すずめ通信

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第1579号  城は消え村の名も消え子持山

2018-06-01 08:35:04 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】群馬県の子持山(1296m)南面に、近年まで「子持村」があった。その位置を私流に説明する。「関東平野を図形化すると正方形になる(と考える)。北を上部とすれば南・東辺は太平洋、北・西辺は山地である。その平野部を北西角(左上)から南東隅(右下)へと対角線状に流れるのが利根川で、その上流部を赤城山との接近で塞き止めようとしているのが子持山である」。実に適切な説明だと思うのだが、ご理解いただけただろうか。



子持村は、平成の大合併で渋川市に編入されたのだが、その村名の歴史は50年足らずの短いもので、この土地に長く刻まれて来た地名は「長尾」であり、その内の「白井(しろい)」である。「長尾」は15世紀なかほど、一帯を治めた関東管領の重臣・長尾景仲に依るのだろう。長尾村は消えたものの、小学校にその名を留めている。「白井」は利根川に吾妻川が合流する要害の崖上に築かれた長尾氏の白井城や、越後街道の白井宿である。



郷土史書『北群馬・渋川の歴史』(1971年刊)によると、景仲は神仏の崇敬篤く、儒者を招いて城内の学問所で家臣教育にも熱心だったという。「百姓を大事にし、民生に尽くし」て、1463年(寛正4年)、76歳で没した。景仲開基の雙林寺に行くと、今でもその治世がしのばれる。「この地によくぞこれだけの」と呆然と見上げるほどの山門を構えた曹洞宗の学問寺である。往時は2000人を超す修行僧が全国から集まったという。



長尾氏は戦乱の時代の中で表舞台から消え、白井城も徳川幕府開府間もなく、廃城となる。本丸のわずかな石積みと濠の一部を残すだけであるけれど、長く農地として耕されてきたせいか、郭跡はよく確認されている。本丸で出会ったおばあさんは「昔はもっと広かったのさ。吾妻川にえぐられ、本丸のあっちが、ある日ドサッと落ちたのさ」と教えてくれる。だがその「ある日」がいつのことだったのか、聞いても答えてくれなかった。



子持山麓も対岸の渋川同様、古墳時代の榛名山の噴火で降り積もった火山灰層で厚く覆われている。台地は今も絶え間なく流れに洗われているから、いずれまた「ドサッと」落ちるかもしれない。中世末期のいっとき、北関東の有力地として学問文化が輝いた子持山麓は、時折り境界争いや新村名騒動といった人間くささを噴き出しながら、時代とともに社会のギラつきから離れ、麦や蒟蒻を育てる長閑な村里へと風景を馴染ませて行く。



その山襞の一角で、テニスの佐藤次郎が生まれたのは明治41年。全英、全仏、全豪で5回、ベスト4に進出した日本人最高のプレーヤーである。『渋高五十年史』には、旧制渋川中学3回生の次郎が大正13年の「第1回体育デー」で、400m走1分2秒3、走高跳び1m40で1位になった記録がある。テニス部のコーチ「佐藤太郎」は兄だろうか。余談だが、同窓会設立総会の出席者に「長尾輝景」と、殿様の子孫のような名も見える。



子持山は小さな火山だが、いい山容だ。子を抱く母の姿に似ているというけれど、私にはどうもそのようには見えない。中腹に鎮座する子持神社の縁起は古く、万葉集には「児毛知夜麻」の表記で歌が詠まれている。木立に囲まれ森閑とした境内は、修験の痕跡を留める山道が頂に向かって森に消える。東は利根川が赤城山との綾戸の渓谷を刻む交通の難所である。だから新幹線はトンネルを通過し、乗客が山を見ることはない。(2018.5.15)

















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