みちのくの山野草

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3 『岩手日報』の報道

2024-08-30 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

3 『岩手日報』の報道
 昭和2年は順調に滑り出して何もかもが賢治の思ったとおりに回り出したかに見えたのだが……

 昭和2年2月1日付『岩手日報』
 ところが、昭和2年年2月1日付『岩手日報』(新聞の題字の下の日付は1月31日となっている)で次のような新聞報道、
 農村文化の創造に努む
    花巻の青年有志が
     地人協會を組織し
      自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協會員は家族團らんの生活を續け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協會員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三囘づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協會の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
      <昭和2年2月1日付『 岩手日報』より>
があったので、事態は一変したようだ。
 なぜならば、賢治が「同志」を募って「青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織し」たということが公になってしまったとなれば、当時のことであるから当然治安当局からマークされることは必至であり、この新聞記事は賢治をかなり動揺させたはずだからだ。実際、賢治はこの新聞報道によって楽団のメンバーに迷惑がかかることを虞れてこの集まりを解散し、集会も不定期になったと一般には言われているようだ。

 しかし私は多少違う見方を最近はしている。たしかに楽団の方は即刻解散したと見られるが、少なくとも集会はしばらくはそれまで通りであったようだからである。実際、以前にも引いた下掲の表
【表7 大正15年11月22日~昭和2年11月1日の宮澤賢治】
 大正15年
11月22日 この日付案内状を伊藤忠一方へ持参。配布依頼
11月29日 「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」など講義
12月1日 羅須地人協会定期集会。持寄競賣を行う。
12月2日 澤里武治、柳原昌悦に見送られて上京。なおこの時チェロは持参していない。
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
12月15日 父に二百円を無心
12月下旬 最高級のチェロ一式購入
12月 末 大津三郎から三日間のチェロの特訓を受ける。
12月30日 帰花
 昭和2年
1月1日 「本年中セロ一週一頁」という一年の計を立てる。国語及エスペラント 音聲學
1月2日   varma
1月3日   varma
1月4日   varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪
1月6日   klara m varma
1月7日 中舘武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君伊藤直見君来訪
1月8日   venta kaj varma
1月10日〔講義案内〕による羅須地人協会講義 農業ニ必須ナ化学ノ基礎
1月20日 羅須地人協会講義 土壌学要綱
1月30日 羅須地人協会講義 植物生理学要綱
2月1日『岩手日報』に「農村文化の創造に努む」の記事
       直後に楽団解散
2月10日 羅須地人協会講義 植物生理要綱 下部
2月19日 寶閑小学校において八木先生と一緒に講話
2月20日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 上部
2月27日 この日付「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書を作
     成、発送。
2月28日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 下部
3月4日 湯口村の高橋末治の日記によれば、組内の人6人、地人協会へ入会。
3月8日 松田甚次郎来訪。
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概」
4月4日 「羅須地人協会農芸化学協習」の案内状を出す。
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。
7月18日 盛岡測候所へ。
8月8日 松田甚次郎はるばる稲船村(現新庄市)鳥越から来訪。
11月1日 菊花品評会審査員
を見て貰えればお分かりのように、集会の方は〔講義案内〕どおりに行われた上に、さらにはその後も、少なくとも昭和2年4月まではそれまでのような集会や講義活動等が続けられていたようだからである。

 そこで私はまた、次のような思考実験を試みたい。

 この昭和2年2月1日付『岩手日報』の報道が切っ掛けとなって、賢治やそこに集う若者達の活動内容が公になったがために、周りの人々からは「隣の郡内の赤石村・不動村・志和村等々が大干魃のために飢饉一歩手前のような惨状にあるというのに、賢治は近所の若者達を集めて何を暢気なことをしているのか、今はそんなことをしている時勢にはないだろうに」と顰蹙を買った。
 多くの若者達がこの惨状を見かねて何とかせねばと奮い立ち、義捐活動のためにあちこち駆けずり回っているというのに、三十を越した大の大人が十五、六歳の近所の若者達を集めて夜な夜な下根子桜の宮澤家の別荘でギーコギーコと聞くに堪えない音を立てながら音楽活動をやっているとは一体何事か。そんなことをしている金と暇があるならば隣村のために少しは支援活動でもしろ、と非難を浴び始めた。
 そして、そもそも新聞報道の内容と下根子桜で賢治達がやっている内容とはかなりずれがあるじゃないか、と周りから批判され始めた。そこで、これはまずいことになったと察知した賢治は焦って即刻楽団活動を止めてしまった。
 もちろんメンバーに迷惑がかかることも賢治は虞れたが、それ以上に自分に対する周りからの鋭い眼差しに耐えられなかったのである。
                    思考実験終了

