『情況』(2008年1/2合併号、情況出版)が、主にデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』に関する論文の特集を組んでいる。正直言って玉石混交なのだが、読んでいると他のことを考え始めるきっかけが多く転がっていて、頭がまとまらず再読した。
他のこと、というのは、ハーヴェイの著作でも軽くしか触れられていなかった<環境>の「埋め込み」(福祉や社会的弱者対策などと同様に)のことであり、さらには<環境>が新自由主義の文脈で悪用されるのではないか、といったことである。それは簡単に答えが出ないことだし、自分にとってのテーマのひとつでもあるので保留する。
また、新自由主義がもたらす問題の認識が出発点であるとはいえ、今後のオルタナティヴスの方向性については、やはりハーヴェイの著作と同様、どれも提示できているものは少ないようだ。ただ、括弧付きの<政治運動>ではなく、個人に還元された分散型の力を束ねうるものこそがオルタナティヴとなりうると考えているから、その意味では、閉じた<分析空間>では不充分だとする意見自体が不充分なものとなるのだろう。(ところで、やはりネグリの話を直接聴きたかった。「東京新聞」では、今回の来日中止に関して、何者かの横槍が入ったとしか思えないと結論づけている。)
諸論文のなかで、いろいろなきっかけになりそうに感じた指摘。(※記述そのものではない)
●新自由主義においては、大衆には「自己責任」が容赦なく突きつけられる。しかし社会システムの維持のために、その正反対の権威主義的な介入が不可欠となっており、理想的な「小さな政府」との乖離が著しい。(渡辺治)
●新自由主義が敵とした社会システムは、福祉国家であった。しかし、日本での敵は異なり、開発主義的国家(=地方への利益誘導型政治=従来型の自民党政治)であった。実はこれを壊すことは新自由主義の本格的な導入(小泉政権)とセットだった。(渡辺治)
●新自由主義による社会のひずみを(結果的に)糊塗しようとするものとして、新保守主義があらわれた(安部政権)。つまりネオコンはネオリベの補完的な役割を担うものだった。しかし、教育改悪や憲法改悪をはじめ、イデオロギッシュな方法は極めて脆弱なものにしかならない。(渡辺治)
●均衡財政をめざす場合に、福祉・医療・教育・文化事業などの<埋め込み>は可能である。その分、削減できる予算(無駄な公共事業など)を確保すればよい。(新田滋)
●小さな政府化は、所得再分配のメカニズムを壊すことではない。(新田滋)
●市場社会のもとで努力が報われるとする新自由主義は、先天的な不公平がある以上、欠陥を持つ。(橋本務)
●グローバル化、国際競争といったことが大前提だと考えることは間違いである。そのために人々の抵抗する力と意志が挫かれるような社会は、自由な社会ではない。新自由主義に欠けているのは、それが他の可能性に開かれているという感覚である。(橋本務)
●「マルチチュード」などに代表される<大衆の反逆>は、それらを民主主義的にコントロールする枠組みにおいてこそ力を持つ。(星野智)
●市場の自由と商品化による社会的連帯の破壊は、公共的な圏域を疎外し、民主制を脅かす。このような状況において、「自己決定」は適切にはなされ得ない。(坂井広明)
●<格差>は個人の問題ではなく社会の問題として捉え、公正・正義の観点から再分配を行うべきである。(坂井広明)
●新自由主義の背後には、他者への幻想が亡霊のように存在する。しかし、実際に新自由主義の行き過ぎにより、私たちが生きていくのに必要な<不透明性>や<恒常性>が消滅させられると、これは個々の精神や文化の破壊に直結する。(樫村愛子)
●「希望は戦争」という発言における「戦争」とは、乗りこえられない社会に対する諦念、挫折感に向けられている。(山口素明、菅本翔吾、DJノイズ)