すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1919号 北谷から宜野湾へ、芸術を歩く

2024-03-03 10:27:03 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】沖縄に名嘉睦稔(なか・ぼくねん)という版画家がいることは知っていた。2000年の九州・沖縄サミットでも、その作品は広報用に活躍していた。何とか作品に対面したいものだと思い続けて、ようやく北谷町のボクネン美術館を訪ねることができた。幸い展示室は私と妻だけ。作品から作品へゆっくり歩く。そして大作『大礁円環』で足を止める。私は無数の魚たちに誘われ、いつの間にか沖縄の海中を散歩している。その没入姿を妻が写真に撮る。



魚が樹々が女神たちが、画面から溢れ出さんばかりに描かれる。縦横無尽に鑿を走らせた墨の線で隈取られる南国の樹叢や海。木版の良さは、そうした饒舌な騒音を鎮めてくれるところにある。私は「この色彩に惹かれるのだな」と気が付く。「裏手彩色」と名付ける紙の裏側から色を滲ませる独特の手法は、版画に柔らかさと奥行きを与えている。ボクネンさんは1953年、沖縄の離島・伊是名島に生まれる。本島から30キロ北方に浮かぶ孤島だ。

(ボクネンさん高校時代の油絵)

島は琉球王統発祥の地とされ、沖縄では特別な存在らしい。現在の人口は1200人ほど。中学までこの島で育ったボクネンさんは、本島の工業高校デザイン科に進学する。絵画的造形の才が備わった人なのだろう、高校時代の油絵はゴッホを思わせる。デザイナーとして活躍していたボクネンさんが「版画」に出会うのは30歳になったころらしい。そして棟方志功の作風に触れて才能が爆発したのだろう、「描き足らじ」と言いながら彫りまくる。

(ボクネンさんの「祈り」)

創作にあたっては版木を前に祈り、浮かんでくる完成形の印をつける。本人にしか知ることのない下絵を、一気呵成に彫りあげる。衆人には理解し難い手法だ。「絵は観る人のものであり、観る人の率直な心に委ねるしかない」と言い切るボクネンさんは、展示を撮影フリーで開放している。志功がいてシャガールがいてボクネンがいる。展示室の螺旋階段から屋上に出る。ボクネン氏が設計したうねるような大屋根越しに、カラフルな街が見渡せる。



ここは北谷町(ちゃたんちょう)のアメリカンビレッジ。嘉手納と普天間の米軍基地に挟まれた、米軍施設が集中する街だ。飛行場跡地に建設されたテーマパークのようなモールは、修学旅行の高校生らに大人気だとか。私は街の乱雑なまでの色彩の氾濫に辟易し、ボクネン版画の色の記憶が乱れないようにと、逃げるようにモールを脱出する。那覇への帰路、普天間飛行場がある宜野湾市の佐喜眞美術館に行く。丸木夫妻の「沖縄戦の図」を観るのだ。



佐喜眞美術館は普天間基地に食い込むような位置に建てられている。そこは巨大な佐喜真家の墓域であり、墓所だからこそ返還を受けたのかもしれない。佐喜真道夫館長は「芸術の力で《もの想う場》を作ろう」と、接収された土地の地代で美術品を購入、美術館を建てたのだという。そこに丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」が展示されている。巨大な画面に、戦場の惨状が水墨で埋め尽くされている。描かれた人々の顔に引き寄せられる。沖縄の顔だ。



受付で「屋上を展望台だと思っている人がいるようだけれど、ものを想う場なのです」と呟くように語っているおじさんが、館長のようだ。屋上からは普天間飛行場の滑走路が垣間見える。緑陰さえ焼き尽くされた故郷に、もの想う緑陰を創ろうとしている人。そして沖縄の孤島に生まれ、その自然を描き続けている戦後生まれの版画家。私はこの日、「芸術の力」を信じる二つの魂に出会って、とても重いけれど、確かな清々しさを覚えた。(2024.2.17)
































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