 もちろんこれはあくまでも思考実験であり、それが歴史的事実だということを主張しているものではない。とはいえ、この新聞報道によって賢治が焦ったことは即刻講義や集会を止めてしまうことではなかった。それよりはまず、突如顕わに非難され始めた楽団活動を即刻止めることであったという可能性は少なくとも否定できないであろう。
 そして実際に楽団は解散した。だからおそらく、この昭和2年2月頃を境としてその後の賢治の音楽活動は独り賢治だけが行うものか、その他にはせいぜいたまに藤原嘉藤治と一緒に行うチェロの練習だけになったに違いない。

 松田甚次郎の証言
 さて、楽団を解散してしまった賢治のその後のチェロの練習はどうであったのであろうか。
 松田甚次郎が「宮澤先生と私」の中で、昭和2年に訪れた下根子桜のことを次のように追想している。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて來る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光つて見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
 先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀にみな(ママ)つたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持參せられて、食事をすゝめられた。…(以下略)…
     <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年発行)424p~より>
 実は、松田甚次郎は賢治の許を生涯2回訪れていて、この追想の前掲部分(追想の前半部分)は初めて訪れた昭和2年3月8日についてのことである。この部分からは、そのときチェロは2階に置いてあったこと、その際に賢治はオルガンを弾いたがチェロは弾かなかったことが導かれる。
 一方、これに続く後半部分はここでは割愛するが、二度目で最後の訪問となった同年8月8日の訪問の際のことについて記されており、そこにはこの時に賢治は甚次郎にチェロを弾いて見せたということも記されている。
 なお、この追想において松田甚次郎は「度々お訪ねする機を得たのであるが」と記してはいるのだが、彼自身の日記を見てみれば実はこの2回しかなかったことが判る。

 川村尚三の証言
 では、その他に同様の証言はないだろうか。調べてみたならば、次のような川村尚三の証言があった。
 夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいをだした。賢治は米飯を食べている。『これ、あめたので酢をかけてるんだ』といったのが印象に残っている。口ぐせのように、『俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから』と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
     <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
 もしこの川村の証言が事実を述べているとすれば、昭和2年の夏から秋にかけて賢治と川村は交換授業を行い、疲れたときにはレコード鑑賞をしたり賢治がチェロを奏でたりした、ということになる。

 現時点での判断
 では上記二人以外の人達の下根子桜時代のチェロに関する証言はあるのだろうか。
 まずは、当時の賢治の裏も表も一番よく知っていると思われる千葉恭だが、賢治のチェロについては何一つ証言していない。千葉恭はほぼ間違いなく大正15年6月末から下根子桜で賢治と一緒に暮らし始め、その後少なくとも半年は一緒に暮らしているはずだから、同年末までは一緒に暮らしていることになる。したがって、二人が一緒に暮らしていた頃はまだチェロを手に入れていなかったという可能性が大である。とはいえ、千葉恭はそこを去って実家のある真城村に戻ってからもしばしば下根子桜を訪ねていると言っているから、チェロを見ていないことはないと思われる。ところが、千葉恭は当時の「下根子桜時代」の追想を幾つか著しているにもかかわらず、音楽関係については蓄音器のこと以外にはチェロのことも含めて全く触れていない。
 次に、羅須地人協会員の若者達である。彼らも賢治のチェロに関しての幾つかの証言をしているが、その証言の時期などが不詳だったり、疑問点があったりするのでこれらの人達のチェロに関する証言は現時点では検証のためには使いにくい。
 以上、ここまで少しく考えて来てみての私の結論は、
◇楽団を解散はしたものの、少なくとも昭和2年の秋頃までの賢治はチェロの学習をあの「一年の計」に則って一生懸命続けていたであろうと思われる。
であるが、
  しかしその努力もむなしく、賢治のチェロの腕前は一向に上がらなかった。
である。

 残念ながら、「本年中セロ一週一頁」は順風満帆とは行かなかったようである。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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