《『高村光太郎 書の深淵』(北川太一著、高村規写真、二玄社)の表紙》
石川朗様この度はご教示大変ありがとうございました。早速『高村光太郎 書の深淵』を手に入れまして、当該個所を見て安堵しております。*******************************************************************************
以前〝高村光太郎の名誉のために〟において私は、 山折氏が言うところの
と主張し、自分なりにその論証を試みた。 『とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね。地元の事情があまりわかっていなかった』
のようには決め付けられないと思う。そう決め付けられたのでは光太郎があまりにも気の毒であり、とんだ濡れ衣だと思う。『地元の事情があまりわかっていなかった』と責められるのは光太郎ではなく、別の人であろうと思うのだが如何なものだろうか。過日この件に関して、石川朗氏より
『高村光太郎 書の深淵』のp.110に昭和11年のナマの詩碑の写真があってさらに昭和18年の光太郎の書簡のコメントが載っている。それによると清六の原稿の間違い、光太郎の書き違いの事情が書いてある。ヒデリについては貴殿の言うとおりだ。
ということをご教示いただいた。早速私は同書を手に入れて当該の頁を見てみると、それは次のようなものであった。
文字に起こしてみると、
詩碑は結局「雨ニモマケズ」の後半、「野原ノ……」以下の部分に決まり、光太郎に依頼した書は十一月はじめ、花巻に届いた。花巻の石工近藤清六の手で彫り上げられ、除幕されたのは十一月二十三日のことである。のびのびと明快な楷書で認められた詩文は、謹厳な内にも温かく見るものを含む。しかし揮毫された詩には若干の脱落があった。その事情を光太郎は書いている。
<『高村光太郎 書の深淵』(北川太一著、高村規写真、二玄社)111pより> 令弟宮沢清六さんから詩碑揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取った詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、/さて後に拓本を見ると、あの詩を印刷されたものにある「松ノ」がぬけていたり、その他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿を見ると、その原稿には小生のバウがボウであった事をまた発見しました、/つまり清六さんが書写の際書き違って上に、小生がまた自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違えていた事になります、 (昭和18 川並秀雄宛)
となる。
よってもちろん、この光太郎の書簡に従えば、山折氏の
『とにかく光太郎はヒデリと直したわけでしょう。ヒドリの言葉を削ってね。結局、光太郎がやったことですね。地元の事情があまりわかっていなかった』
という発言は全く当たらないということになり、この発言は光太郎に濡れ衣を着せていると言えると。だからその真実は、
光太郎がヒデリと直したわけでもなければ、
光太郎がヒドリの言葉を削ったわけでもなく、
「結局、光太郎がやったことですね」というのはとんでもない濡れ衣であった。
ということだ。一方で、だれがヒデリと直した<*1>のかもほぼ明らかとなった。これでまた、先の主張の確信を私はさらに深めることができた。光太郎がヒドリの言葉を削ったわけでもなく、
「結局、光太郎がやったことですね」というのはとんでもない濡れ衣であった。
つきましては、ここに改めて石川朗様に御礼申し上げる次第です。
さて、『事情があまりわかっていなかった』のははたしてどなただったのだろうか。
<*1:註> だからといって、「ヒデリと直した」ことが悪いと私は言っているわけではもちろんなく、それ自体は妥当な直し方であろう。なぜならば、「雨ニモマケズ」がその個所以外全ていわゆる「標準語」で書かれているのにそこだけが方言であるということは普通考えれないし、まして「ヒドリ」に当て嵌まる標準語がないことはこれまた明らかだから、この「ヒドリ」は何かの標準語の書き間違いであり、それが「ヒデリ」の間違いであるという蓋然性が極めて高いことは誰でも認めざるを得ないはずだからである。
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