みちのくの山野草

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〔あすこの田はねえ〕に虚構はなかったようだが

2023-03-24 12:00:00 | 「賢治年譜」一から出直しを
《オオタカネバラ》(2021年7月17日撮影、岩手)

 さて、前回の最後に
    他にも客観的なデータを虚構していたのではなかろうかという不安に襲われてしまう。
と述べたが、このことに関して以下に少しく述べてみたい。

 かつての私は、賢治の詩と言えば、
   〔あすこの田はねえ〕」「和風は河谷いっぱいに吹く」
等に感動し、大好きだった。それは、これらの詩を読んで、特に賢治の稲作指導の凄さを知ったからだ。もちろん、私のような門外漢が言うまでもなく、例えば天沢退二郎は、
 「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民への献身者としての生き甲斐や喜びが明るくうたいあげられているようにも見える。<*1>
            <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と評しているし、中村稔は、
 かれの「春と修羅」第一集から第四集にいたる作品の中で、もっともみごとな結実を示しているのは、「無声慟哭」の一連の挽歌であり、「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群であろうと思われる。
              <『宮沢賢治』(中村稔著、筑摩叢書)12p~より>
というように、「「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群」も「もっともみごとな結実を示している」と極めて高く評価している。

「詩ノート」の場合
 そこで、その「作品群」の頂点の一つと中村が見なしているという〈〔あすこの田はねえ〕〉について調べてみたい。まず、その中身は「詩ノート」の場合には、
一〇八二  〔あすこの田はねえ〕    一九二七、七、一〇、
   あすこの田はねえ
   あの品種では少し窒素が多過ぎるから
   もうきっぱりと水を切ってね
   三番除草はやめるんだ
       ……車をおしながら
         遠くからわたくしを見て
         走って汗をふいてゐる……
   それからもしもこの天候が
   これから五日続いたら、
   あの枝垂れ葉をねえ、
   斯ういふふうな枝垂れ葉をねえ
   むしってとってしまふんだ
       ……汗を拭く
         青田のなかでせわしく額の汗を拭くそのこども……
   それから いゝかい
   今月末にあの稲が君の胸より延びたらねえ
   ちゃうどシャッツの上のボタンを定規にしてねえ
   葉尖を刈ってしまふんだ
       ……泣いてゐるのか
         泪を拭いてゐるのだな……
       ……冬わたくしの講習に来たときは
         一年はたらいたあととは云へ
         まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた
         今日はもう悼ましく汗と日に焼け
         幾日の養蚕の夜にやつれてゐる……
   君が自分で設計した
   あの田もすっかり見て来たよ
   陸羽一三二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行った
   肥えも少しもむらがないし
   植えかたも育ち工合もほんたうにいゝ
   硫安だってきみがじぶんで播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あっちは少しも心配がない
   反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
   しっかりやるんだよ
   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら 商売の先生から
   きまった時間で習ふことではないんだよ
   きみのやうにさ
   吹雪やわづかな仕事のひまで
   泣きながら
   からだに刻んで行く勉強が
   あたらしい芽をぐんぐん噴いて
   どこまで延びるかわからない
   それがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだ
   ぢゃ さようなら
       雲からも風からも
       透明なエネルギーが
       そのこどもにそゝぎくだれ
             <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)185p~より>
となっている。
 実は以前、この詩が書かれた下書稿のコピーを見たことがあるが、そこには「菊池信一」というメモがあったから、この詩に登場しているく「」とは多分彼のことだろう。となれば、賢治は石鳥谷好地の菊池信一の家、「東田屋」まで行ったときにこの詩を詠んだのだろうか。もしそうだったとすれば、菊池信一は花巻農学校を大正14年に卒業しているから、この詩が詠まれたであろう日付1927,7,10であれば彼はまだ17歳頃の少年だったはずだ。
 おそらく賢治はこの時に、その少年に
   陸羽一三二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行った
   肥えも少しもむらがないし
   植えかたも育ち工合もほんたうにいゝ
   硫安だってきみがじぶんで播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あっちは少しも心配がない
   反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
と声をかけ、褒めて励ましたのだろう。当時の稲作といえばその収穫量は普通反当二石前後だったから、それが二石五斗であったならば上出来である。そしてそもそも、「陸羽132号」とは肥料に適合する品種改良という逆転した対応によって生まれた品種<*2>であり、施肥の仕方を間違わねばその収量が「反当二石五斗ならもうきまったやうなもの」という見通しは妥当なものであったであろう。ということから逆に、この詩〈〔あすこの田はねえ〕〉には基本的には虚構はなかったようだが……。

<*1:投稿者注> 一方で天沢氏は、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
              <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と冷静に見極めており、私はこのことは常に留意せねばならないと、全くそのとおりだと思っている。
<*2:投稿者注>『岩手の百年』によれば、
 大正初年まで「豊後」とならんで早生耐冷性の「岩手関山一号」もある程度普及したが収量少なく、やがて「岩手亀の尾一号」に席を譲った。「亀の尾」は当時の有機肥料栽培に最もよく適合していた。「亀の尾」は大正十一年(一九二二)には過半数に達し、大正期に四割台の普及率を維持している。ところが大正末期から「早生大野」と「陸羽一三二号」が台頭し、昭和期にはいって「陸羽一三二号」が過半数から昭和十年代の七割前後と、完全に首位の座を奪ったかたちとなった。これは収量の安定性、品質良好によるもので、おりしも硫安などの化学肥料の導入に対応していた。しかし、肥料に適合する品種改良という、逆転した対応にせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった。半面、耐冷性・耐病性が弱く、またもや冷害・大凶作をよぶことになった。戦時期には、農業生産の低下と肥料の不足で、質より量の多収品種へとかたむき品種改良も頓挫した(『岩手県農業史』、『岩手県近代百年史』)。
              <『岩手県の百年』(長江好道ら共著、山川出版)124p~>

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