すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1918号 読谷村に「やちむん」の工房を訪ねる

2024-02-29 15:06:17 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】読谷村(よみたんそん)は沖縄本島中部の東シナ海に面し、全国の「村」で最も多い41634人が暮らす。座喜味城跡や残波ビーチといった豊かな歴史と美しい風光の村だが、沖縄戦では米軍の最初の上陸地になり、集団自決など多くの住民が命を落とす悲劇の村であった。敗戦で村の95%が米軍に接収され、現在も東部を嘉手納弾薬庫が占めるなど36%が基地のままだ。それでも村民は村づくりの目標に「いちゅいゆんたんざ」を掲げている。

(壺屋の荒焼き登り窯跡)

旅を重ねていると、こんなことがある。陶芸好きな私は、沖縄に行けば当然、那覇の壺屋を訪ねる。今回も「やちむん通り」の石畳をゆっくり登りながら、両側に並ぶ店を覗き込む。「やちむん」とは沖縄の言葉で「焼き物」のことだ。通りの中ほどの、陶器と織物を並べる店で足が止まる。妻が琉球絣に見とれている間、私は陶器を見て何点か惹かれる壷と蓋物を見つける。そして魚をモチーフに描いた湯飲みを見つけ、「あっ」と声に出して妻を呼んだ。



20年前、妻とこの通りで買った皿のセットと同じ意匠なのだ。店に覚えはないけれど、同じ作家の作品に違いない。店の女主人が魚の意匠とは別の陶器を指差し、「これとこれも同じ作家さんです」と説明を始めた。そのいずれもが私が惹かれた壷や蓋物であった。20年前も今も、私はその作家に吸い寄せられるようなのだ。「読谷に窯を構える作家さんで・・」と女主人が饒舌になると、私の記憶が次第に蘇ってきた。「あっ、あなたから買ったんだ」



20年前もこの店で、妻がまず見つけ、私も気に入ってこの作家の皿を買ったのだった。陶磁器の好みは人それぞれで、形に惹かれる場合もあり、釉薬や意匠による器の表情が気に入って、という場合もあるだろう。私は壺屋焼を特徴付ける、強い線彫りに施釉する意匠をあまり好まない。むしろこの作家のパステル調とも言えそうな釉薬と、柔らかなデザインに惹かれる。翌日は読谷に行く予定なので、俄然、訪ねたくなり、工房の住所を教えてもらう。



沖縄の陶磁器産業は17世紀初め、地場産業育成を目指す琉球王府が薩摩から朝鮮人陶工を招いたことにより始まる。1682年には各地の窯を那覇市壺屋に統合、壺屋焼が誕生する。民藝運動で本土に紹介された壺屋焼は、今では「日本の陶芸」の一角を占める。戦後、薪窯の煙害を避けるため、多くの窯元が読谷村に移窯した。良質な粘土が豊富なことや、村が基地跡の活用で「やちむんの里」を構想し、大規模な共同登り窯を設置したことによる。



私たちが訪ねたのは、「やちむんの里」とは少し離れた住宅地に、小さく「南陶窯」の看板を掲げる久場政一さんの工房だ。首里の生まれで、壺屋焼とは系統が異なる琉球焼を名乗り、ご夫婦で歓待してくださった。例の魚のモチーフはもう作っていないということだった。「年を取ったら釉薬の匂いが変わってね」と、素人には判り難いことをおっしゃる。「赤を発色させるために3度焼く」というのには驚いた。いかにも陶工らしい風貌の72歳である。



「いちゅいゆんたんざ」とは「勢いのある読谷」ということだそうで、村民が創造・協働し、勢いを増す読谷村を目指しているという。役場近くの旧日本軍飛行場跡地は大規模な再開発が進行中だ。窯業で言えば村内の窯元は70を超え、読谷村だけでも沖縄は琉球王国が目指した陶芸の島になったと言えるだろう。「やちむんの里」の登り窯は、20年前よりかえって綺麗になった印象である。周囲の道路も整備されて、記憶が蘇らない。(2024.2.17)























コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第1917号 本部半島先端でフ... | トップ | 第1919号 北谷から宜野湾へ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Tokyo-k Report」カテゴリの最新記事