すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1832号 水郷を香取の海へと遡る 

2022-12-16 15:43:49 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】広大な関東平野を下った流水が集まり、海への出口を探っているあたりだから、あちこちに大きな「水溜り」が形成されるのは当然だったろう。長兄格が霞ヶ浦(西浦)だとすれば次男は北浦、そして末っ子が外浪逆浦(そとなさかうら)とでもなろうか。印旛、手賀、牛久などの沼々は従兄弟のようなものだ。いったん留まった膨大な水は、結局は利根本流に纏められ、銚子で太洋に注ぐ。人々は内海の入口に当たる南と北に神を祀り、世界の守りとした。



香取神宮と鹿島神宮である。国譲り神話で活躍するフツヌシ(香取)とタケミカヅチ(鹿島)をそれぞれ祭神とし、東国の、(失礼ながら)今では片隅とでも言えそうな地で「神宮」を名乗るのである。そして後世、神宿る下総の佐原、常陸の潮来、鹿嶋の一帯に「水郷」という名が付いた。佐倉から成田を経てやってきたJR成田線は、佐原から銚子を目指すが、次の香取で鹿島線が分岐する。ここから鹿島神宮駅までの短区間、車窓に水郷が展開する。



香取駅は香取神宮への最寄り駅ということで、神社を模したらしい凝った駅舎だが、無人だ。神は南方の丘に鎮まっておられる。鹿島線はすぐに北へカーブし利根川を渡る。さすがに下流域ということか、坂東太郎もここまで下ると流れは限りなく緩やかで、たっぷりと満ちる川幅は広大で、まるで潟のように静かである。日没を前に、黒い小粒な鳥の大群が舞い降りる。川面で眠りに就くのだろうか。遥か西方の二つの峰は、常陸国の筑波山だろう。



「十二橋」という、水郷らしい名の駅を過ぎる。水田地帯が続いている。佐原は千葉県一の米どころだという。再び川を渡る。対岸にホテルらしい建物が並んでいるから、潮来に着くのだろう。ということはこの水路は常陸利根川で、霞ヶ浦の水の出口だ。かつては利根本流だった流れで、下総と常陸の国境である。土浦に宿泊し、昇る朝日を浴びていた1年前、私はこの方角を眺めていたことになる。直線距離で70キロほど。さすが全国2位の大湖だ。



鹿島線は東に向きを変え、三たび水を渡る。北浦だ。鹿島灘と西浦に挟まれた、南北に細長い丘陵地に生まれたこの湖は、昔は外浪逆浦も含めて一つの湖水となり、海に開いていた。さらには印旗沼などの従兄弟たちも含め、一帯は広大な汽水湖だったのである。それはつい500年ほど前まで存在していた「香取の海」である。大和朝廷は東国経営の中核の地としてこの内海を支配し、香取神宮と鹿島神宮を置いて陸奥との交易の利権を握ったのである。



では「香取」とは何か。万葉集には「舟乗しけむ高島の香取の浦ゆ」「大船の香取の海に碇おろし」などが見られる。詠まれているのは琵琶湖の情景らしいが、香取は「大船」や「浦」にかかる「楫取」を指しているのだろう。船の舵取り、それも比較的大きな船を操る集団が多く暮らしている水運の土地だから、この地も「香取」になったのではないか。神宮の森に立って1500年ほど遡れば、社の眼前は「海」であり、水郷はまだその水底なのである。



未だ鎌倉も江戸もない古代の東国で、ここは最も賑わう土地だったかもしれない。後々「お江戸見たけりゃ佐原へござれ」と江戸をしのぐ賑わいを歌われた佐原は、伊能忠敬が生きた街である。水面を縦横に行き来した「香取(舵取り)の民」たちの土地から、陸上をひたすら歩き切って測量した人物が出現した偶然が面白い。佐原駅前には香取市内で4体目になるという忠敬像が建っている。12年前に訪ねた際は、まだなかった像だ。(2022.12.7)













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