鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

村山古道について その1

2008-08-09 05:10:45 | Weblog
先日の取材旅行で、「中宮馬返し」と言われた「中宮八幡堂」まで、村山古道(村山口登山道を含む)を歩きました。吉原宿から村山までの道は大宮街道を歩いておらず、また村山から中宮八幡道までは、正確にそのルートを辿ったというわけではありませんが、これで、東海道の日本橋から、神奈川・藤沢・小田原・箱根・三島・沼津・吉原を経て、村山口から富士山一合目付近までを歩き通した(と言っても細切れに)ことになります。中宮八幡堂から村山道(登山道)を富士山の頂上まで歩けば、ほぼオールコック一行が富士登山をしたコースを歩いたことになる。オールコック一行は神奈川宿のイギリス領事館(浄瀧寺〔じょうりゅうじ〕)を騎馬で出立。馬(西洋馬)に乗って東海道を西進し、おそらくそのまま中宮八幡堂まで馬に乗ってやってきたのですが、ここでようやく馬から下りて歩き始めます。私は、一部重なっていないところもありますが、ほぼそのルートを歩いてきたことになります。東海道を歩いてきて、いろんなことに興味・関心が広がりましたが、根底には、幕末・維新期の旅人は、東海道をどういう風景を見ながら歩いたか、とくに富士登山を目指すオールコック一行が、どういう風景を見ながら街道を進んだか、ということが絶えず念頭にありました。その際の基本的な文献になったのは、オールコックが書いた『大君の都(中)』。オールコックは、富士登山以外にも、いろいろなところを歩いて(多くは騎馬)いますが、絵心があるということもあって、非常に観察力があり、情景が髣髴(ほうふつ)と浮かんでくるところが多々あります(たとえば小田原宿に入る場面など)。しかし一方、ほとんど何の記録もなしに進んでしまう場合もある(たとえば吉原から村山までの道)。実際歩いてみて、そのあたりの情景を想像してみることが可能になりました。その想像(ないし再現)に大きな力となったのは、フェリーチェ・ベアトの写真集でした(『F.ベアト幕末日本写真集』)。ベアトが写した東海道の風景は、オールコックが見たそれよりも数年後のものですが、それほど大きくは変わっていないはず。小田原宿の写真なども、『大君の都』の記述と重ねて眺めてみると、一層面白くなってきます。いよいよ中宮八幡堂から頂上までを目指すことになりますが、それは今度は来年の夏のことになるでしょう。 . . . 本文を読む