Sightsong

自縄自縛日記

齋藤徹+類家心平@sound cafe dzumi

2015-10-03 23:07:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

吉祥寺のsound cafe dzumiに足を運び、齋藤徹+類家心平のデュオを観る(2015/10/3)。類家さんのトランペットにはずっと興味があったが、ナマで聴くのは実ははじめてだ。

齋藤徹 (b)
類家心平 (tp)
鈴木ちほ (bandneon) (1st set)

テツさんの音楽は大きい。大きいということは定型を持たないということである。弦を撫でさすり、擦り、撥ね、あるいは大きいコントラバス本体を叩き、手拍子し、笛を吹く。それらによる響きが重なり、ときに和音となっていく。(テツさんと馴れ馴れしく書くが御容赦を)

そして類家さんのトランペットは目が覚めるような音を放出するだけでなく、囁き、風音になり、コントラバスの音になる。音を偽装するのではなく音になる。

狭い空間での対話ゆえ、印象はこのように原始的なものとならざるを得ない。聴く者も原始の響きと一体化し、陶然とする者も、睡眠に誘われる者も、奇妙に覚醒する者もいるように見えた。

アンコール曲は、ドン・チェリーの「Art Deco」。突然ジャズ的なベースを弾いたテツさんが照れて笑っていた。かつて林栄一・小山彰太と組んだ「往来トリオ」が、テツさんにとってジャズという実験であったとおっしゃっていたことを思い出した。

ところで、演奏前にテツさんと少し話をした。『1975年8月15日 熱狂の日比谷野音』は素晴らしい記録で、里国隆も元気だということ。最近那覇の知られざる場所で印象的な演奏をしたということ。喉を病んでいたバール・フィリップスが回復してきて、今度ヨーロッパで会うということ。来年、フランスでミシェル・ドネダと演奏する予定だということ。

Fuji X-E2, Carl Zeiss Biogon 35mmF2

●齋藤徹
齋藤徹+喜多直毅+黒田京子@横濱エアジン(2015年)
喜多直毅+黒田京子『愛の讃歌』(2014年)
映像『ユーラシアンエコーズII』(2013年)
ユーラシアンエコーズ第2章(2013年)
バール・フィリップス+Bass Ensemble GEN311『Live at Space Who』(2012年)
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
齋藤徹による「bass ensemble "弦" gamma/ut」(2011年)
『うたをさがして live at Pole Pole za』(2011年)
齋藤徹+今井和雄『ORBIT ZERO』(2009年)
齋藤徹、2009年5月、東中野(2009年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)
往来トリオの2作品、『往来』と『雲は行く』(1999、2000年)
齋藤徹+ミシェル・ドネダ『交感』(1999年)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、池澤夏樹『眠る女』、齋藤徹『パナリ』(1996年)
ミシェル・ドネダ+アラン・ジュール+齋藤徹『M'UOAZ』(1995年)
ユーラシアン・エコーズ、金石出(1993、1994年)

●類家心平
森山・板橋クインテット『STRAIGHTEDGE』(2014年)


ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』

2015-10-03 10:54:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

NYのDowntown Music Galleryで、ティム・バーン『Electric and Acoustic Hard Cell Live』(Screwgun Records、2004年)を見つけて入手。

Tim Berne (as)
Craig Taborn (key, electronics, p)
Tom Rainey (ds)

とにかくティム・バーンのアルトが粘る。音色も粘っこいがフレーズも執拗に粘って繰り返す。ずっと関係ないと決めつけて放っておいた自分が呪わしい。クレイグ・テイボーンのピアノもキーボードもアルトの悪夢に追従し、そこかしこに火薬を撒いては思い出したように点火している。

先日、ベーシストのトッド・ニコルソンさんに、その前夜観たバーンのステージについて話していて、ところで粘るというのは英語で何と言うのだろう、stickyかと訊いたところ、いやそれはないと笑われてしまった。言いたいことは解るが英語にそんな表現はないのではないのかな、と。

●ティム・バーン
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
ティム・バーン『You've Been Watching Me』(2014年)
ティム・バーン『Shadow Man』(2013年)

●クレイグ・テイボーン
クレイグ・テイボーン『Chants』(2013年)
クリス・ライトキャップ『Epicenter』(2013年)
クリス・ポッター『Imaginary Cities』(2013年)
『Rocket Science』(2012年)
デイヴ・ホランド『Prism』(2012年)
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(2011年)
オッキュン・リーのTzadik盤2枚(2005、11年)

