みちのくの山野草

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澤里武治が一人賢治を見送った上京

2017-12-25 10:00:00 | 賢治の目を見れますか
《賢治詩碑》(平成20年11月23日撮影)
 典拠であるという『随聞』を少し調べただけであやかしだということが直ぐ判るのに、なぜ賢治研究家は沈黙し続けているのだろうか? だから私は問いたい、「あなたは賢治の目を真っ直ぐに見れますか」と。

 では当の、澤里武治はどう語っていたのか。時系列に沿って以下に並べ(直し)てみると以下のようになる。
(1) 昭和19年 「澤里武治氏聞書」の『原稿ノート』では、 
    三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
 其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
 最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なものに対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした。
             <『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の生原稿、日本現代詩歌文学館所蔵>
(2) 昭和23年 『續 宮澤賢治素描』では、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られまられました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう歸つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつた。また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大変樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
 セロに就いての思ひ出のうちに特に思い出さるることは、先生は絶對に私以外の何人にもセロに手をつけさせなかつたことです。何か尊貴なものに對する如く、セロにだけは手を觸れさすことはありませんでした。
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~より>
(3) 昭和31年『岩手日報』連載の『宮澤賢治物語(49)』「セロ(一)」では、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミー(<ママ>)ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 …(中略)…その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
             <昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
(4) 昭和32年 『宮沢賢治物語』(単行本)では、
セロ  沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(中略)…その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました…(以下略)…
            <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~より>

 したがってまず言えることは、いずれにおいても、
    チェロをもって上京する賢治を澤里武治一人が見送ったのは昭和2年の11月頃のことであった。
という意味の記述になっているということである。
 さらには、
    最初の〝(1)〟では「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます
となっていた部分が、
    後の〝(3)〟では、「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが
という表現に変化していることから、次のようなことも言えそうだ。
 まず昭和19年には、「確か」という表現に注意すれば、武治はその時期については「昭和二年十一月の頃」であったということに相当の確信を持っていたことが判る。ところが12年後の昭和31年には「どう考えても」という言い回しに変わっていることに注意すれば、誰かからそれは違うと言われてはいるものの武治はどう考えたってその時期はやはり「昭和二年の十一月ころ」であるとということに自信を持っていたということも判る。

 そこへ持ってきて、今回私が武治のご子息裕氏から見せてもらった武治自筆の三枚のうちの一つ〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟に、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
という記載があったのだが、その上京の年をこの時には武治は「大正十五年」としているものの、あくまでもその月は「十一月」としていて、定説となっている「12月」としていなかった(武治が「12月2日」が「定説」となっていることを知らないはずがないのにも拘わらずだ)ことに私は着目した。そこに、「現賢治年譜」に対する武治の強い抗議であるということを私は感じ取ったからだ。ちなみに、この武治自筆の三枚セットが書かれたのは武治が74歳頃のことであるという。そして、武治は79歳でなくなっているから、
 武治は晩年まで、チェロを携えて上京する賢治を花巻駅で唯一人見送ったのは「十一月」であったとしていた。
ということになる。

 したがって、〝(その一)略歴〟では、武治は年次を「大正十五年」としているから、私は武治はやむを得ず「定説」に妥協したが、その出発時期は「十一月」であったとしていたところに彼の意地と矜恃をひしひしと感ずる。そしてますます、思考停止したかの如き『新校本年譜』の「注釈」に私は首を傾げてしまう。さあ、『新校本年譜』の担当者はこれに対してどう弁明するのだろうか。そして私は言いたい、「あなたは賢治の目を見ることができますか」と。

 それからもう一つとんでもないこと、著者であった関登久也以外の何者かによってこの澤里武治の証言が改竄されていたということがあるのだがそれは次回以降へ。

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