
【Tokyo-k】新潟に出かけたついでに、原発行脚を試みることにした。頭の中に福島の惨状が焼き付いて離れないからだ。「原子力発電と生活」を考える時、新潟はなかなかリアルな土地なのだ。
(新潟市内の関屋分水)
新潟市から海岸沿いを南下(正確には南西方向だろうか)する国道402号線を行くと、東北電力が建設を断念した「卷原子力発電所計画地」の角海浜がどこかにあって、さらに行くと東京電力「柏崎刈羽原子力発電所」が見えて来るはずだ。
(角田浜灯台)
この道路は海岸線ギリギリに建設されていて、「越後七浦シーサイドライン」とか「日本海夕日ライン」などといった愛称がついているように、景色はいいのだが、それ以上にカーブが多い。
(寺泊港から弥彦山を望む)
難所が連続する細々とした人道だったのだろうが、それでも古くからの「北陸道」や「北国街道」と重なる部分もあって、320年ほど昔の夏には、芭蕉と曾良がとぼとぼ歩いていたはずである。
(角海浜の隣接集落・五ケ浜)
国道420号は、新潟市から柏崎市までの80キロ余を結んでいる。「卷原発」の角海浜はその中ほどのやや新潟市寄り、ということになろうか。友人の運転は確かなのだが、私の、うろ覚えの地理が頼りの行脚だったものだから、「巻原発」の跡地を見つけるまでかなり迷走した。
(角海浜の子供たちも通った浦浜小学校跡)
何とかたどり着いた入口は、「道路脇が崩落したため通行できません」という西蒲区建設課の物々しい柵が進入を拒んでいた。柵には小さく「道路側溝の両脇土地は私有地です。無断立ち入りおよびゴミの投棄を厳禁します。東北電力株式会社」という張り紙もある。
(この柵の向こうが巻原発計画地)
いずれも微妙な日本語である。行政と電力会社の張り紙が一緒に張ってあることも異様だ。看板はおそらく、跡地を見せないための方便であろう。巻町民の意思で建設断念に追い込まれた原発予定地を、このご時世では人目にさらすことがはばかられるということか。
(正面の尾根の向こうが原発計画地)
住民投票や町長のリコール運動で騒然とした巻原発問題は、町有地の売却を巡って最高裁まで争われ、結局、推進派が敗れ、東北電力は建設を断念した。かつては「越後の毒消し売り」の女たちが行商で稼いだ財を持ち帰り、豊かな集落が営まれていたという角海浜は、原発計画で廃村となり、いまでは山の稜線の奥深く、薮と砂浜に戻りつつあるらしい。一種の負の産業遺産とでも言えそうな歴史である。
(原発はここにできるはずだったと、地元のおじさん)
こうした顛末からほぼ10年、福島原発の事故を目の当たりにして、巻の住民たちは何を思っているか知りたい。だれが正しかったかをあげつらうのではなく、生活者の意識が、現在の原発を取り巻く厳しい事態に直面した時、どのように変化して行くものなのかは、いまでは新潟市に合併された巻地域の人々こそが答えることが可能だと思われるからだ。
(芭蕉も歩いた北国街道・出雲崎宿)
東北電力はこの用地を、今後どうするのだろうなどと、余計な心配をしながらさらに下って出雲崎に着く。芭蕉が「荒海や・・」と詠んだ69年後、ここで良寛が生まれている。いつ来ても良寛さんはその生家跡で、荒れた日本海の向こうに霞む佐渡島を眺め、坐っている。良寛様が生きた時代からほぼ200年後、弥彦山の向こう側の西蒲原で可愛い男の子が生まれた。私のことである。
(良寛堂前で日本海に向きあう良寛さま)
それはともかく、先を急ぐと、江戸時代の廻船業者の栄華を物語る巨大な長屋門が現れたりして、日本海の厳しさと豊かさを知る街道を南下する。そして荒海の向こうに米山の稜線が現れるころ、その手前に柏崎刈羽原発がうずくまっていることに気づいた。
(廻船問屋・内藤家の門)
防風林に囲まれ全体像は分からないが、とにかく広大な敷地であるらしい。道路は敷地手前で途切れ、フェンスの「撮影禁止 東京電力」という大看板と対面することになる。公道に居る者に対し、なぜ居丈高に「禁止」と言えるのか、その発想が分からない。
(柏崎刈羽原発。遠方は米山)
沖合では海上保安庁の船だろう、舳先を原発に向けて停泊している。テロ対策のためなのか、これも原発にかかるコストだとしたら、原発はやはり高いものについているのではないか。
(撮影禁止の原発敷地)
隣接して原発サービスホールなる施設があった。見学に来た芸能人らの写真が飾ってある。有名な芸人の兄の大学教授は、所長らしき人物と並んで写り、「原発は希望の光!」と色紙にサインしている。福島原発の事故とその被害を知ったいまも、そうやって愛嬌を振りまいていられるだろうか。
(刈羽原発のサービスホール)
原子力発電は、確かに人類の夢のエネルギー源と考えられた時代もあった。資源に乏しいこの国でも、とりあえずは低コストで電力を生み出すことができると、国策に掲げられた。原子力の平和利用に関心を持つ理科系の学生らに、人気の専門分野でもあった。
(刈羽原発の全体模型)
だが人知の及ばない技術に手を出すべきではないとの反対論は根強く、そうした「夢」に陰影を刻み続けた。だから国も電力会社も、安全委員会の御用学者らを使って「絶対安全」という虚構を構築するしかなかった。だれもが「絶対安全」など信じていなかった。「とりあえず安全」なのは、原発から遠く離れた大都会の人間たちだけなのだ。
(浜の清掃奉仕をした様子の高校生。背景は刈羽原発)
しかし「安全だ」といい続けるしかない状況が作られて行き、その先兵である電力会社は、札束で住民の不安を押さえ込むしかなかった。もちろんその札束は、電気料金に上乗せして捻出されたものである。
(柏崎駅前のモニュメント)
人口9万人の柏崎市は、潤沢な原発マネーで様々な施設を建設してきた。ところがそうした施設の維持管理費が膨らんで、いまでは深刻な財政難なのだという。原発に安易に寄生してきた行政手法が行き詰まりを見せているのだ。
(中心街の駅前通り)
だが原発マネーの使い道を、住民が目に見えて実感できるようにハコモノに限ったのは経済産業省である。電力会社から接待・付け届け・天下りの人生設計まで受けていたエネルギー官僚たちは、「原発マネーをもらった後は自治体の責任」とうそぶいているに違いない。
(商店街は人通りより貞心尼の歌碑の数が多い)
原発の敷地をぐるっと迂回して柏崎に着く。お彼岸の柏崎市街は、閑散を通り越して人の姿が稀であった。整備の行き届いた港の公園から望むと、原発はすぐそこに見える。中心部からは8キロほどの距離らしい。市民は「原発のある暮らし」に馴れているのだろう、海岸では多くの子供たちが早春の浜を楽しんでいる。
(地域のランドマーク・米山)
そういえば先ほどの東電サービスホールで刈羽原発のパンフレットを求めたら、受け付けの女性は「ありません」と言ってうなだれた。(たくさんあるのですが、福島の事故以来、全て仕舞い込むように言われていて・・)ということなのだろう、困惑した顔がそう語っていた。なんだか可哀想になった。
(日本海の空)

