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2 「賢治年譜」から消えてゆく

2024-09-01 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

2 「賢治年譜」から消えてゆく
 さて、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」には記載があったのにいつの間にか消え去ってしまったものがいくつかある。
 そこでこのことに関して少しく思考実験をしてみる。

 準備 かつての「通説」
 まずそのための準備である。以前に〝「宮澤賢治年譜」の書き変え〟でも列挙したように、かつての「宮澤賢治年譜」<*1>には、
(ア) 昭和2年
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
(イ) 昭和3年
  1月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
という記載があった。そしてこれらは当時のいわば「通説」であった。しかし、現「賢治年譜」にはこれらの記載は消えてしまっていてもはやない。
 もちろん、もし(ア)や(イ)がその後に事実でないということが判ったというのであればその措置は当然のことである。例えば、これらに対する反例がそれぞれ見つかったということなどがあったとしたのならば。しかし、そのようなものが見つかったなどということは公的には知らされていないはずである。とすれば考えられることは次の、
・実は反例があるのだがそれは公にできない。
・反例などないが不都合な真実だから抹消してしまいたい。
の二つの場合である。しかもいずれの場合にしても、「不都合な真実」であるから覆い隠してしまいたかったということに結局なりそうだ。

 準備 羅須地人協会の評価
 それにしても、羅須地人協会についてはあまりにもわかっていないことが多すぎる、と私には見える。だから、羅須地人協会の総体をどう評価すればいいのか私は皆目見当がつかないままにいる。
 では一般にはそれはどのように評価されているのだろうか。例えば、佐藤通雅氏は『宮沢賢治から<宮沢賢治>へ』(學藝書林)の中の章「亀裂する祝祭 羅須地人協会論」において次のように見ていると、私には読み取れる。
 羅須地人協会に関しての評価は正反対に分裂している。一つは賢治がこの地上において試みようとした理想郷、その思想は時代を超えた秀抜さがあるとする考えである。もう一つは逆に時代条件を考慮に入れぬ極めて脆弱な試行であって、文学の達成と関わりのない愚行だとする考えである。そして、前者の考えを代表するのが谷川徹三で、その理想世界を高く評価した。
と。たしかに佐藤氏が紹介しているとおり、賢治の羅須地人協会については極めて高く評価している人達も多いと思う。しかし、私がここまで検証してきた結果に従えば、「時代条件を考慮に入れぬ極めて脆弱な試行であって、文学の達成と関わりのない愚行だ」と言われてもそれを私は否定出来ない。

 準備完了
 まずは、以前に述べたことと今述べたこととを併せて次の6つのことを確認しておきたい。
(a) かつての「通説」として「賢治年譜」の中に(ア)と(イ)があった。
(b) 昭和32年頃を境として、以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から消えていった。 
(c) 大正15年12月2日の「現定説❎」の典拠は「関『随聞』二一五頁」のようだが、この典拠自体が反例となっていて、自己撞着がある。
(d) 賢治の羅須地人協会に関しては極めて高く評価している 人達も多い。
(e)『宮澤賢治物語』の中で澤里は、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」と証言している。
(f) 新聞連載の『宮澤賢治物語』が単行本となった際に、「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません」の部分が著者以外の何者かによって「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年に上京して花巻にはおりません」と改竄された。
これで実験の準備は完了した。

 思考実験(賢治年譜の改竄)
 では本番の思考実験を開始したい。
 かつて「通説」として(ア)と(イ)があった(=(a))のに、どうして昭和32年頃を境として、以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から消滅していった(=(b))のか。
 それは先の「準備」でも示したように、その頃から当時の賢治像として「不都合な真実」は消し去ってしまいたいという流れが発生し、その流れに沿い始めたからである。
 実際、谷川徹三を始めとした「羅須地人協会に」対する当時の高い評価(=(d))からすれば、その「羅須地人協会時代」2年4ヶ月余の中に、結果的に無為に終わった約3ヶ月間のチェロの猛勉強があり、しかも、その間の無理なチェロの練習がたたって病気になって花巻に戻った昭和3年1月の賢治が「漸次身體衰弱」状態であった(≒(e))ことが読み取れるような「賢治年譜」はまずいと、当時ある有力な人物X氏は考えた。
 そこで、X氏はこのような情報操作(=(b))を実際に行った。併せて、「自己撞着」(=(c))を取り繕うために、澤里の証言がそのまま巷間広まることを避けねばならぬと思い詰めたX氏は、それが載っている大元の『宮澤賢治物語』を改竄をした(=(f))。
                       〈思考実験終了〉

 なお、以上はあくまでも単なる思考実験である。もしかするとそのような可能性はあったかもしれない、という程度のことであり、これが真実だったと主張している訳では毛頭ない。

<*1:投稿者註>
 主だった「宮澤賢治年譜」を年代順に並べてみたのが下表である。
【表6 「宮澤賢治年譜」リスト】
(1) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。

<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
△ 三月、「聖燈」(花巻町)に詩「稲作挿話」を發表す。

<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三号に詩「氷質の冗談」を発表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を発表す。

<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京、タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。

<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
 二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表。
 三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表。

<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
  -------昭和31年1月1日~6月30日 関登久也著「宮澤賢治物語」が『岩手日報』紙上に連載---------
(6) 昭和32年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を發表した。又上京してエスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席してフィンランド公使と農村問題について話し合った。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、詩「裝景手記」を書いた。
肥料設計はこの頃までに約二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に詩「イーハトヴの氷霧」を發表した。
上京して詩「自動車群夜となる」を創作した
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た。
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」を發表した。
三月、『聖燈』に詩「稲作挿話」を發表した。

<『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日再版発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(7) 昭和41年発行
大正十五年(一九二六) 三十歳
十二月四日 上京して神田錦町三丁目十九番地上州屋に間借りした。
上京の目的は、エスペラントの学習、セロ、オルガン、タイプライターの習得であった。
十二月十二日 神田上州屋より父あて書簡。
 ――今日午後からタイピスト学校で友達となつたシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。
昭和二年(一九二七)  三十一歳
六月 裝景手記
   月末までに肥料設計は二千をこえた。
九月 『銅鑼』第十二号に「イーハトヴの氷霧」を発表。
昭和三年(一九二八)  三十二歳
二月 『銅鑼』第十三号に詩「氷質の冗談」を発表。
三月 花巻の人梅野健三氏編集の『聖燈』に詩「稲作挿話」を発表。

<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和44年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を掲載。
月初めに上京、二十五日間ほどの間に、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席、フィンランド公使と農村問題、言語の問題について話し合ったり、セロの個人授業を受けたりした。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、「裝景手記」を書く。
肥料設計はこの頃までに二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に「イーハトヴの氷霧」を發表。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。<*1>
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」
を發表。
三月、『聖燈』(發行所花巻町)に詩「稲作挿話」を發表。

<『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(9) 昭和52年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。

<『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成13年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 ……………○現
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 本日付発行の「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
二月九日 湯本村伊藤庄右衛門の依頼をうけ、農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
<「新校本年譜」(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より)>
以上
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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