たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

唯一の飛び地

2017-06-15 10:05:07 |  無社殿神社2

<北山村>

 

熊野市・育生町の山深い集落から、

「全国で唯一の飛び地」である

和歌山県・北山村に向けて車を進めました。

夜明けととも始まった「山の洗礼」により、

消耗しきったメンタルを癒すべく、

三重県と奈良県の県境に位置する、

「和歌山県」の北山村の道の駅で、

休憩タイムを取ることにしたのです。

 

延々と山の中を走っている最中、

食べ物を口に入れる暇はもちろん、

食料調達の場所自体がなかったため、

ここに来てようやく「コンビニ」

に立ち寄ることができます。

道の駅近くの温泉施設に併設されたその店は、

この村唯一の生鮮食品を扱う商店で、

近年開店するまでは、

山道を30分~1時間かけて、

近隣の市街地へと買い出しに

出かけるしか方法がなかったのだとか。

 

便利な街中で暮らしておりますと、

ついつい忘れがちではありますが、

過疎地帯・山間地域の日常生活は、

常に食糧危機と背中合わせなのです。

不便な環境の中で生きる人々、

そしてそれらの地に生活物資を運び続ける人々、

そんな「世の中から取り残されたような場所」が、

今なお日本のあちこちに散らばっていることを、

熊野を訪れるたびに実感いたします。


土地の遺伝子

2017-06-14 10:11:06 |  無社殿神社2

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

様々な示唆を与えてくれた丹倉神社を後にし、

再び山道を疾走しながら考えていたのは、

「土地の遺伝子」についてでした。

「丹倉神社」も「まないたさま」も、

土地の人々が古くからお祀りしてきた聖地です。

人間は大地を削って創造されたといわれるように、

縁ある土地の「磁場」を分け与えられたのが、

氏神の元で生まれた「土地の民」であり、

その場所で暮らす「地元の人」なのですね。

 

丹倉神社の氏子にも、まないたさまの氏子にも、

よそ者が持ち合わせない「巨石」の遺伝子が、

すでに心身に組み込まれているのだと思います。

聖地の遺伝子を宿す人々だからこそ、

聖地を守る役割を果たせるのでしょう。

私たちがそのような場所を訪れたときは、

土地の人々のお役目の邪魔にならないよう、

ただ静かに手を合わせればよいだけなのかもしれません。


巨岩の発する磁気

2017-06-13 10:18:57 |  無社殿神社2

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

「丹倉神社」と「まないたさま」で感じた

「落ち着かない感覚」の正体は、

恐らく「巨岩」が発するものかもしれません。

「溜める性質」を持つ石や鉱物の類は、

水のように自浄作用を持たないため、

長い間人間の念を受け止め続けた結果、

悲喜こもごもの様々な「思いの磁気」を

その身に帯びるようになったのでしょう。

 

確かに、鉱物から放出されるパワーは、

私たち人間に大きな作用をもたらします。

ましてや人の背丈をはるかに越える巨岩であれば、

そのエネルギーたるや並大抵ではないはずです。

これはあくまで個人的な感想ですから、

異なる意見も多いと思われますが、

「パワーが強い=願いが叶う」と思い込むと、

逆効果となる場合も往々にしてあるのですね。

 

「丹倉神社」と「まないたさま」も、

無心でお参りする心がけさえあれば、

文句なくすばらしいと思える場所です。

ただし「他人の聖地」が「自分の聖地」

であるとは言い切れない部分も多々あります。

誰かの言う「すばらしさ」ではなく、

自分にとっての「すばらしさ」を、

感じることこそ、聖地巡礼の要なのでしょう。


消化不良の思い

2017-06-12 10:16:16 |  無社殿神社2

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

知る人ぞ知る東熊野の聖域、育生町・丹倉神社は、

昔から「願望成就」や「病気平癒」などの

ご利益があると言われている場所で、

今でも様々な悩みや望み持つ人たちが、

「岩」に祈願するためにこの地を訪れるそうです。

マスコミにも取り上げられるようになった近年は、

訪れる参拝客が以前より増えているとも聞きます。

 

まだ人の立ち入った気配すらない秘境の神社は、

朝の柔らかな光がレースのように聖域を飾り、

とても清浄な空気に満ちていました。

岩壁に描かれた朝日のアートも、

祭壇を彩る白いスポットライトも、

古代の太陽信仰を彷彿させるような

厳かで神々しいひとコマです。

 

