みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

下根子桜にはコブシも咲き(3/28)

2015-03-29 08:30:00 | 賢治関連
 下根子桜にカタクリはまだですが、コブシは咲きましたよ。
《1 》(平成27年3月28日撮影)

《2 》(平成27年3月28日撮影)

《3 》(平成27年3月28日撮影)

《4 》(平成27年3月28日撮影)

《5 》(平成27年3月28日撮影)

《6 ヤブカンゾウ》(平成27年3月28日撮影)

《7 カキドオシ》(平成27年3月28日撮影)

《8 エゾタンポポ》(平成27年3月28日撮影)

《9 》(平成27年3月28日撮影)

《10 コブシ》(平成27年3月28日撮影)

《11 》(平成27年3月28日撮影)

《12 》(平成27年3月28日撮影)

昨年このコブシは殆ど咲かなかったが、今年はたわわに咲きそうだ。

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2 コメント

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如何なるか辛夷という名 (辛文則)
2015-03-31 03:20:11
     鈴木守 様
  ご両親、立て続けに彼方に送って心落ち着かない想いで居られることと、……。
  実は、小生の場合、父親がどんな思いで、大正七年に生を受けた七十五年間の人生を、どんな念い、どんな歴史経験への有時経歴を生き抜いて来たのかを、〈真面目(しんめんもく)〉に問い直し始めたのは、その「いきなりの死」と直面した後のことでした。釜石生活(釜南七年間)から盛岡に帰って同居生活再開半年目、いきなりの心筋梗塞死でした。戦前・戦中・戦後のことなど、本人から問い質したいことなども相応に抱えてはいたのですが、殆ど突っ込んだことは尋ねていませんでした。
  で、画友にして、所謂〈学テ闘争〉時代の同志だった佐藤啓二氏 ― 学テ闘争時頑強祖岩教祖委員長で地方公務員法違反で国から告訴.最高裁判決も有罪.岩手県議.― に、葬儀の日が県議会初日なことを知らず弔辞を頼み、別人を推されたのですが、代読でもと無理強いしたのですが、御本人に来て戴いて。   で、その弔辞の中で、「岩手師範学校時代、松本竣介も賛助出品していた〈白楊会〉と名付けた洋画同好会の発会に参画して…」という紹介が。
  その葬儀の参席者の中で、そのエピソードに驚愕したのは小生唯ヒトリだけだった訳です。というのも、たまたま、『志高創立三十年記念誌』編纂のメンバ-として、「新渡戸稲造と宮澤賢治の思想精神を現代に掘り起し肖り学べ。ボーイズ アンド ガールズ ホールド ニュウ アムビション。大志真理 誠実敬愛.」と提言し、〈白楊(ギンドロ)〉の蘖を勤務経験のあった黒南高から取り寄せて植え、その葉の図柄を校章と制服デザインに取り入れ因縁について、〈白楊・どろの木〉をキーワードに用いている、先駆形が複数ある『どろの木の下から』や『いま来た角に』の読み解きに取り掛かり始めていた矢先だったものですから。
  固より、岩手師範学校美術選科の学生たちの中で企図された洋画同好会に〈白楊会〉という名が選ばれたのは、昭和12年4月、父が、尋常小学校訓導兼青年学校助教諭に就く前のエピソードですし、そのエピソードうぃ佐藤啓二氏に語ったのは〈吾が父〉以外はあり得ません。というのも、佐藤氏は、一関中から東京高師(東京教育大)に進んだ数学教師だったからです。何かの因縁で岩教組委員長になり、「教え子を二度と戦場に送りません」という教育運動に関わっていた吾が父と親しくなっていたと。縁の不思議が、小生自身が大学の恩師の勧めで加わっていた地域の絵画グループの、佐藤氏もメンバーで吾が父も加わったという因縁なのでした。固より、佐藤啓二氏も吾父辛文人も、表面は穏やかながら、日本国憲法擁護・反戦平和主義の気骨ある同志だったという次第です。
   小生が、「賢治・白楊・盛岡志高精神」に延々と拘っている二本の柱の内の一本が、左様なエピソードに由来してえいるという次第です。で、もう一本の柱は、『白堊校百年史』編纂副事務局長として、「昭和二年時点の盛岡中学校生徒、佐藤俊介と舟越保武はその時代を如何に生きたのか?」を、『二人の美術家』と題した通史として書いた経験でした。固より、活字に出来た事柄は、調べ、考え、書いたてみたことの数十分の一に過ぎず、そのシコリが、共通于の時代問題を含んでいた、『釜南七十年史・釜石夜間中学通史』を書く仕事から『志高三十周年記念誌』と四高研究紀要『白楊』寄稿文から、あろうことか『遠野高校百年史』編纂にまで尾を引き、火が消えるどころか、益々燃え盛ってシマッタという為体なわけです。
   想えば、十五歳の機、父から買い与えられた『松本竣介画集』の巻末に掲載されていた、昭和十六年四月発表のリベラル非戦的エッセイ『生きている画家』に感銘を受け、竣介と保武に憧れて「吾、十有六志画工乃至美術家」への道に迷い込んでシマッタことが凡てのハジマリということのようです。
