Sightsong

自縄自縛日記

デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』

2008-02-27 23:55:24 | 政治

デヴィッド・ハーヴェイの大作『新自由主義 その歴史的展開と現在』(作品社、2005年)をようやく読んだ。

格差社会、地方切り捨て、弱者切り捨て、それから米国の好戦など、いくつもの亀裂が隠しようもない状態になっているいまにあって、その諸悪の幹を、米国発祥の新自由主義(ネオリベラリズム)に見出し、告発する書である。

新自由主義は、経済主体も、財も、サービスも、それこそ個人の幸福をも、経済ユニットに分割し、権力が介入しないことによる最適化を掲げている。ハーヴェイが主張し続けるのは、現実に起きている様々な矛盾や社会的不平等の拡大は、新自由主義的な理想が実現するための過渡期にあって出てくる副産物ではなく、それらの亀裂こそが新自由主義の本質であり、存在意義であるということだ。また、(一応は)近代社会において私たちが信じ込んでいる、個人の自由や自己実現という陥穽があることにも改めて気づかされる。

ハーヴェイは指摘する。

●市場の自由を標榜しながら、実は逆に、ナショナリズムが効率的に機能する仕組になっている。
●新自由主義は権威主義であり、大きな者はより大きく、小さな者はより小さくなっていく。そこには対称関係はなく、権力関係のみがある。
●競争は理想的・美徳的には働かず、儲け本位が支配し、少数の大企業や支配者に権力が集中する。メディアもそうであるから、ニュースの多くはプロパガンダに堕してしまう。
●自由は企業の自由に還元され、あらゆるものは(人の価値やつながりも)商品と化し、社会的連帯は崩壊する。

そして、考察が進むほど、新自由主義は強者のみの競争ゲームであり、新保守主義(ネオコン)と表裏一体の関係であることが見えてくる。現象としての社会的秩序や道徳の崩壊について、その原因に気づかずして、見せかけの教育改革などで覆い隠そうとするネオコン的政策が、いかに欺瞞的であるかということも。

問題の構造は繰り返し聴かされるとして、それでは、社会的連帯や環境や福祉や安心といった「埋め込み」を取り戻し、理想との乖離から民主主義を引き戻すために、どうすればよいのか。ネグリ/ハートのような脱中心主義的・分散主義的な力の生起にも、コモンズの特別扱いにも、言及がなされている。しかし、ハーヴェイの示唆は充分ではない。というよりむしろ、それを必死に考えるための問題提起がなされていると考えるべきなのだろう。ただ、個人という(新自由主義の意味するものとは違う)ユニットでの働きかけが必要とされていることは間違いないだろう。

「このように、「ただ自由企業を擁護するだけのもの」へと新自由主義的な堕落を遂げた自由の概念は、カール・ポランニーの指摘によれば、「所得・余暇・安全を高める必要がない人にとっては自由の充足を意味するが、財産所有者の権力からの避難場所を手に入れるために民主的な権利を利用せんとむなしい試みをするかもしれない人にとっては、ほんのわずかの自由しか意味」しない。」


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6 コメント

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Unknown (夕螺)
2008-02-28 10:49:28
はじめまして。
本の表紙にある各国の指導者は、日本では小泉元首相ではなく、中曽根元首相の間違いではと思います。というのも、70年代に青年期を過ごしていた僕としては、中曽根元首相後の「民間活力の導入」「55年体制からの脱却」という言葉が思い出されるからです。
日本は、バブルといわれる好景気があったのですが、企業の利益が国民生活の安定や国家財政赤字の解消にはつながらなく、逆に法人税の減税、労働力の省力化が進み、実質的な労働時間の削減が完全週休二日制から切り離されて変形労働時間というものが出てきました。国鉄の民営化は、借金だけが国民に残されました。
民間活力の導入という「自由」の反面、思想的には日米同盟の強化という国家主義も出てきます。
そして小泉政権6年による国民生活の破壊として仕上げられました。
日本における新自由主義の分析がほんと必要です。
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Unknown (Sightsong)
2008-02-28 23:28:42
夕螺さん
実体験に基づくコメントをありがとうございます。本書では、巻末に訳者の渡辺治氏が、「日本の新自由主義」という論文を付けています。それによると、中曽根政権は新自由主義の早熟的な試みであったに過ぎないと位置づけています。利益誘導型政治という、新自由主義の「敵」を、自民党自らが温存していたからという理由もあるようです。しかし、安部政権の評価も含め、類型を「適用する」分析に偏っている気がします。その意味で、ご指摘のように、さらに日本の新自由主義の分析をあたってみたいと思います。
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Unknown (tamara)
2008-03-01 21:31:36
「新自由主義」という鎖をどう断ち切っていけばいいのか、考えると気が重いです。
他ならぬ国民が選挙で選んだ政治家が、この社会の輪郭をつくり、そして社会的風潮に迎合するメディアによって国民への『再教育』が日常的に行われているので、この鎖はどんどん強固になっていくようです。なにか道しるべはありませんか?
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Unknown (Sightsong)
2008-03-01 21:55:27
tamaraさん
共感します。もはや間接民主制がまったく機能しておらず、意思という紐が途中で断ち切られていて、しかも断ち切られた側はそれを漫然と見ているという状況。過去へのノスタルジーと同義語になってしまった「組織での運動」ではなく、もういちど個人の意思表明というものをみんなが現実のものとして気づくべきなんだろうな、とは思うのですが。まずは小選挙区の廃止や、住民投票に拘束力を持たせること、があると思いますがいかがでしょう。
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Unknown (横井)
2008-03-03 07:48:01
私も昨年この本を読みました。新自由主義の弊害はそれとは一見無関係に思える文化・芸術活動にさえも影響を及ぼしているように思えてなりません。
人々の意識をどこまで取り戻せるのか、と思ってしまうのです。メディアもまた新自由主義に組み込まれてしまっているのが大きな問題なのでしょうね。だからこそ、小さな活動が実はとても大切なように思います。

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Unknown (Sightsong)
2008-03-03 22:28:04
横井さん
なるほど。意識というところにこそ滲みてきているということですね。本来的に有象無象でもっとも馴染まない筈の経済に組み込まれてしまい、多様性が均されている、これは確かに大いに関係がありそうにおもわれます。タチが悪いのがまたメディア・・・。
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