と同時に、なぜか「ここは長居をする場所ではない」

という思いが、肌の感覚を通して伝わってくるのです。

「まないたさま」のときと同じく、

お参りと写真撮影を済ませた私は、

「これほどよい条件が揃っているのに…」と、

ちょっと消化不良の思いを抱えながら、

予定よりも早くその場を後にしたのでした。


聖地の行方

2017-06-11 10:13:07 |  無社殿神社2

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

熊野市育生町・赤倉地区にある丹倉神社は、

見たこともないほどの巨岩をご神体と仰ぐ、

自然信仰の原型ともいえるような場所です。

神域へと続く急な石段から平地に降り立ち、

祭壇へと近づくと、さらに強い圧迫感とともに、

尋常ではない高さの岩壁が目前に迫ってきました。

 

参道の途中には、榊が添えられた小さな祠が、

山の斜面を仰ぎ見るようにして置かれ、

岩の手前のご神木の近くには、

きちんと手入れをされた手水場から、

沢の水がちょろちょろと音を立て流れ出ています。

 

深山の懐という厳しい環境からは想像できないほど、

「人間が参拝するための手順」が、

すべて整えられた丹倉神社の神域には、

代々この場所をお守りしてきた人たちの

崇敬心が充満しているのでしょう。

 

どんなに奉仕の気持ちがあっても、

日々聖域を管理するという行為は、

相当の労力を必要とするものです。

数えきれないほどの人間の願いを受け止めてきた、

目の前の巨大な磐座を見上げながら、

さらなる過疎化が進むであろうこの地域の今後と、

「聖地の行方」に思いを馳せてしまいました。


異様な姿

2017-06-10 10:18:29 |  無社殿神社2

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

深い山の中で不思議な存在感を醸し出す、

丹倉神社の白い鳥居の先をのぞくと、

崖下へと続く急な階段が見えました。

とは言え、まないたさまの参道のように、

谷底が見えないほどの高さではなく、

上からでも階段の全長がわかるため、

少しホッとした気持ちになります。

滑らないよう足元に気をつけながら、

ひとつずつ石段を下りて行く途中、

眼下にあらわれたのは巨大な磐座でした。

 

大地を突き破るように隆起する

その丸みを帯びた大きな岩は、

人間など簡単に押しつぶすほどの体積で、

地面に置かれた祭壇に覆いかぶさるように、

ゆるい曲線を描いて鎮座しています。

恐らく、この場所を最初に見つけた古代人も、

その畏れ多くも「異様な」姿の中に、

神を感じ取らずにはいられなかったのでしょう。

見えない異界の壁を通り抜けるような感覚で、

ゆっくりとその巨岩の前へと足を進めました。


丹倉神社

2017-06-09 10:36:09 |  無社殿神社2

<丹倉神社 あかぐらじんじゃ>

 

赤倉林道と呼ばれる大丹倉への最終ルートは、

すでに30分以上も山道を走ってきた身には、

思ったほど困難な道のりではありませんでした。

麓の赤倉地区から進むこと約10分。

林道の脇に白く塗られた鳥居と、

丹倉神社を示す案内標識が見えてきます。

意識しなければ思わず見逃しそうになるほど、

さり気なく出現した聖地への入り口の脇には、

2台分ほどの駐車場も設けられていました。

 

聞くところによりますと、

このスペースが確保されたのはごく最近で、

ついこの間までは林道の端ギリギリに、

車を寄せるしか方法がなかったそうです。

まだ新しさが残る道案内の標識と、

山の中でひときわ異彩を放つ人工的な空間が、

この地に寄せる地元の人々の思いと、

村おこしへの熱い期待を物語っていました。


孤高の集落

2017-06-08 10:33:52 |  無社殿神社2

<育生町・赤倉地区>

 

丹倉神社へと向かう林道の入り口には、

熊野市育生町赤倉という、

日本民話に出てくるような佇まいの

小さな山間集落がありました。

「民宿があるくらいだから…」 という、

当初の予想を大幅に裏切り、

その周辺一帯を取り巻く浮世離れした光景は、

まさに「孤高の里」という言葉がぴったりでした。

 

道路事情がよくなった現代社会においては、

「どこから行っても困難」という場所には、

滅多にお目にかかれないものですが、

この赤倉地区へと向かう県道52号は、

熊野市側からも北山村側からも、

急峻な山道を30分以上も登らなければならず、

この地で暮らす人々のご苦労とたくましさに、

心から敬意を示したくなるような道です。

 

