赤裸々な場面に満ちあふれてる医療現場。
排尿、排便について訪ねるのは当然。症状によっては,微に入り、細に入り。
手術後、怪我をして身動きが取れないときは,白日の監視の下に、
排泄行為を行わなければならない。
20年前に、術前検査として,血管造影後の父の言葉が印象的であった。
”自立的に、人目を避けての行為を、突然監視されながらスムーズに出るはずがない。
検査後数時間経っているので、是非トイレで排尿したい。お願い。”
最終決断者として家族の中に厳然として存在していた父の願いなので、
点滴台は父自らが押し、私は穿刺部位を必死に圧迫しながら、
歩行速度を二人で協調させながらひっそりと排尿を済ませて、
病室に戻る途中に、看護師にみつかり、こってりと叱責された。
幸いにも,穿刺部位の再出血はなくほっとした記憶がある。
衆人環視のベッドサイドで排便を命じられ、習慣となった若いクローン病患者が、
病状が安定し、共同トイレでの排便が許可となったにも関わらず、
かたづけたポータブルトイレを、自らベッドサイドに運び込んで、排便を行った。
患者は、一人での排便は不安でできなくなったていた。
高齢者とひとくくりにしてはいけない。
社会の一員として活動していた頃の知的活動能力を維持している高齢者は、
筋力低下で、自立的に排泄行為は困難となり初めは、
困惑、自信喪失、、その後はどうする?
排泄行為は、毎日、毎日、生きている限りは必然なのだから。
排泄物の残留に伴う臭いは、芳香族に属するが…………。
加齢臭を気に出来る段階から、さらに進んでしまった段階では、
受け入れ、開き直り、慣れる。
高齢者病棟の、医療従事者、介護者は、現実を直視、受け止め、慣れ、仕事と割り切る。
ある介護者は、患者様が不快にならないように、
心地よい香りを身につけて接するようにしていると。
患者自らが発する臭いに対する感受性と、
身近に接する人の臭いに対する感受性は別物。
少し前に、2060年には国民一人あたりの借金が1億円近くに達する年代では
増大する高齢者、介護を必要とする高齢者の増大も伴っている。
さてさて、どうなるのでしょう。
ネクローシス的生物の終焉ではない高齢者の死は、アポトーシス的死。
苦痛はなく、消え入るように生命の鼓動を止めるように映る。
CURE 治療して治すから、
CARE 見守る医療の転換点の見極めの時は
社会的容認に裏打ちされないと、
見逃し、医療放棄などとして医療訴訟の火種になる。
患者側、医療側双方にとって益のない事態。
家族にとって、喪失の悲しみはあっても、
十分に見守り、見送ったという充実感を感じる最期となるように。
死ぬ場所までも、社会というか、国の厚生労働方針で変えられてきたと実感させられた,何年か前から始まった内科学会総会での講演。
生前は、女学校で、家で死ぬ場合の教育が成されていた。
それが、社会保険の普及で,病院で死ぬのが、最も安くなった。
在宅で死なせろと言ったって、
金銭感覚から、労働力からいっても、
病院で最期を迎えさせル潮流を変えるのは容易ではない。
文化的背景を、国を挙げて壊しておきながら!
という発言を記憶している。
人手、経済力の喪失を前にして、
死んでから後の,葬儀の有り様よりもっと議論が必要。
葬式前の、赤裸々な現実を直視して考えるか?
ケセラセラ、なるよういになるさ!
とでも思わないと、重苦しくなる
深刻な,高齢化社会、生産性低下の日本