抜きがたい「農民蔑視」
さて私個人としては、先の仮説〝②〟が成り立つとしたならば、賢治は甚次郎には「小作人たれ」と強く迫ったのだが自分自身は小作人になることもせず、田圃を耕すこともしなかったということの了解ができるので、つまり賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ氷解する . . . 本文を読む
「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」
さて、私は先ほど端から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」を用いたが、このことについてここで一度確認しておきたい。
†「ヒデリでも不作あり」という事実
いわゆる『雨ニモマケズ手帳』に書かれている「雨ニモマケズ」の全文は以下のとおりである。
11.3
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
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第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い
生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは誰か。それは、今では殆ど忘れ去られてしまっているが、山形県最上郡稲舟村鳥越の松田甚次郎という青年だった。
賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見
ある時、拙ブログ『宮澤賢治の里より』に石川博久という方から、
松田甚次郎の署名のある春と修羅に草刈という「詩」が . . . 本文を読む
目 次
はじめに 1
第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い 3
賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見 3
賢治の最も短い詩「草刈」? 5
賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ) 6
賢治の「訓へ」の矛盾 10
「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎 12
大正十五年の未曾有の旱害と . . . 本文を読む
あとがき
えっ違ってたんだ。「独居自炊」じゃなかったんだ!
ということを知ってから始めた千葉恭を尋ねる旅もこのの辺でひとまず終えたい。もうこれ以上のことは現時点では私には分からないからである。
当初、なかなか入り口の見つからない旅だったが、多くの人のお陰である程度の地点までは辿り着けたと思うし、私自身としては結構稔り多い旅だった。
これまでに次のようなこと
・千葉恭の出身地
・千葉恭 . . . 本文を読む