狭いスペースで対抗した軽トラックのおじさんは、

私が「外地の人間」と判断するや否や、

離合しにくい場所で車を停めてしまったことを、

まるで自分の責任であるかのように、

運転席の窓を開けて頭を下げてくれました。

私たちが求めてやまない真の聖地は、

こうした人たちの力によって、

長い間守られ続けてきたのでしょう。


自問自答

2017-06-07 10:30:03 |  無社殿神社2

<県道52号線>

 

というわけで、今回の旅の記事のほとんどを、

「目的地までの道路事情」に割いておりますが、

決して地図には載っていない荒れた登山道や、

未舗装のオフロードを利用したわけではなく、

あくまでも生活道として使われている道が大部分ゆえ、

ある程度運転に慣れている方であれば、

さほど問題なく通行できるとは思います。

 

これらの話の中でお伝えしたいのは、

熊野という土地の厳しい環境と、

「聖地」を物見遊山の感覚で訪れることへの危うさです。

私自身、細く険しい山道に対峙する中で、

「本当に行っていいものだろうか…」という疑問が、

頭の中に浮かび上がり、聖地に対する甘い考えを

自分自身に問いただした場面が何度もあります。

 

言うなれば、こうして自問自答することこそが、

「神社参拝」「聖地巡礼」の意義のひとつであり、

「お参り」の一環なのでしょう。

「どのような準備期間を経てこの場所に来たか」

「どのような気持ちで神社を参拝したか」を、

神様は遠くから見ているのかもしれません。


秘境の里

2017-06-06 10:27:24 |  無社殿神社2

<育生町・赤倉地区>

 

丹倉神社へと続く県道52号線は、

事前予測をはるかに越える「エグイ」道でした。

ピンポイントの恐怖感という意味では、

「退避スペースなし」「路肩不安定」の

静川・高倉神社への道中には劣るものの、

先ほどお参りした「まないたさま」への道が、

もはや初心者向けのコースに感じられるほど、

いくらアクセルを踏み続けても、

一向に森の中から抜けられないまま、

延々に崖っぷちの片側車線が続いています。

 

ガイドブックにも紹介されている場所ゆえ、

「それほど大変ではないだろう」と

高をくくっていた部分もあったのですが、

やはり地図上の印象と、実際に訪れて

感じた印象とでは雲泥の差があるもの。

初めて訪れる観光客のためにも、

全国の地自体の担当者の方々には、

ぜひとも周辺の「道路状況」についても、

詳しく周知して欲しいと思います。

 

そんなこんなで、走り続けること約30分、

すでにアクセルを踏む感覚すら麻痺した、

私の目の前に突如としてあらわれたのは、

思わず「これは、また…」と絶句するような、

周囲を山また山に囲まれた秘境の里でした。


神社サバイバル

2017-06-05 10:24:25 |  無社殿神社2

<大丹倉 おおにぐら>

 

まないたさまの次に向かったのは、

熊野市の名勝・大丹倉の入り口に位置する

丹倉神社(あかぐらじんじゃ)という、

これまたプリミティブな場所(磐座)です。

ちなみに、丹倉神社のある山中に向かいがてら、

いくつかの神社へと立ち寄ったのですが、

途中ガソリンが残り少なくなったことに気づき、

「このまま進むべきか、市街地へ戻るべきか」

と逡巡した結果、大丹倉へ向かう交差点を目前に、

再び熊野市の街中へと舞い戻ることにしました。

 

山々に点在する神社を巡っておりますと、

一番困るのがトイレやガソリンスタンドを、

なかなか見つけられないことです。

これまで何度も冷や冷やするような体験をした結果、

遠回りをしてでも休憩スポットを探す癖がつきました。

案の定、大丹倉へと続く県道52号線沿いは、

ガソリンスタンドはおろか人家もまばらで、

次第に標高を上げる山道を登りながら、

「やはり今回もサバイバルだったか…」という思いが、

頭の中にふつふつと湧いてまいった次第です。


見えない圧迫感

2017-06-04 10:07:51 |  無社殿神社2

<まないたさま>

 

