鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その5

2008-08-08 06:54:02 | Weblog
 「松平伯耆守(ほうきのかみ)」とは誰か、をまず調べてみました。「宮津藩主」ということがわかっているので、「宮津藩」と打ち込んで検索してみます。するとネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に宮津藩についての記述があることがわかります。その記述の中に、歴代藩主の名前が出てくるのですが、その中で「伯耆守」というのは2人しかいない。一人は第6代藩主の松平宗秀(むねひで)であり、もう一人はその息子であって第7代藩主の松平宗武(むねたけ)。

 それぞれを、やはり『ウィキペディア』で調べてみると、生没年は、宗秀が文化6年(1809年)~明治6年(1873年)で、宗武が弘化3年(1846年)~明治26年(1893年)。宗秀が第6代藩主となったのは天保11年(1840年)で、秀武が第7代藩主となったのは慶応2年(1866年)。

 これで、嘉永5年(1853年)に、富士登山をした宮津藩の藩主「松平伯耆守」とは、第6代藩主の松平宗秀(本荘宗秀)であることが確定します。

 このことについては、前回に記したところです。

 この松平宗秀は、かなりに有能な人物であったようで、藩主となってから、奏者番・寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任しています。『ウィキペディア』には、「大老井伊直弼の元で寺社奉行として安政の大獄を行政化し」とあり、また「安政の大獄の当事者」ともありますから、井伊直弼のもとで安政の大獄に関わった、幕府内「保守本流」の有能官僚であったということになる。

 また宗秀は、老中として、慶応2年(1866年)の「第二次長州征伐」において、安芸広島に出陣し、幕府軍の指揮を執った人物でもある。しかし「戦争継続の不利を悟り、捕虜にしていた長州藩の宍戸・小田村両家老を独断で釈放し、有利な和平交渉を試みた」ことによって、老中を罷免され、隠居謹慎を命じられました。

 これにより、家督は、宗秀の五男宗武に譲られることになりました。宮津藩第7代藩主です。

 しかし、「略歴」を見ても、嘉永5年(1852年)の富士登山のことは記してありません。わかるのは、この時点において、宗秀の役職は「奏者番」であったということのみ。

 ということで、次に試みたのは、「Google」で、「松平宗秀」と「富士山」を並べて入力して検索してみることでした。しかし関連の記事は、出てきません。

 「本荘宗秀」と「富士山」を入力して検索してみてもダメ。

 いろいろ試みて、「松平 富士 登山」と入力して検索してみたところ、ついに関連記事が出てきました。それは「富士山のまち ふじのみや」という、富士宮市のホームページでした。そのホームページの「富士山雑話 No34」に、「大名の富士登山」として、宮津藩松平伯耆守の話が出ており、しかもその話の出典も出ていたのです。

 その話の出典は『袖日記』というもの。それによると、宮津藩主松平伯耆守が富士登山をしたのは、嘉永6年(1852年)の6月のこと。これで登山した時期(参勤交代で吉原宿に泊まった時期)については絞られました。「三ヶ年登山を願ひ当年ようよう馬返シ迄御赦(ゆる)シ之由(よし)」とある。幕府に対して三ヵ年間も、富士登山を願い、この年、ようやく「馬返シ」まで登山を許されたという。勝手に登れるものではなく、幕府の許可が必要だったのです。しかも3年間も願い続けて、ようやく許されたのだという。逆に考えれば、それほどまでに宗秀は、富士登山を果たしたいという気持ちが強かったということです。その動機は何か。

 そしてこの年、ようやく幕府の許可が下りたものの、それは「馬返シ」までということであったらしい。

 「馬返シ」というのは、「中宮の馬返し」というように、「中宮八幡堂」のこと。ここで馬に乗ってやってきた者も、馬から下りなくてはならず、それから上を馬で行くことは出来ませんでした。「中宮八幡堂」までは行ってもいいが、それから上はダメですよ、ということでした。

 しかし、3年間も幕府に対して、富士登山の許可を願い続けてきた宗秀、それで我慢できるはずがない。

 許可が下りたことをいいことに、頂上まで一気に登ってしまったのです。

 『袖日記』によれば、松平伯耆守が吉原宿より村山に到着したのは、嘉永5年(1852年)の6月20日の夜10時頃。馬で吉原宿を出て村山に向かったと思われますから、夜の7時頃には吉原宿(本陣)を出立したに違いない。そして村山(おそらく興法寺の坊の一室)で少しまどろみ、翌朝一番鶏の頃には村山口を出立。頂上まで一気に登り、そこでお昼をとった、という。