●トム・レイニー
イングリッド・ラブロック UBATUBA@Cornelia Street Cafe(2015年)
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(2014年)
トム・レイニー『Obbligato』(2013年)
イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Strong Place』(2012年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、2012年)
イングリッド・ラブロック『Zurich Concert』(2011年)


アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas III』

2015-10-03 08:38:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas III』(Loyal Label、2007年)。先日「Overseas」のライヴを観るために足を運んだSeedsで、オプスヴィークさんにいただいた。

Jacob Sacks (p, farfisa org, celeste, wultizer and fender rhodes)
Tony Malaby (ts)
Kenny Wollesen (ds, cymbals, gongs, timpani)
Larry Campbell (pedal steel g)
Jeff Davis (vib, xylophone)
Eivind Opsvik (b, tack p)

これを繰り返し聴いているのだが、続編の『Overseas IV』(2011年)に負けず劣らずの出来。不安と高揚とがドラマティックに去来する作曲と構成に加え、あたたかい音色のベースが、オプスヴィークの素晴らしい才能だということなのだろう。

場に上品に浮遊して色を染めるジェイコブ・サックスのキーボードとピアノも、ラリー・キャンベルのギターも良い。そしてここでも存在感を発揮しまくっているのがトニー・マラビーのテナーサックス。自然のマテリアルというフィルターを通って出てきたような不思議な音色は、本当に好きである。  

●アイヴィン・オプスヴィーク
アイヴィン・オプスヴィーク Overseas@Seeds(2015年)
イングリッド・ラブロック、メアリー・ハルヴァーソン、クリス・デイヴィス、マット・マネリ @The Stone(2014年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas IV』(2011年)
ネイト・ウーリー『(Put Your) Hands Together』(2011年)
トニー・マラビー『Paloma Recio』(2008年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(2007、12年)

●トニー・マラビー
アイヴィン・オプスヴィーク Overseas@Seeds(2015年)
ジェシ・スタッケン『Helleborus』(2014年)
クリス・ライトキャップ『Epicenter』(2013年)
トニー・マラビー『Scorpion Eater』、ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』(2013、08年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、13年)
アイヴィン・オプスヴィーク『Overseas IV』(2011年)
ポール・モチアンのトリオ(2009年)
ダニエル・ユメール+トニー・マラビー+ブルーノ・シュヴィヨン『pas de dense』(2009年)
トニー・マラビー『Paloma Recio』(2008年)
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』(2007年)


ジョージ・ミラー『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

2015-10-03 00:08:19 | オーストラリア

評判が冗談のように高いこともあって観よう観ようと思っていた映画、ジョージ・ミラー『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)。ようやく機内で観た。ディテールが愉しいだけでなく実に味わい深く、帰り便でも再見してしまった。(実はシャーリーズ・セロンがわりと好きだったりして)

近未来の荒れ果てた世界。権力者は、水と燃料と戦闘集団(ウォー・ボーイズ)を抱えている。しかし、大隊長(セロン)は周到な準備のうえで裏切り、権力者のもとに幽閉されている女性たちとともに、まだあるかどうかもわからない「緑の土地」に向けて逃げる。

アクション映画としても出色の出来ではあるが、心を打たれてしまう描写が少なくない。

そのひとつは、権力装置たる「機能」を顕わに見せ、そこからの逃走を執拗に示したこと。主役の男は「輸血袋」と呼ばれ、他者の生存のためだけに生かされる。女たちは「性の相手」という機能と「生殖」という機能を負わされている(その機能を固定するために、なんと金属の「貞操帯」まで装着されている)。「ウォー・ボーイズ」は、洗脳によって自発的に命まで捧げるほどの隷属ぶり。火を噴くギターもただ権力に奉仕する。これは近未来の嘘物語ではなく、現代社会そのものではないのか。

特筆すべきことは、その逃走の果てにあるものは、逃走そのものだということだ。仮に、映画が男を英雄に仕立て上げて名もなき多くの者から喝采を浴びてしまったり、あるいは誰かとの恋愛によって結ばれるように仕上げたりしては、ハイ、別の権力構造の出来上がり、である。