有馬町・池川地区の民間信仰の聖地、

まないたさまを訪れたときに見かけた、

「二つの岩の間に敷き詰められた浜石」

「二つの岩の間から流れ落ちる滝」は、

女性の「産み出す力」の象徴でしょう。

ここを参拝した人々が広める、

「女性の願いを叶える」という風評も、

「さもありなん」と納得してしまうほど、

不思議なエネルギーがみなぎっています。

 

山間集落の奥地にあるとは言え、

市街地からそれほど離れていない場所で、

このような原始の自然の姿と対面できるのは、

たいへん得難く貴重な経験です。

と同時に、他の無社殿神社では感じなかった、

「圧迫感」のようなものを覚えたのも事実で、

参拝及び目的の用事を済ませるとすぐ、

その見えないプレッシャーから逃れるように、

一気に元来た坂道を駆け上がったのでした。


微かな引っかかり

2017-06-03 10:02:42 |  無社殿神社2

<まないたさま>

 

「まないたさま」という

親しみやすいネーミングとは裏腹に、

熊野の山中にあるその古代信仰の聖地は、

まるで荒ぶる神が宿るかのごとく、

プリミティブな姿を保っていました。

鳥居の向こうに敷き詰められた滑らかな白石と、

岩と岩との間を流れる小さな滝の流れだけが、

未だ朝日も差し込まない深い森の谷底に、

そっと白い色味を添えています。

 

二つの巨岩が折り重なるようにして作られた

狭い空間(磐座)にはご神体があるようですが、

周囲を取り囲む巨岩の圧倒的な存在感と、

心の中の微かな「引っかかり」に阻まれ、

それ以上立ち入ることはできませんでした。

古代そのままの様相を残すこの場所は、

確実にすばらしいところだとはわかるものの、

なぜか「早くこころ立ち去らなければ」

という焦燥感にかられるのです。

 

ひと通り周りの風景を写真に撮ったあと、

この地に立ち寄らせてもらったことの感謝を伝え、

「長居は無用」とばかりに、その場を後にしたのでした。


ワイルドな絵面

2017-06-02 10:00:37 |  無社殿神社2

<まないたさま>

 

熊野市有馬町の池川という集落にある

まないたさまという自然信仰の聖地は、

どこまでも深く険峻な崖の際に沿って、

ひたすら山道を下った先にありました。

まさに「谷底へと転げ落ちる」

という表現しか浮かばないような状況の中、

足元を確認しながら慎重に足を進めて行きます。

幸い地元の人々の厚い信仰心のおかげで、

参道のほとんどに頑丈な石段が敷かれてあり、

荒天のときでもなければ、さほど心配はないようです。

 

参道の行き止まりを前にして、

木々の隙間から見えてきたのは、

これまで歩いてきた森の景色とはかなり趣の異なる、

巨大な岩々がゴロゴロと転がった荒々しい様相でした。

一番手前の岩と岩の間には、

天然の木をそのまま利用した

小さな鳥居が置かれています。

その粗削りでワイルドな「絵面」には、

一瞬近づくことをためらうほどの、

野生的なパワーがみなぎっていました。


とうりゃんせ

2017-06-01 10:00:02 |  無社殿神社2

<まないたさま>

 

古くから水神をお祀りする聖地として

また婦人病への霊験あらたかな信仰の場として、

女性たちからの厚い信仰を集める「まないたさま」は、

近年はスピリチュアルスポットとしても周知される、

民間信仰の色合いが強い場所です。

 

ちなみに「まないた」の語源は、

美しい水をあらわすマナイト(真名井戸)が

転訛したものだと言われており、

実際にまないたさんの聖域は、

産田川の源流部分に位置しています。

 

「山道をひたすら下ったところにある」

という話までは聞いていたのですが、

実際に入り口に立ってその地形を確認しますと、

想像をはるかに越えるほどの傾斜の崖道が続き、

どこまで降りれば谷底につくのかも確認できません。

 

一日の生活が動き出したばかりの午前6時過ぎ、

その付近には一軒の民家があるのみで、

遠くの木々の間を駆け抜けようとした鹿の親子が、

「まさかこの時間に人間に見つかるとは」といった表情で、

驚いたように立ち止まり、こちらのほうを見ています。

 

冷気を含んだ早朝の風が竹林の中を吹き抜け、

サラサラと乾いた音を立てる中、

私の脳裏には「行きはよいよい帰りは怖い…」 という、

とうりゃんせの歌だけが、

グルグルとリピート再生し続けていました。