「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 俳句を見ました。(1) 鈴木一平

2014年09月05日 | 日記
 俳句を読む前に俳句を読む準備をしなければならない人間がいるということは、実はあまり知られていないとおもいます。依頼を受けた際に「若い詩の書き手の率直な俳句観をお願いします」といわれたものの、率直さは自分の知覚に対する確信の度合いで、理論よりも経験的にかたちづくられていく側面がつよく、俳句を前にしてなにをどう話していいのか、まったくよくわからないという問題に筆者は直面しているわけです。

 と書いたところで、なんとなく準備が整いました。俳句に対する経験に確信がもてないぶん、ややこしい手続きを踏む可能性もありますが、新鮮に感じられればとおもいます。もしくは、次回までに勉強できたらとおもいます。また、具体的にどの俳句を読めばいいかも与えられていないので、今回は「詩客」と「戦後俳句を読む」で掲載、もしくは紹介されている俳句を読んでいこうとおもいます(俳句を読む準備として、自分が相対的にながく関わっている詩のことを引き合いに出そうかとおもいましたが、やめます)。


なんらかの鳥や椿の木のなかに 佐藤文香
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/08/jihyo2.html

 読んでまず際立って感じられるのは、「なんらかの鳥」というイメージの確定できない存在です。「なんらかの鳥」がいるという知覚は、それを書き手に与えた鳥自体には帰属されない。なぜならその知覚の強さは椿を椿として画定できる状況、つまり対象の木を椿として細分化する処理との落差と関係しているからです。そのため、そもそも存在が知覚されればそれで成立してしまっていた鳥が、にも関わらず不確定なままでごろりとあらわれてしまう。それは一方で、椿に対する知覚の再検討を促す。つまり、「なんらかの鳥」と「椿」のあいだに軋みが生じて、両者は同時に生起しない。それを解消させるために「木のなかに」があるともいえますが、たとえば「椿のなかにいるから鳥の正体がわからない」という因果関係の成立自体が、「なんらかの鳥」として知覚されている状況と矛盾しているともいえる。この記事で紹介されているものだと、ほかには「あきあかね太めの川が映す山」もすごい。

極太の闇束ねたる桜かな 飯田冬眞
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/kacho6.html

不可視のものである闇を操作対象とするには、見えないものとして与えられているそれを見えるものとして処理しなければいけないのですが、それは闇だけが単体で与えられてしまうと成り立たず、せいぜい包括的なものとしてしか表現できないのではないか、とおもいます(それが闇と呼べるかはべつですが)。その闇に量感をつくるために桜を設置すること、つまり見えるものを設置することで、見えないものを見えるものとして扱うことが可能になる。見えないものをつくりだす見えるもの。これは、逆にいえば視野には常に不可視のものが存在している、ということでもあるのかもしれません。つまり、桜に視点が移るときに闇は見えないものとして背景になる。そして、この対比を意識することで、闇を対象として把握していた私の知覚は「」を見ることにも干渉するのではないでしょうか。つまり、「極太」で提示され、「束ねる」によって強められていく、抵抗としての「」のボリュームが緊張感をつくりながら桜を見せる。闇から目を反らすうちに含まれる物理的ともいっていい抵抗感で、桜がくっきりと立つ感じ。

スムージーに絞り入れよと夏の月 栗山心
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/kacho6.html

 さきほどの句と同じ記事に掲載されていたものです。「スムージー」と「夏の月」のスケール感の差異から生じるインパクトが「絞り入れよ」で強められているように感じます。同時に、この句が前提として月をスムージーにすることはできないという認識から始まっているのがわかる。それは、月をスムージーにすることは(権利として)可能であることをより意識させるのではないかとおもいますが、実際にことばの上でやってのけることのインパクトよりもそうした抵抗があること(物理的に月をスムージーにするには相当な手続きが必要であること)を置いておく、その距離感がいいとおもいます(それが安定的な情感として基底をつくっているような弱さもありますが)。また、この句には地球から見える月の大きさと、実際の月の大きさとのあいだに生じる感覚の剥離も一枚かんでいる。地球の四分の一もある大きさというのは、それだけで月をスムージーにするのと同じぐらい非現実的なのかもしれません。


思うほど眼球軟らかく春雷 沙汰柳蛮辞郎
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/kacho7.html

 ばらばらな情報を統合しようとする意識のなかで主体は立ち上がる、というより、そうした統合において主体がつよく意識されるのかもしれませんが、そうした統合に対する意識がリアリティとしてあらわれるには、個々の情報が容易には統合されないこと、つまり抵抗の様態にかかわってくるのではないかとおもいます。見る器官であり、見ることにおいては対象化できない(されるとしても見ることには還元できない)「眼球」が、自分のものであるにしろ他人のものであるにしろ相対化され前景化される、つまり見る機能を削がれ、即物的にあらわれる。それは触感を喚起する「柔らかさ」によって強められるので、「春雷」は「眼球」の表面に反射するものとして知覚される(そこで媒体としての眼球を通して軟らかさと春雷が結びつくことで、句が「思うほど眼球」「柔らかく春雷」として、二つのユニットに分割される可能性もあるのかもしれません) 。眼球が鏡になる。鏡は観察者を表象のなかに位置づけなおす機能を持つから、主体の統合として比喩的に機能しうる。見る自分を見るという状況においてばらばらだった体が統合されるという操作は、むしろ全体を見渡すような一挙性を仮構して、無理やりに成立させなければ不可能なものなのかもしれません。

 次回も(あるらしいので)よろしくお願いします。
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