 この6月20日というのは、西暦では8月5日。ということは、宗秀が富士山の頂きに立ったのは、西暦8月6日(和暦6月21日)。その午後のある時点ということになる。

 ちょうど、私が、昨年に御殿場口より富士登山を果たした時期や、今回、村山口から中宮八幡堂まで歩いた時期と、ほぼ重なることになります。

 「一番鶏」の頃には出立した、ということは、午前4時から5時頃までには出立したのでしょう。薄ら明るくなった村山登山道を、おそらく馬に跨(またが)って、宗秀は進みました。案内人は、「龍法院」と「和合院」という山伏(興法寺の修験僧)。付き従うのは家来数名(ほかに荷物運びの人足たちか)。伯耆守は健脚で、家来は付いてこれず、九合目より上は山伏の両名のみが付き添っただけという。

 村山口から富士山の頂上まで、慣れた人でも13時間ほどはかかるという。宗秀は、それを9時間か10時間ほどで登ってしまったということになる。途中、中宮八幡堂まで馬で行ったとしても、たいへんなスピードであり、おそるべき健脚です。

 普通、常識的に考えると、「お殿さま」というものは普段そんなには歩かない。参勤交代の際においても、駕籠(乗物)に乗って移動するのであって、まず道中を歩くことはしない。お城の御殿においても、江戸の藩邸においても、そんなに歩く機会はないし、藩邸から江戸城の往復も駕籠での移動。ということは、日々、そんなに歩いていないのです。江戸時代において、庶民の場合、1日の歩数は平均3万歩ないし4万歩、という数字をどこかで見た覚えがありますが、「お殿さま」の場合、せいぜい数千歩。

 といったことを考えると、この宮津藩第6代藩主の場合、「お殿さま」としては常識外れのたいへんな健脚だったということになる。

 おそらく彼は、富士登山に備えて、足腰を日頃から鍛えていたのではないか。彼は「3年間」も、幕府に対して、富士登山の許可を申請していたほどの人物だったからです。

 よほど富士登山に対して、執着していた人物だったのでしょう。

 考えてみれば、江戸への参勤交代への行き帰り、東海道を進む駕籠の中から、またあるいは宿泊する本陣の窓から、また休憩するお寺や道中のビューポイントから、多くの大名たちが富士山の秀麗な姿に感嘆の声を洩らしたに違いない。

 中には、それを見る多くの人々がそうであるように、あの頂上はどうなっているのか、あの頂上からはどういう景色が見下ろせるのか、といったことに興味・関心をもった大名もいるはずです。

 当時、富士山は信仰の山であり、富士山に登る人々は「信仰」のために登るのであり、「物見遊山」のために登るものではありませんでした。

 しかし、そういう宗教的動機とは別に、純粋に、興味・関心から、富士山に登ってみたいと考えた人もいることでしょう。

 もしかしたら、松平宗秀は、そういった人物の一人で、たまたま大名(「お殿さま」)という立場であった、ということです。

 しかし、『ウィキペディア』の「松平宗秀」の記事の「生涯」の記述の最後には、少し気になる記述があります。

 それは、彼が、「維新後は新政府に出仕し、伊勢神宮の大宮司などを歴任した」というもの。そのことから考えてみると、もしかしたら、彼の富士登山には、なんらかの宗教的な動機があったのかも知れない。

 さて、出典の『袖日記』ですが、これは誰が書いたものか。「お忍び」の宗秀の行動を、なぜこの筆者は知っているのか。

 この『袖日記』についても、インターネットで検索して調べることが出来ます。

 『袖日記』を書いたのは、大宮(現、富士宮)の浅間神社の門前で、屋号「桝弥」という酒店を開いていた横関家の主人。天保14年(1843年)~文久3年(1863年)までほぼ20年間にわたって書き続けられてきた日記。着物の袖に入るほどの小さな冊子に書いたものだから『袖日記』としたようです。幕末の富士地方の出来事(事件・災害)や世相などを記したたいへん貴重な史料で、富士宮市の指定文化財になっています。

 実は、私は、この『袖日記』を、安政の大地震の様子を記録した史料の一つとして、知っていましたが、それに、「松平伯耆守」の富士登山のことが記されてあったのです。

 『袖日記』には、「大名の登山ハ先代未聞の事 大宮司の記録二も無之事也(これなきことなり)」とあるそうですが、なぜ、「桝弥」の主人が、「お忍び」の「松平伯耆守」の富士登山の経緯をこまかく知っているのか。不思議なことです。

 村山の人々(山伏や僧侶、あるいは強力〔ごうりき〕など)から、聞き出した可能性もある。そう考えると、この「桝弥」という酒屋の主人は、相当に好奇心の旺盛な、情報通の男であった、ということになる。しかも、それをちゃんと記録に残してくれた(そうとうに筆まめな)人でもある。

 こういう人が、かつては、世の中にたくさんいたのです。


○参考文献
ネット
・「富士山のまち ふじのみや」─富士山雑話 No34 大名の富士登山
・「袖日記」
・「地方史・郷土史関連」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