すずめ通信

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第1906号 小平の平櫛田中彫刻美術館に遊ぶ

2024-01-20 15:44:50 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】小平市の中央南部、玉川上水沿いの閑静な住宅街である。庭の一隅に巨大なクスノキの胴部を置く邸宅がある。上部には雨除けの傘が懸けられ、高さは2メートルにもなろうか。胴回りは大人二人でようやく抱えられるほどの太さに見える。98歳でこの地に転居してきた彫刻家が、100歳で購入した木彫用材なのだという。「わしがやらねばたれがやる」と、107歳で没するまで創作意欲を燃やし続けた平櫛田中(1872-1979)の居宅跡である。



そこは現在、彫刻美術館として公開されている。平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)は明治5年、岡山県井原市の田中家に生まれ、倬太郎と名付けられる。10歳で福山市の平櫛家に養子に出る。かねて「でんちゅう」とは変わった号を用いたものだと思っていた不思議が、美術館の年表によって解けた。その作品には、何度も出会っている。茨城県五浦天心記念館の「岡倉天心像」や広島県福山駅前の「五浦釣人像」、東京・国立劇場の「鏡獅子」などだ。



出会うたびに彫像の表情のリアルさと人体表現の確かさに惹きつけられ、「うーむ」と唸って腕を組む。今回は「星取り法」という木彫の技法が興味深かった。ただこの日は、黙して語らぬクスノキの圧倒的存在によって、芸術家の生き様を知る機会にもなった。住み慣れた東京下町を90代後半の老境で離れ、工房を新築して転居、使い切れないほどの用材を準備した人間がいたことに、我が惰性のような日々を叱責された思いになったのである。

(「岡倉天心像」茨城県五浦天津記念館)

有り余る才能で世の中の賛美を一身に浴び、長寿を全うした。これほど恵まれた人生はあるだろうか。しかし才能は努力の結晶であり、備わった純真な性格に拠ってもいる。しかも50代半ば、成人を目前にした長女と長男を相次いで失う不幸にも襲われている。こうした生涯を知って再びクスノキと向き合うと、もはや言葉での表現など虚しくなる。老いてなお土を型どる小柄な彫刻家の写真姿に触れ、こうした存在を「巨人」というのだと知る。



上水の両岸に続く遊歩道を10キロも下れば、わが街になる。それほど近いのに私は小平を知らない。確か平櫛田中ゆかりの地だったなと、何かで聞きかじったことを思い出しやって来たのだ。マンションが少ない分、少しだけ鄙びているものの、流れに沿った植生が似ているからか、佇まいは10キロ下流の私の街とそっくりである。近くに津田塾や一橋などのキャンパスがあって空が広い。江戸時代初期までは原野だったと連想するのは難しい。



「多摩六都」という自治体協議会がある。小平・東村山・清瀬・東久留米・西東京(田無・保谷)の6市が「みどりと生活の共存圏」を謳って連携する広域行政協議体だ。東京都の中央北部に隣接し合う76平方キロの地域で、73万人を超える暮らしがある。湧水豊富な東久留米を除けば水が乏しく、平坦地ながら玉川上水が開削されるまでは農業不敵地だった。100年前には28000人程度だった人口は、高度成長期のベッドタウンとして急増する。



最晩年の平櫛田中がなぜ小平に新邸を建てたのか、美術館でも解らなかったけれど、上水を包む緑と静寂に癒されたことは確かだろう。近くの「小平市ふれあい下水道館」に立ち寄る。バクテリアによる汚水処理や江戸時代の下水の仕組みなどを見学しながら、府中街道地下25メートル辺りまで潜り、「小川幹線」を眼下にして散歩を終える。上水と下水が立体交差する地点で巨人の事績に触れる、短時間ながら濃密なひとときであった。(2024.1.17)

(「五浦釣人像」広島県福山駅前)

(「鏡獅子」小平市平櫛田中彫刻美術館パンフレットより)


(「気楽坊」小平市平櫛田中彫刻美術館パンフレットより)
































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