鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

フェリーチェ・ベアトと五雲亭貞秀 その2

2008-08-21 06:35:26 | Weblog
 斎藤多喜夫さんの「横浜写真小史再論」によれば、横浜開港後、最初に来日したプロカメラマンは、スイス生まれのピエール・ジョセフ・ロシエでした。彼が来日したのは1859年(安政6年)。イギリス軍艦サンプソン号でしたが、実はその船にはイギリス総領事オールコックが乗っていたというのです。ロシエは、そのオールコックと行動をともにしながら、神奈川や横浜、江戸で撮影に従事したという。

 そのロシエが、来日の年に撮影した写真が、P95とP97に掲載されていますが、P95は神奈川宿を撮影したもの。私はこれを初めて目にしました。当時の神奈川宿は、このようなものであったのです。この写真は権現山(現存せず)から滝の川方面を写したもので、石井本陣や高札場なども写っています。P97の写真は、荷船などが輻輳(ふくそう)する神奈川湊を撮影したもの。同じく権現山から、眼下の洲崎神社の鳥居と門前の船着場を写したもので、そのどちらにも東海道がちゃんと写っています。

 江戸方面から横浜に赴く場合、旅人は、海が静かであれば、わざわざ遠回りして陸路(保土ヶ谷からの「横浜道」「保土ヶ谷道」)をとることなく、この洲崎神社の鳥居前の船着場から通い船に乗り、海路、横浜の波止場に向かいました。

 ほかにも、ロシエは、写真を撮っています。イギリスの公使館であった東禅寺の護衛兵、神奈川台町の遠望、冬の衣装の日本女性など。

 このロシエ以外にも、ベアト以前に来日した外国人カメラマンがいました。

 1860年(万延元年)に来日したオイレンブルグ率いるプロシャの遣日使節団に随行していたビスマルク。1862年(文久2年)に来日したウィリアム・ソンダース。彼は、1862年の横浜全景を、百段坂の上の浅間神社境内やや西側の地点から撮影しています(P104)。彼は、百段坂を、器材を抱えて(あるいは持たせて)登っているはずです。また堀川に架かる谷戸橋(現在よりも河口側にあった)と関門番所を撮影しています(P105)。左手中央から右手の森に入っていく坂道が谷戸坂です。1863年(文久3年)には、チャールズ・パーカーというイギリス人の写真家が来日。彼も百段坂を登り、浅間神社境内西側より居留地の写真を撮影しました(P106)。『ベアト幕末日本写真集』のP168の写真は、ベアトの撮影したものではなく、このパーカーが撮影したものであったのです。斎藤さんは、ほかにも何枚か、パーカーの写真が紛れ込んでいる可能性がある、としています。

 斎藤さんが、ソンダースが写したものではないか、と推測された6枚組の横浜全景写真は、実はベアトが写したものであることも判明しました。

 さてこのベアトですが、生まれたのは1834年(旧説では1825年)。生まれたところは、イギリス領であったコルフ島(ギリシャの西方イオニア海に浮かぶ島)。イギリス領となった元ヴェネツィア領民で、したがって生まれながらのイギリス国籍。英語の読み書きが不完全であったという。

 ファースト・ネームは、正式には、一貫して「フェリーチェ」。「ビヤト」でも「ビートー」でもなく、「ベアト」と発音されていたようだ。

 兄であるアントニオ・ベアトも写真家をしており、有名な「スフィンクスと侍」という写真を、1864年4月4日(西暦)の正午に撮影しています。

 ベアトが来日するのは、1863年(文久3年)春頃。そして、その夏には、スイスの特派使節団に随行して江戸で撮影に従事しています(このような形でないと、当時、一般人が江戸に入ることはできませんでした─外国人遊歩規定の関係で)。そして、やがて旧知のチャールズ・ワーグマン(イギリス人画家で『絵入りロンドン・ニュース』と特派員契約を結ぶ)とパートナーシップを組み、居留地24番に、同じ敷地に塀ひとつ隔てて住んでいました。

 2人はそうとうに親しく、あの「鎌倉事件」が起きた時、他の仲間たちとともに、鎌倉・江の島方面に、写生・撮影のための宿泊旅行をともにおこなっているほどでした。

 遊歩区域内には、二つの代表的な旅行コースがあり、その一つが、鎌倉・江の島コース。そしてもう一つが、厚木・宮ヶ瀬コースでした。したがって、彼は、厚木町・飯山観音手前の茶店・宮ヶ瀬の中津川・中津川に架かる橋なども撮影しています。厚木町の写真は、あの小田原宿の写真などとともに、当時(幕末)の地方都市の様子が伺える貴重な写真と言えるでしょう。

 この厚木町や宮ヶ瀬などの写真は、『F・ベアト幕末日本写真集』に納められていますが、彼は、横浜→厚木町→飯山観音→煤ヶ谷→土山峠→宮ヶ瀬(現在はダムの下)を歩いて(騎馬か?)いるのです。

 このベアトとワーグマンの屋敷は、慶応2年(1866年)10月20日の横浜大火、いわゆる「豚屋火事」で焼失してしまいますが、ベアトのスタジオは焼けてしまったものの、ネガは持ち出されて無事でした。ワーグマンのアトリエに飾ってあった絵も、アトリエは焼けてしまったものの、無事でした。


 続く


○参考文献
・『F・ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)
・同書所収「横浜写真小史再論」(斎藤多喜夫)
  *この稿は、そのほとんどをこの論文の内容に拠っています。


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2 コメント

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清水清次のさらし首写真 (単純な者)
2008-08-21 10:53:01
初めまして。取材記事大変興味深く読ましていただいています。

「2008.7月「保土ヶ谷道~横浜山手」取材旅行 その3 」という日時の古いところですので、念のために恐縮ですが最新記事にもコメントをさせていただきます。

既にご存知でしょうが、さらし首写真が掲載されていました。

『欧米人の見た幕末日本』の「殺人犯清次の晒し首、横浜(清水清次は鎌倉事件の主犯として元治元年、英国軍隊の面前で打ち首にされた)」。

http://ami-yacht.com/edo/chonin.html

では。
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「単純な者」さんへ (鮎川俊介)
2008-08-22 02:40:02
ご指摘ありがとうございました。このベアトの写した清水清次の晒し首の写真は、やはり有名であるようで、すでに触れましたが、『新版 写真で見る幕末・明治』小沢健志編(世界文化社)に載っていました。私は、それをそれとは別の本で見た覚えがあるのですが、その本が何であったか、わかりません。「鎌倉事件」は、調べていくとなかなか面白い(と言っては語弊がありますが)事件です。当時の横浜における主だった人々(日本人・外国人含めて)が登場してきますし、当時の鎌倉の事件になんらかのかたちで関係した人々の、その日の生活の様子までわかってきます。さらに、当時、情報がどのように伝わっていったのか、ということさえわかってきます。清水清次は本当に主犯だったのか。清水清次とはいったい何者であったのか……、などなど、追求していくとなかなか面白い事件なのです。
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