某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

何故吹矢の「練習」ではなく「受験勉強」と書いたか。

2013-04-08 01:38:49 | ぼやき

「吹矢の受験勉強ではなく、練習とか修行と言った方がいいではないか」とか「受験勉強なんてつまらないだろう。まるで灰色の高校生時代みたいだ」などという感想を言って下さる方がいた。普通はそう考えると思う。私の説明不足で、意図が伝えきれなかった。ちょっと偉そうで面映ゆいが、再度書かせていただく。
 そんなに大層なことではない。剣道修行の心得に「守破離」というのがある。私はこの「守」を「受験勉強」と言い換えただけだ。「守」というのは、師匠の言うことを良く聞いて其れが出来るようにすること。前にも書いたが、私の剣道の師匠は「いい先生について、まっすぐな稽古をすれば誰でも五段にはなれる」と良く言っていた(私は三段で終わってしまったから師匠の言葉を証明出来ないが。)
 吹矢で昇段試験を受ける時も同じだと思う。幸い私の吹矢の師匠は名人で第一人者だから、今まで言われるとおりにやってきて間違いなかった。勿論、言われるとおりに出来ているわけではない。そうやりたいといつも思っている、というだけ。点数を稼ぎたいから、つい自己流でやってしまう。だから、師匠の言う通りに出来ないで四苦八苦している。これはまだ「守」の段階だ。「受験勉強」も同じ。独創的な研究ではなく、学力を付けるための修練だ。吹矢では、人にもよるだろうが、大体六段までは「守」の段階だとおもう。
 「破」や「離」がどのようなものか、私にはまだ分からない。「破」というのは、多分、師匠の言うことに拘束されず、わざと違った行き方をすることだろう。しかし、「師匠と違う」と意識している限り、まだ独自のものとは言えないだろう。全く新しい自分だけの道を歩むのが「離」なのだろう。私には夢のまた夢だからどんなものかわからないが。
 中国の弓の名人の話がある。百発百中になってしばらくすると、弓を持たず、ただ射る姿をするだけで鳥が落ちるようになった。或る時、晩年の大名人をしたって弓の達者な人が会いにゆき、弓を見せたが、この老名人には其れが何であるかすらわからなかった、という。昔読んだときは、年をとってボケただけだ、と思ったが、この三段階が「守」「破」「離」なのかもしれない。
 
コメント
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