新潟市から海岸沿いを南下(正確には南西方向だろうか)する国道402号線を行くと、東北電力が建設を断念した「卷原子力発電所計画地」の角海浜がどこかにあって、さらに行くと東京電力「柏崎刈羽原子力発電所」が見えて来るはずだ。

この道路は海岸線ギリギリに建設されていて、「越後七浦シーサイドライン」とか「日本海夕日ライン」などといった愛称がついているように、景色はいいのだが、それ以上にカーブが多い。

難所が連続する細々とした人道だったのだろうが、それでも古くからの「北陸道」や「北国街道」と重なる部分もあって、320年ほど昔の夏には、芭蕉と曾良がとぼとぼ歩いていたはずである。

国道420号は、新潟市から柏崎市までの80キロ余を結んでいる。「卷原発」の角海浜はその中ほどのやや新潟市寄り、ということになろうか。友人の運転は確かなのだが、私の、うろ覚えの地理が頼りの行脚だったものだから、「巻原発」の跡地を見つけるまでかなり迷走した。

何とかたどり着いた入口は、「道路脇が崩落したため通行できません」という西蒲区建設課の物々しい柵が進入を拒んでいた。柵には小さく「道路側溝の両脇土地は私有地です。無断立ち入りおよびゴミの投棄を厳禁します。東北電力株式会社」という張り紙もある。

いずれも微妙な日本語である。行政と電力会社の張り紙が一緒に張ってあることも異様だ。看板はおそらく、跡地を見せないための方便であろう。巻町民の意思で建設断念に追い込まれた原発予定地を、このご時世では人目にさらすことがはばかられるということか。

