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2161 『イーハトーヴォ(第一期)』から(その2) 

2011-05-30 09:00:00 | 賢治関連
             《↑『土に叫ぶ(第15刷)』(昭和18年発行、松田甚次郎著、羽田書店)》

 では今回は『イーハトーヴォ(第一期)』の5号から松田甚次郎に関連する部分を抜き出してみたい。

【第五号(昭和15年3月21日発行)】
☆  二月賢治の会
花巻 二十四日夜七時半、南城組合楼上で、南城振興共働村塾第三回開塾に、講師として来花された松田甚次郎氏及び盛岡賢治の会菊池暁輝氏、それに見前小学校の吉田六太郎氏、渋民村稲荷場徳治、盛岡古館正次郎、水沢福井善賢の諸氏、松田塾々生安達利比古、蜂巣完の二青年等はるばる来会された方々を迎へて開催された。参会者四十余名、照井謹二郎氏の開会の挨拶についで一同精神歌合唱、自己紹介の後、松田氏宮澤先生を初めて訪問された時の事を左の如く語られた。「それは師走の或日盛岡の原邸のコンクリートの塀に、薄ぼんやりした灰色の空から淡い冬の陽が降りて何かしら物淋しい思ひのする日であつた。或る菓子屋から麦センベイを沢山買ひ、リツクサツクにつめ込んで盛岡駅からのつて日詰駅に下車し赤石村を訪ねた。村の稲田はもう氷が張つて子供等は寒さにふるへ乍らも氷の上で無心に遊んでゐる。持つてきたセンベイを分けて与へた。稲田の隅々には穂のでない稲が旱害の面影を残してゐる。悲惨な農村に淋しさを禁じ得なかつたが、なすべき事をなした喜びにひたり乍ら花巻に下り桜の羅須地人協会に宮澤先生を訪れた。先生のお宅は南崖に面して東は二階建て、西は平屋建てで南面は硝子戸、南と西側に松の木は室の中一杯に緑を明るく反射して先生のお気持ちを表してゐるかの様であつた。階下の室は教室で机と椅子が置かれ、一方の壁には黒板が吊されてゐる。奨められるままに二階に上がつて農民の行くべき道について教へを乞ふた。床の間には蓄音機とレコードが置かれ、又、その後にはセロがたてかけてあり、先生は詩や歌のみでなく音楽にも達せられて居られるのだなとつくづく、感じさせられた。農民劇の話しやレコードを聞かして戴き夕刻おいとました」と約五十分にわたつて在りし日の先生の面影や羅須地人協会の有様をしみじみと語られた。…(以下略)
鳥越 二十一日夜七時よりの同志帰還兵三名を迎へて塾に開催、参会者四十三名、塾生十名で「セロ弾きのゴーシュ」輪読の後、田宮眞龍師により「壽量品」の捧誦。それより帰還兵の方々のお話しあり、「観音について」眞龍師の講話、最後に松田塾長の「松の針」朗読十時閉会した。

☆  各地ニユース
□花巻町南城振興共働村塾第三回短期塾は、二月二十四日、二十五日の両日松田甚次郎氏を講師として南城小学校に於て開設された。松田氏は二十四日午後三時の下りにて来花、三時半より五時まで「銃後農村婦女子に求むるもの」と題して講演した。婦人聴講者六十名。夜は南城組合楼上にて松田氏を中心として花巻賢治の会二月例会開催、参会者四十余名別項の如き次第にて十時散会。翌二十五日は午前十時より県下農村青年三名(申込七名なりしも四名不参加)「農村振興体験発表会」あり、午前は「希望の生活」と題して岩手渋民の稲荷場徳治君発表あり、午後は江刺郡愛宕の菊池佐江治君の「共同経営について」及び花巻南城照井善五郎君の「緬羊飼育の体験を語る」の発表あり、それに対し松田氏の懇親適切なる指導批評あり、終つて四時より六時まで座談会。夜は青年有志達と宮澤清六氏宅にて賢治に就いて語り「種山ヶ原の夜」朗読す。
□翌二十六日は午前十時より、賢治氏の四ヶ年教師であつた花巻農学校に於て全校生に対して松田氏の講演あり一時間に亘り「青年よ素直であれ」と呼びかけて若き魂に感銘を与へ、同行の菊池暁輝氏の「雨ニモマケズ」「稲作挿話」「農民芸術概論結論」の朗読及び「牧歌」独唱あり終つて、松田、菊池両氏の外栃ノ沢龍二、伊藤篤己の両氏も加へ0時半の下りにて日詰駅に下車、山内清先生及び青年団長野方の出迎へを受け、赤石小学校に至り尋常五年生以上高等科の生徒に約二十分間松田氏講演をし、諸先生方の為の座談会の後、二時半の上りで松田氏帰山…(略)

とあるように、この五号だけでも松田甚次郎に関する記事はかなりの部分を占めていた。自ずからイーハトーヴォにおける松田甚次郎の存在感は大きいと感ずる。

 この当時松田甚次郎は大ベストセラー作家であり、その著書『土に叫ぶ』(昭和13年5月出版)で宮澤賢治の名を多くの国民に知らしめ、さらには松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(昭和14年3月出版)が賢治のすばらしい作品を全国に広めていたはずだ。

 ところで、この五号における松田甚次郎の講演『宮澤先生を初めて訪問された時の事』に関してだが、ここで松田甚次郎が語っていることと松田甚次郎自身の日記の記載内容とは大きく異なっている。
 もし松田甚次郎の日記の内容が正しければ、松田甚次郎が赤石村を慰問したのは大正15年12月25日(大正天皇の亡くなった日)であり、その日松田甚次郎は奮発して1円もの大枚をはたいて慰問袋を買って赤石村を訪ね子供達に南部センベイを分け与えている。ただしこの日松田甚次郎は賢治を下根子桜に訪ねてはいない。赤石村を訪ねた後はそのまま盛岡に帰っている。
 また、松田甚次郎が賢治を初めて訪ねたのは明けて昭和2年3月8日であり、もちろんこの日に松田甚次郎は赤石村を訪ねてはいない。

 したがって、佐藤隆房の『宮澤賢治』の中の「師とその弟子」の中味はこの日誌の内容とは矛盾している。またそれだけでなくこの時の松田甚次郎の講演だけでなく、松田甚次郎のベストセラー『土に叫ぶ』の「一恩師宮澤賢治先生」の内容
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。…
         <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
もこの日誌の内容とは矛盾している。

 もちろん、真実は日誌に書かれている方であろう。つまり、
(1) 松田甚次郎は大正15年12月25日に赤石村を慰問している。同日下根子桜は訪ねていない。
(2) 松田甚次郎は昭和2年3月8日に初めて宮澤賢治を訪ねている。同日赤石村を訪ねてはいない。
が歴史的事実であろう。 

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