連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

死後の世界

2018-02-22 09:25:59 | しのぶ
 世代交代というか、良き時代の終焉を実感する逝去に立ち会った。
 戦前も、戦後も富裕階層に属し、その維持に、渾身の労働を惜しまなかった。
”女傑”と言われていたらしいが、子の年代に当たり、仕事上の接触は皆無に近かった私には実感がない。
直来で、”わがまま”といわれていたが、許される範囲のわがままで、本人は、心の底から、変!とか、そうあってほしい!ということを口に出しただけだったでしょう。

変熱心なクリスチャンで、急な体調変化で、入院しても、必ずロザリオを枕もとに。
日本在住の、八百万の神々にも、お願いするのは、全くやぶさかではなく、不動産関係の職種だったので、地鎮祭はもちろん、方位を占ってもらったり、出かける時の、方角、出発時間の安全とかも気になり、まるで平安時代のようで。

夫唱婦随で、家業を盛りたてた夫君は、曹洞宗の仏教徒であり、今は、仏となられております。
宗派の違いは、死後の世界に関わります。
夫の死後、病を得たときに、しっかりと頼まれました。
≪仏門の徒として、夫の墓に入るのだと。神様は寛大だから。≫
体調不良で、覚悟を決めていたので、逝去の報を長男から受けたとき、葬儀の在り方を確認しました。
色々な神様を信じていたから、仏式でということで、安堵。
世間常識から、なかなか認めがたく、トラブルもあるのではとの老婆心から、多くの人が集まる通夜に出席。
ご住職の、クリスチャンであったことを配慮された、お通夜の説教でした。
出席されたクリスチャンにも配慮された、お祈りの時間があるお通夜が営まれ安堵しました。
3男一女の子供との行き来は頻繁でしたが、同居の長男は常日頃の関係もあり、仏教で葬儀を営むことは、当然であったのですが、
長男以外は、戸惑い、愛する母の意向であったのかしらと一抹の不安があったようで、
夫と来世もともにあることを望まれていた通りの、仏教徒としての旅立ち。生前から頼まれ、望んだ通りですと、
通夜に出席した甲斐がありました。

あくる日には、告別式での弔辞で、
寛大な神様を信じて仏教界に旅立ち、ご冥福、ご祝福を述べさせていただきました。

弔辞
早坂とし子様

 恩師宇塚善郎先生の縁で、なにくれとなく親しくし接していただいた齋藤淑子が謹んで弔辞を述べさせていただきます。

 戦前、戦後をチャーミングに、本人は男らしい性格なのと言いながら、かわいいもの、美しいものが好きで、それらを、身の回りにおける立ち位置を、家族から、またご本人の実力で維持されて生き抜かれました。
 嫁ぐ前の虎川姓時代には、戦後の混乱時の陳情に、お父君に同伴して東京まで出向かれたときの新しい息吹に振れたことを、生活の中で実現される努力を続けられてきました。
 また、宮城県女子専門大学での教育を、先に逝去された夫の孝夫様の健康維持に生かそうと努力されていました。
 
早坂家に嫁いでからは、お茶の水大学卒業で、凛として美しいお姑様、またご友人たちにふさわしい嫁であることにも心を砕いておられました。
 
夫孝夫様は、病弱な幼少時を過ごされて成人されたこともあり、大学病院に入院を繰り返され、その時の主治医であった恩師宇塚善郎は、子の手を握りながら、乳児を背負い一生懸命な美しい奥さんを悲しませてはいけないと、診療に努めたと度々話されておりました。また、夫、孝夫さん亡き後は、家を支えた母の努力を忘れずに、大事にしなければいけないと、とし子様の尽力を子供たちの前で称えられ程に、家の維持に努力を惜しまずに過ごされてきました。
 
夫を立て、夫唱婦随で、病弱の夫に代わって仕事をし、事務所を花で飾り、日本画にいそしみ、身近な花、景色を描き、またその絵を飾り、常にアクセサリーを身に着け、美しく装われておられました。 

ご夫妻ともどもグルメで、仙台ホテルでのローストビーフを食べる会食を催したり、感謝を込めた、おもてなしなど、気配りの効いた方でした。

おっかないことは避けたく、近寄らない性分であったようで、その極みは飛行機嫌いで、海外に興味があっても、飛行機に乗らなければならないことから、結局は出かけずじまいに終わったのではないでしょうか。海外の学会出張の折は、大丈夫かしらと気をもみ、他人事でも、我が身に降りかかる大事を避けるためのように、危険に合わないように、替わり身となり祈祷を受けて下さったりと、心を尽くす方でした。無事に帰ると、好奇心あふれるまなざし土産話を楽しんでいただきました。
 
晩年、夫の博識を誇りに思っておられたとし子様が、口にされたのは、≪昔人だから、夫唱婦随で、夫を立て、家業を盛り立て、病弱な夫に変わり仕事をしてきた。
子供たちには、最善をしてあげたいと思っても、多忙できなかったこともたくさんあったし、良かれと思ってしたことも、結果が、望ましくないこともあった。でも、子、孫の幸せを願って、精いっぱい頑張ってきました≫と。晩年は、私に同意を求められる機会が増え、頑張ってきたから、宇塚先生が、お母さんを大事にしなければ天罰が当たると子供たちに諭されたのではないのと応えたものでした。

夫、孝夫様逝去後、陰になり、また表に立って仕事をしてきた家業を子供たちにひきつがれ、安堵しながらも、面倒を見る夫亡き後の寂しさ、気がかりな子、孫たちの独り立ちの手のかからなくなった寂しさを噛みしめながら、家の精神的支柱としての、生きる価値を家族から称えられ、また応えようと前向きに過ごされた幸せな生涯をおくられました。カソリックとしてロザリオは傍らにあり、神様の寛大な心を信じて、いつも傍らで過ごすことを強く願っておられた夫孝夫様のもと、仏教界に旅立たれました。
これからは、お父ちゃんと呼びかけながら楽しい安らぎの時をすごされ、まだ、現世にとどまっている私たちを、次にお会いできる時まで、お見守りくださいますように願いつつ、ご冥福をお祈り申しあげます。

平成30年2月7日

齋藤淑子

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