みちのくの山野草

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理不尽な「圧力」

2024-07-29 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 その後、また私はH様からコメント(2013-11-02)<*1>を頂いたので、私は下掲のような〝理不尽な「圧力」〟という投稿をした。

***************************2013-11-02 08:00:00付〝理不尽な「圧力」 〟 *************************
 H 様
 お早うございます。昨朝よりもさらに一段と朝寒の花巻ですが、御地は如何ですか。
 先程、またの貴コメント(その中身は後掲)を拝見いたしました。

 私がなぜこのようなことをブログ上で投稿し続けるか、それにはいくつかの理由がありますが、今回のことに即して言えばそれは理不尽な「圧力」です。
 かつて、賢治についての真実を語ったがために、その途端に周りから集中砲火を浴びた人(その構図は今の私の置かれた状況にも似ております)を私は何人か知っております。
 そして、彼等はその理不尽な「圧力」に対して無念さを抱きつつも、万止むを得ずその後は沈黙せざるを得ませんでした(したがって、これは「ヒドリ」問題を言っているわけではなく、その人は除いてのことです)。そうなってしまうと当時の彼等にはその真実を公にする手段や場がもはやなかったからです。当然そのような「真実」はこれまで知られることなく今に至りました。
 ところが今の時代は違います。このようなブログなるものがございます。H様に言われて気付いたのですが、私はある意味彼等の無念さを代弁しているのかもしれません。今の時代は理不尽な「圧力」には対抗できる手段がある、それが私の場合の大きな理由です。

 なお、前回の繰り返しになりますが、私の常日頃の想いは《創られた賢治から愛すべき賢治に》であり、また願いでもあります。よって、賢治の真実を知り、真実の賢治を知ってもらうためには私も多少の犠牲、傷つくことぐらいは覚悟していますし、何者をも恐れておりません。つきましては、私のことなどにお気遣いなさらずにどうぞどうぞご自由にお書き下さい。
 したがいまして、かくの如きコメントを今後いただいても同じことの繰り返しになりますから、

   これを最後にどうぞお引き取り下さい。
                                        鈴木 守
*************************** 理不尽な「圧力」 おわり *************************


 畢竟するに、「これを最後にどうぞお引き取り下さい」と私はH 様にお願いしたのであった。

<*1:註>
*****************《↓ 2013-11-02 02:30:08付 H様 からのコメント》**************
Unknown (H)
お返事をありがとうございます。

鈴木さんのお気持ちは、よくわかりました。
(が、どうか無理はなさらないで下さい。)

あと、私なりに文章を書いてみる上で、まだ二点ほど鈴木さんのお考えを理解しえていない点がございますので、失礼のなきようにあらかじめご教示いただければ幸いです。

一つは、私が「陰謀論」と呼ばせていただいている鈴木さんの文章が引き起こしうる悪影響についてですが、鈴木さんとして「「誤解やデマの元」とは全く考えていない」と明確におっしゃっる根拠は、いったい何なのでしょうか。
ネット上にアップされている文章というのは、将来において誰がどんな意図で引用するかもしれませんし、歪んだ形で一気に拡散してしまうおそれもあるということは、周知のとおりです。
例えば鈴木さんが、賢治研究者が「抹消した」とか「改竄した」とか書いている部分などは、その伝えられ方によっては、誤解やデマの元となる可能性を十分に孕んでいると私には思えてしょうがないのですが、なぜ「全く考えていない」と断定的に言うことができるのか、鈴木さんの考えをお教え下さい。


もう一つは、鈴木さんがこのような「陰謀論」の公開を続けられる意味や価値についてですが、上記のようにそれが引き起こしうる社会的悪影響については、私と鈴木さんの間には認識の相違があるようなので、それはここでは措いておきます。
ただ、これらの文章が現に法的に関係者の名誉を毀損している状態にあることは、上にも説明させていただきましたので、今や鈴木さんにもご理解いただいていると思います。
そして、関係者にそのような損害を与えてまで、鈴木さんがこれを公開し続けるというからには、その公開には関係者の損害以上の意味や価値があると、鈴木さんが考えておられるということだと拝察しますが、それはいったい何なのでしょうか。
私が思うには、誰かが恣意的に年譜の一部を抹消したり書籍を改竄したということが、一定の信頼性のある証拠に基づいて推定できるというのであれば、かなりの犠牲を払ってでもその証拠と推論は公開して、他の研究者の検証を待つ必要もあると思うのですが、鈴木さんの「思考実験」なるものには何の客観的根拠もなく、はたしてそれを公開することに何らかの意味や価値があるものなのか、私には疑問なのです。
このようなレベルの話は、例えば居酒屋の放談としてならばあることなのかもしれませんが、鈴木さんのように真面目な調査を続けておられる研究者が、はたしてわざわざ書籍やネット上の文章にして公開すべきことなのでしょうか。鈴木さんのお考えになるその意味や価値とは、何なのでしょうか。

以上、よろしくお願いします。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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