住民投票や町長のリコール運動で騒然とした巻原発問題は、町有地の売却を巡って最高裁まで争われ、結局、推進派が敗れ、東北電力は建設を断念した。かつては「越後の毒消し売り」の女たちが行商で稼いだ財を持ち帰り、豊かな集落が営まれていたという角海浜は、原発計画で廃村となり、いまでは山の稜線の奥深く、薮と砂浜に戻りつつあるらしい。一種の負の産業遺産とでも言えそうな歴史である。

こうした顛末からほぼ10年、福島原発の事故を目の当たりにして、巻の住民たちは何を思っているか知りたい。だれが正しかったかをあげつらうのではなく、生活者の意識が、現在の原発を取り巻く厳しい事態に直面した時、どのように変化して行くものなのかは、いまでは新潟市に合併された巻地域の人々こそが答えることが可能だと思われるからだ。

東北電力はこの用地を、今後どうするのだろうなどと、余計な心配をしながらさらに下って出雲崎に着く。芭蕉が「荒海や・・」と詠んだ69年後、ここで良寛が生まれている。いつ来ても良寛さんはその生家跡で、荒れた日本海の向こうに霞む佐渡島を眺め、坐っている。良寛様が生きた時代からほぼ200年後、弥彦山の向こう側の西蒲原で可愛い男の子が生まれた。私のことである。

それはともかく、先を急ぐと、江戸時代の廻船業者の栄華を物語る巨大な長屋門が現れたりして、日本海の厳しさと豊かさを知る街道を南下する。そして荒海の向こうに米山の稜線が現れるころ、その手前に柏崎刈羽原発がうずくまっていることに気づいた。

防風林に囲まれ全体像は分からないが、とにかく広大な敷地であるらしい。道路は敷地手前で途切れ、フェンスの「撮影禁止 東京電力」という大看板と対面することになる。公道に居る者に対し、なぜ居丈高に「禁止」と言えるのか、その発想が分からない。

沖合では海上保安庁の船だろう、舳先を原発に向けて停泊している。テロ対策のためなのか、これも原発にかかるコストだとしたら、原発はやはり高いものについているのではないか。

隣接して原発サービスホールなる施設があった。見学に来た芸能人らの写真が飾ってある。有名な芸人の兄の大学教授は、所長らしき人物と並んで写り、「原発は希望の光!」と色紙にサインしている。福島原発の事故とその被害を知ったいまも、そうやって愛嬌を振りまいていられるだろうか。

原子力発電は、確かに人類の夢のエネルギー源と考えられた時代もあった。資源に乏しいこの国でも、とりあえずは低コストで電力を生み出すことができると、国策に掲げられた。原子力の平和利用に関心を持つ理科系の学生らに、人気の専門分野でもあった。

だが人知の及ばない技術に手を出すべきではないとの反対論は根強く、そうした「夢」に陰影を刻み続けた。だから国も電力会社も、安全委員会の御用学者らを使って「絶対安全」という虚構を構築するしかなかった。だれもが「絶対安全」など信じていなかった。「とりあえず安全」なのは、原発から遠く離れた大都会の人間たちだけなのだ。

しかし「安全だ」といい続けるしかない状況が作られて行き、その先兵である電力会社は、札束で住民の不安を押さえ込むしかなかった。もちろんその札束は、電気料金に上乗せして捻出されたものである。

人口9万人の柏崎市は、潤沢な原発マネーで様々な施設を建設してきた。ところがそうした施設の維持管理費が膨らんで、いまでは深刻な財政難なのだという。原発に安易に寄生してきた行政手法が行き詰まりを見せているのだ。

だが原発マネーの使い道を、住民が目に見えて実感できるようにハコモノに限ったのは経済産業省である。電力会社から接待・付け届け・天下りの人生設計まで受けていたエネルギー官僚たちは、「原発マネーをもらった後は自治体の責任」とうそぶいているに違いない。

原発の敷地をぐるっと迂回して柏崎に着く。お彼岸の柏崎市街は、閑散を通り越して人の姿が稀であった。整備の行き届いた港の公園から望むと、原発はすぐそこに見える。中心部からは8キロほどの距離らしい。市民は「原発のある暮らし」に馴れているのだろう、海岸では多くの子供たちが早春の浜を楽しんでいる。

そういえば先ほどの東電サービスホールで刈羽原発のパンフレットを求めたら、受け付けの女性は「ありません」と言ってうなだれた。(たくさんあるのですが、福島の事故以来、全て仕舞い込むように言われていて・・)ということなのだろう、困惑した顔がそう語っていた。なんだか可哀想になった。

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