鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その2

2008-08-05 06:09:59 | Weblog
いつものように『大君の都』で、どのように記述されているか、見ていくことにします。オールコックはその日早くに目を覚ましたようです。天気が気になって、彼はそれを問い合わせます。すると天気は上々、登山は可能であるといううれしい返事。夜明けとともに一行の全員はすぐに起こされ、出発の準備に取り掛かります。馬には馬具が付けられ、3名の勇ましそうな山伏(やまぶし)が案内のために呼ばれました。山伏たちは、例の装束をしていたことでしょう。さらに数名の強力(ごうりき)が、オールコック一行が持ってきた荷物を運ぶためにやってきました。荷物の中身は、旅行用の毛氈(もうせん)・コーヒー・米・ビスケットなどでした。強力たちは、背中にその荷物を背負いました。オールコック一行はオールコック含めイギリス人6名。さらに護衛や付添の武士、それらの従者、多くの人足たち、馬を曳く別当(べっとう)たち、合わせて100名ほどの大集団でした。その全員が富士山に登ったのかどうかは定かではありません。とりわけ武士たちが登ったかどうか。彼らは二本差しであったから、それを帯びたままで登るのは困難であったでしょう。もし誰かが登っていたとしたら、おそらく従者がその刀を背負って付いていっただろうと思われます。それぞれが銘々出発の準備をして、いざ出発。その大集団の出発のようすを、村山の人々は老若男女、多くが家から出て見物していたに違いない。登山口からいよいよ登山道へ入る。はじめは穀物が波打つ田畑(当時、田んぼはこの辺りにあっただろうか?)や一面に草が高く生い茂った草地の間を進み、やがて「森林の迷路」に入り込みました。森林はふもとをぐるりと取り囲み、山腹まで高く這い上がって、そびえたつ高峰の両肩をまるでライオンのもじゃもじゃのたてがみのように覆っています。この場所は、今回歩いてみて大体の見当がつきました。杉林の上に富士山の上半分が見えたところです。右端には宝永山の出っ張りが見えたところ。その森林は、現在のように植林された杉林ではなく、カシ・マツ・ブナなどの大木が密集する樹林帯でしたが、数日間吹き荒れた台風のために、短くバラバラに裂かれたり、根こそぎ倒れたりしており、一行は、馬から下りて、その倒木を乗り越えたり、大きな幹をよじ登ったりしながら、登山道を進んでいかざるを得ませんでした。 . . . 本文を読む