某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

『久生十蘭 従軍日記』

2012-10-14 02:23:36 | ぼやき
 妙なものをまた読んで、と思われるだろう。久生十蘭は、知る人は減ったろうが、昔、面白いものを書く人だった。彼は昭和18年2月から南の島に海軍の従軍記者(海軍報道班員)として行っていた。海軍の実情を知らないから、まだ「勝った勝った」と景気の良かった頃。日記を書くことを禁じられていたのに、毎日克明に日記を書いていた。没後それが発見され、出版された。自己を語らない作家として知られていたから、貴重な資料として珍重されているらしい。(報道班員は、作家、画家、写真家など海軍だけでも1300人近くいたと言うが、これほど赤裸々な日記は公刊されていないらしい。)
 私は此の作家に特に関心があったわけではない。前から文士の従軍記者というのが気になっていた。新聞記者や報道カメラマンなら今でも活躍しているから何となく見当がつく。彼等は自由に取材し、自由に書ける(少なくとも建前は)。正岡子規でも日清戦争では新聞記者として取材に行っている。しかしそれとは違う。作家は何をしていたのだろう。一種の軍属になって尉官くらいの将校待遇を受け、かなり高額の給料や手当をもらって占領地に派遣された。戦地にも(久生は)行っている。彼は昭和16年頃から「御用文学に特有な臭気が少しずつまとわりつくようになった」と解説にあり「戦時体制に対し充分協力的」で「報道班員として徴用するに適した人材とみなされ」たのだろうと推測されている。新聞記者なら取材はお手の物だが、文士が軍服を着て、刀を下げて何を取材していたのだろう。そんなことが長く気になっていた。それが此の本を買った理由の一つ。
 また、久生の行った島を見ると、ジャワ、チモール、ニューギニア、と並んでアンボン島もあった。私の娘の亭主の父親、つまり義父さんは戦争中召集されてアンボン島で勤務し、そこで敗戦を迎えたと聞いた。アンボン島というと、徳川時代の始めに日本の浪人達などがかなり移住していたし、オランダの東インド会社の軍隊とイギリスの東インド会社軍とか戦い、イギリスの傭兵だった日本人のうち9名が殺されたことでも知られている。負けたイギリスは此の戦争の後インドに引っ込んでそこの統治に専念し「成功」した。これも「負けるが勝ち」か。あの島が戦時中どんなだったか知りたい気持ちが前からあった。昔「戦死」した日本人の話は日記には出てこなかった。知らなかったのだろう。
 そんなこんなで、気になって読んだ。いや、大変な堕落ぶりだ。占領軍の一員だから大変だ。ジャワ島では連日連夜「飲む打つ買う」だけ。現地の日本人記者などと連日のようにマージャンで大金を取ったり取られたり。内地では庶民の手に入りにくくなった色々な酒をへべれけになるほど飲み、日本女性、現地女性、中国女性、はてはオランダ・フランスなどの西洋人女性などを毎日のように買う。日本の新聞社支局員や司令官の中には、特定の女性を囲っているものもいる。半年近く占領地ジャワでそのような生活を続け、その後は少し「真面目」に「取材」ノートなども作る。空襲の多い島や雨と泥に苦しめられるニュウギニアなどにかなりの危険を冒して出向く。また、アンボン島でも危険な体験をし、その間読書も再開する。しかし最後まで、下積みの兵隊さんたちの話は出てこない。此の日記などを材料に多くの小説が書かれたというが、いずれも戦意高揚の御用小説で、兵士の苦労などは書きこまれていないらしい。多分関心がなくて何も知らなかったのだろう。私に彼を批判したり、笑ったりする資格はないが。
 
 
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