   吾が父辛文人から遡って、辛喜代治・辛文弥・辛文七直亶・辛津門・辛河内・辛頼母・辛造酒・辛文七康永・中野吉兵衛光康……中野吉兵衛康実にまで歴史の断片を遡ってみたくなったり。で、吉兵衛康実の実兄は九戸政実であり、康実が再興し、葬られた、康実終焉の高水寺城(郡山城)近くの紫波、曹洞宗長岸寺(長岩寺)から、その四百年後、釜石石応寺住職として昭和六年に、浄土真宗寺住持渡邉灌水師から釜石夜間中学を継承した瀬川吾朗師が出ていた(午朗の父は長岩寺住持)、といった因縁が…。で、吾朗の難しい時局での中学経営を裏で指導支援していたらしいのが叔父の私立岩手中中学校長鈴木卓苗師だったのかも、などと。
   尚、灌水師の子渡邉顕麿氏(釜南創立八十年記念講演者)と同様釜高卒で東大地球物理学教授になった吾朗師の次男爾朗氏や釜石大観音を経営している末弟の伺朗氏は、小山卓也先生の従兄弟だったという「事実の因縁は小説より奇にして玄妙ならん」といった塩梅。
   で、「こぶし咲くあの丘北国の…」の〈こぶし〉には何故に、〈辛夷〉という漢字があてられているのかしらん、などと。〈夷〉という字は、〈蝦夷〉や〈荒夷〉つまり〈あらヱビス胡堂〉に縁をもつように、〈バーバリアン(異邦人・異端者・逸脱者)〉の意味を代理する名ですよね。〈新〉や〈親〉や〈辯〉や〈宰〉や〈辜(つみ)〉や〈僻〉や〈避〉そして〈言〉という字の裏(うち)に蔵(かく)されている甲骨文字の〈辛〉については、……。
   で、〈辛夷〉や〈白木蓮〉の別名は〈マグノリア〉。華厳哲学の四法界に道う〈理事無礙法界〉の象徴に用いられています。因みに、その先の、ライプニッツのモナドロジーや、『荘子』の〈渾沌(万物斉同)〉にも通じるとされる〈事事無礙法界〉は『インドラの網』に譬えられるとか。賢治の『林の底』から始まり、『マグノリアの木』『天帝釈インドラの網』を経て『雁の童子』に到る、所謂西域童話が、華厳哲学の学習を土台にしているらしいことは、その蔵書からも。小生としては、『青森挽歌』やその進化形としての『銀河鉄道の夜』にも、「〈ギンドロ〉は〈銀のモナド・ロジー〉の換喩的象徴ならん」という夢想を、……。
  臨済禅公案に、「如何なるか趙州庭前の柏樹子?」と共に有名な問いが、 「父母(ぶも)未生以前本来の面目や如何?」。畢竟するに、この公案は、「如何なるか万法帰一?」と同じ問い。〈万法帰一〉は〈万物斉同(渾沌)〉や〈万象同帰〉といった四文字が代理する意味と一如一等のようです。
   尚、この場合の〈一等〉は〈大等〉や〈大拙〉や〈大愚(良寛)〉と不同不二だというのですから、禅言語哲学的用語は厄介千万です。田中智学が造語して大東亜共栄の旗印にしようとした〈八紘一宇〉をの思想を遡ると、…。
    これを、〈理法界(空観・中観)〉や〈事法界(事的世界観)〉に先立つ〈素朴実在論的世界観・俗世的世界像〉で解釈すると、「トータリタリアニズムとしての八紘一宇・大東亜共栄」に雷同化してしまう訳ですから、慥に、「難有い々々々、アブナイ、アブナイ、気をつけてもアブナイよう。復亦始まりそうですじゃ。」、といった塩梅で、……。
    因みに、二十五歳の鈴木貞太郎に〈大拙〉という居士名を与えた釈宗演が二十七歳の夏目金之助に、「父母未生以前本来の面目の意味を応えてみやれ」と訊いたのに対し、金之助は「心を離れて物無し、物を離れて心無し」という、〈身心一如(しんじんいちにょ)〉の意の模範答案を返したのに対し、宗演は、「一寸学があるならその位のことは言える。もっとギロリとした所を持ってこないと駄目だ。」つまり、「そんなベタ(ステレオタイプ・型通り)な答えではオハナシにならんよ「」と応じたとか(『門』)。漱石が五十歳で逝った時の導師は釈宗演でその時に与えた居士名が〈文献院古道漱石居士〉だとか。〈文献院〉は院号ですから、居士名は〈古道漱石〉ですね。その意や如何。
   因みに、吾父が、盛岡報恩寺住持で永平寺上席にある臥雲室禅師が与えてくれた居士名は〈泰堂文英〉です。そんな名は「経曰」にはなさそうですから、小生は、オヤジが考えて頼み込んだのでは、などと。で、そんなことが可能なら、小生が貰いたい名は、信士でも居士でも構いませんから、〈文遊理道樂遊民洞〉という長ったらしい名。〈洞(よむ)〉は、〈洞察〉や〈洞見〉、つまり「サッと煌めいて玉響(たまゆら)閃く」、などと。
   文遊理道道樂遊民洞  記  2015,3,31 3:20
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素晴らしい生き方をなされた御尊父 (辛様(鈴木))
2015-03-31 07:46:24
辛 文則 様
 お早うございます。
 御尊父は、佐藤啓二氏とは画友であり、〈学テ闘争〉時代の同志だったのですか。素晴らしい生き方をなされたのですね。
 それから、いままで私にとっては単なる「コブシ」だったのですが、辛さんの「コブシ」は「辛夷」であり、それに対する拘りや考察を目の当たりにして、常に沈思・思索しているその姿勢に敬服です。
 なお、これから実家に行って書類の提出等がございますので、今朝はこれにて失礼いたします。
                                                       鈴木 守
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