鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

フェリーチェ・ベアトと五雲亭貞秀 その3

2008-08-22 04:54:35 | Weblog
 横田さんは、「貞秀は富士登山をきっかけとして、それまで漠然と抱いてきた構想を作品の中に実現して行」ったとします。

 では、貞秀はいつ富士山に登ったのか。

 横田さんは、嘉永2、3年(1849、1850年)頃ではないか、とされています。貞秀は富士山の魅力に取り付かれ、それ以後、何度か富士山に登っています。この富士登山を境にして、貞秀には風景を「鳥の目」になって鳥瞰する作品が多くなっていきました。

 彼は、さらに、東海道を上って、上方(かみがた)や西海道を経て長崎にまで足を伸ばしているようです。彼は、「大約名所を描くにも親しく実地を踏みて見ざれば其真景ハ写しかたし」としているように、実際に現地に赴き、実際のところを見て描く絵師でした。「足で描く」絵師であったということです。現場をきっちりとおさえる。これもきわめてジャーナリスティックな態度です。横田さんは、貞秀は、富士山だけでなく、「恐らく多くの山に登ったに違いない」とします。

 彼のジャーナリスティックな精神は、ペリー来航の浦賀来航という、未曾有の事件に際して、またそれをきっかけとして研ぎ澄まされていくようです。

 彼は、幕末の国内の動きばかりか、世界の動きや地理などにも関心の範囲を広げていく。これが凡百の絵師と、彼との大きな違いであったと思われます。

 その旺盛なジャーナリスティックな精神を有する貞秀の集大成とも言える作品群が、彼の描いた一連の横浜浮世絵であったわけですが、彼は、その横浜の町を可能な範囲ですみずみまで歩き回り、取材していくとともに、その上に立って、横浜の上空を自在に飛び回る「鳥の目」となって、さまざまな角度から横浜の町およびその周辺をも含めた絵(鳥瞰図)を描きました。

 その鳥瞰図は、彼の富士登山がきっかけになっているようだ、ということが、この横田さんの論文の内容の私にとってもっとも興味深いところでした。

 実際に富士山が描かれた作品は、図版25の「富士裾野巻狩之図」。32の「三国第一山之図」。画中には「登山成就時玉蘭斎貞秀」とあります。43の「大日本分境図成」。富士山甲州口の吉田からも、彼は富士山に登っています。そして48の「大日本富士山絶頂之図」、さらに88の「富士両道一覧之図」。この「富士両道」とは、「東海道」と「甲州道」のこと。この両街道を利用して、江戸やその周辺から富士へと至る詳細な道案内となっている絵図なのですが、東海道を利用して、ということになれば、このコースの富士登山は、当然のことながら吉原宿を経由して村山口登山道を利用するということになる。

 これら一連の富士山に関係する絵を見ていくと、貞秀は、吉田口登山道(富士講の信者がもっぱら利用した登山道)ばかりか、あの村山口登山道も実際に登っていることは疑いのないことのようです。

 彼は、オールコックらが登ったあの登山コース(村山口登山道)を利用した多数の人々の一人であるはずです。

 私が中宮八幡堂まで登ったあの道を、彼も歩いたことがあった(らしい)ということを、この横田さんの論文で私は初めて知ったのです。

 そしてその富士登山を含めた数回の富士登山が、「空とぶ絵師」の誕生の大きなきっかけになった、ということを知ったのが、この本を購入しての最大の収穫でした。


○参考文献
・『横浜浮世絵と空とぶ絵師 五雲亭貞秀』(神奈川県立歴史博物館)
・同上、所載論文「横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀」(横田洋一)
  


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