嘉利輝さんが、手榴弾の信管を抜いて、自分の靴の底にパカパカたたきつけていましたが発火しないので、すぐそばの樫の木にパカパカやったところ、爆発して、比嘉さんの右手がふっ飛び、私たちは無傷でした。みんなが、死んで行く様を見ていると、こわくなって、私たちは、そのまま、本部に行きました。そしたら「こっちへ来たら殺すぞー」と将校が叫んでいました。
  本部で日本軍に追っぱらわれてから、みな乱れていましたね。その瞬間気ちがいになった人もいました。私もどこでどうしたか、本部のあとのことは憶えていません。
K 人情も何もあったものじゃありませんでした。恩納河原を出て玉砕場へ向かっている時です。Mのお祖父さんは寒さのあまり、気絶しているのを家族は早合点して、捨てて先に行ってしまいましたが、この人が生きがえってちょうどそこを歩いていた私にとりすがってつれていってくれというのです。私は母をおんぶしているし、どうにもならないので、本部に行ったら、あなたの家族に知らせますと、別れてさっそく家族を探して、ことの次第を話したのですが、死んだ人が生きかえるはずがないとか、行くまでにまた死んでいるよ、とかいってうけあってくれませんでした。いたる所でこのようなことが起きていました。
H 本部を迫っぱらわれて、第2玉砕場の反対の方向のジーシップ(儀志布)に面する谷間に50名ほどの人たちと隠れていました。全く皮肉なことに、松本の姉さんは男児を出産しました。そのあと私は食料を求めて、ジーシップの上の方に登ってみると、谷間の水はぶくぶく泡を立てていました。血が腐って悪臭をはなっていました。そのままずーっと進んでいくと、玉砕場に出ていました。谷川に落ちた死体もあります。食料はないものかと死体の間を歩いていますと、私を呼ぶのです。よく見ると仲村初子さんでした。今しがたアメリカ兵が来て、見込みのある者は注射してタンカで運び、私は見込みがないと、そのまま、ほったらかされたというのです。私が発見した生き残りは4名でした。山を下りると避難小屋へ急ぎ、4人の人を救出しましたが、2人はまもなく死んでしまいました。Tさんに一家殺されたという人がいました。しかしTさんも、一家自決して果ててしまっていました。
  私の従弟のMは、I先生に殺して下さいと頼んで殺されました。この先生一家もまた全滅しました。玉砕場で死んだのは2、300名ではないかと思います。
K 私は本部を迫っぱらわれたあと、ジーシップの方に下りて行って、そこで頭から毛布をすっぽりかぶって夜を明かしました。ちょうど、そこを通りかかった村長に中村茂子さんといっしょに、医務室の手伝いをするよう命令されました。
  気持ちも落ちつかないし、いやだったのですが、自決場から運ばれた患者の治療だというものですから、仕方なくやりました。そこにはいろいろな人が集まっていました。


 

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