Our World Time

思いを遺して逝った、父へ

2006年06月02日 | Weblog



▼いま、独研(独立総合研究所)の社長室、6月2日の金曜、午後3時45分。

 金曜の夕暮れが近づく時間…かぁ。
 記者時代はそれなりに、こころがほっと寛いでいく時間帯だった。

 記者の仕事も忙しくて、ふだんは午前1時や2時まで『夜回り』取材をし、朝も遅くとも6時半にはもう、『朝駆け』取材に出ていた。
 それでも週末が近づくと、ほっとしていた。
 週末も日曜は、取材対象の閣僚たちがテレビ番組に出たり、講演したりで、仕事が多かったけれど、土曜日はどうにか休める週も多かったから。

 いまは、週末は一切、関係がない。
 共同通信を去って、組織でおこなう記者の仕事を辞めてから8年半、ここまで1日の休みもなく、きた。

 でもね、記者時代より、はるかにストレスは減ってる。
 記者は、若手の記者だと、上にサブキャップ、キャップ、デスク(1人じゃなく、かなりの数)、部長と、直属の上司だけでも何人も何人もいる世界だ。
 いまは、おのれが代表取締役社長だし、研究員としても首席研究員なので、上司はいない。

 上がいないということは、実は、なかなかに大変でもある。
 たとえば文章を書くと、記者のときは上司たちがチェックを重ね、さらには編集局から原稿が出ていったあとに整理本部でチェックが入る。
 書き手としては、それなりの安心感があるわけだ。

 ところが今は、誰もチェックしてくれない。
 もちろん本であれ、雑誌への寄稿であれ、編集者と校正者のチェックは入るけど、基本的には、書き手の文章を尊重するから、間違いは決して許されない。

 それでも、自分の思うように書ける今の立場は、素晴らしい。
 ストレスが少ないと言うより、ストレスの質がまったく違う。

 シンクタンクの経営者としても、トップでいることに、たまぁにゾッとする。
 ぼくが経営判断を誤れば、独研はきっとみるみる傾き、社員たちの運命が傾く。
 空恐ろしいような気持ちに、ふっと襲われることがある。


▼父は、ぼくが共同通信に入るとき、うれしそうに祝福してくれた。
 そして、ちらりと、「ほんとうはお前は、会社に使われるよりも、会社を率いる方が向いとるぞ」と小さな声で言った。

 きょうは、その父の命日だ。
 父は、日本が明治維新によって近代国家になった直後から今まで、いちおう続いている繊維会社の現役社長として、実は、医療ミスによって突然に亡くなった。

 ぼくは、共同通信の大阪支社・経済部から、東京本社・政治部に上がったばかりで、その夜、政治部記者となって初めてポケットベルが鳴った。

 さぁ、何が起きた、何を取材するのかと勇んで、政治部デスクに電話すると、筆頭デスク(当時)が、ぼそっと「アオヤマクン、オトウサンガ、ナクナッタヨ」と言った。

 ぼくは、なんのことか分からない。
 は? と聞き返すと、忙しいデスクは「だっからぁ、お父さんが亡くなったんだよ」と、いくぶん大きな声で言って、がちゃっと電話を切った。
 ぼくは公衆電話のなかで、呆然と立ち尽くした。
 身体が弱かった父は、このときも確かに入院はしていたが、死ぬかも知れないなどという状況ではなかった。
 政治記者になって、初めて本社から受けた連絡が、仕事の指示ではなく父の死の知らせというのは、あまりに想像を絶していた。

 翌日、新幹線に乗って、兵庫県の実家へ向かう途中、車中で、アイスクリームを買った。
 ああ、おやじは、アイスクリームが好きだったなと思うと、初めて、どっと涙があふれてきた。
 おやじと対立ばかりして、喜ぶことは何もしなかった、死んでしまったら、もうアイスクリームを買うことだってできない、おやじ、ごめんと、父の死の実感が初めて込みあげてきて、胸を突かれた。

 父は、ほんとうはマスコミが大嫌いだった。
 会社の女工さん(昔の言葉。今で言えば、工場の女性従業員)が失恋して自ら命を絶ったことを、全国紙の2紙に「会社の労働条件が厳しくて命を絶ったのではないか」と書かれた。
 父は、そのことに怒るよりも、社長の自分に一度も直接取材がなく、さらには、新聞に『工場長の談話』というのが出ているのに、その工場長も一度も取材を受けたことがなかったことに、激しく怒った。

 ぼくが、とても幼いころの話で、ぼくには何も記憶がない。
 しかし、父はその怒りをたまに甦らせて、マスコミが嫌いだと言っていた。

 そのマスコミに、ぼくが就職した。
 ぼくは3人兄弟の末っ子で、ほんとうに小さなころから繰り返し、、「お前だけは、一人で、自分の力だけで生きていかねばならないよ。家からは何も、もらえない」と父と母からいつも聞かされて育ったから、おのれの仕事を自分で選んだ。

 そのことには深く感謝している。
 ぼくに自立心があるとしたら、父と母から「末子(まっし)のお前は家を出ていく。お前一人だけで、生きねばならない」と言われ続けた家庭教育のおかげだから。

 しかし、ぼくが、その「一人で生きる道」としてマスコミへの就職を目指したために、マスコミを批判する父と、激しくぶつかった。
 怒鳴り合いになったことも、ある。

 父は、ぼくが実際に、共同通信に内定すると、こころからのお祝いだけを言ってくれて、ほとんどマスコミ批判を口にしなくなった。
 ただ、「ほんとうは、お前は人に使われる立場じゃない方がいいのに」とだけ、付け加えたのだ。

 今ぼくは、社員・スタッフ20人規模の会社のトップを、不肖ながら務めている。
 父が先祖から受け継いできて、そのあとは、ぼくの兄が継いだ繊維会社はもちろん、はるかに規模が大きい。
 それから、共同通信も、社員2000人だ。

 独研は、小さな規模のシンクタンクだけど、おのれ自身の力を尽くして創立した。
 先祖は敬愛しているけれども、力は借りたくなかった。そのとおり、借りずに、今こうしている。

 そして、どんなに超絶多忙でも、宮仕えだった共同通信・記者や三菱総研・研究員の時代よりストレスのぐんと減った今の立場に、感謝している。
 いま思う、「人に仕える立場は向かないよ」という父の言葉は正しかった、と。


▼同時に強く思う、お父さん、ぼくは、人に仕える立場を24年も経てきたからこそ今どうにか最終責任者を、非力ながら務めていられるのです、と。


▼こんどの日曜、6月4日の朝に、フジテレビ系列の「報道2001」に出ます。
 官房長官の安倍晋三さんらと、アジア外交について議論する予定です。


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▼写真は、お正月に京都の嵐山に立つ父と、当時の会社の役員2人と、父に付いていた運転手さんです。
 左から2人目が、父。

 毎年、新年には京都へお参りする習慣が会社にあったころの写真です。
 ぼくは、生まれていたとは思うけど、とても小さいころです。はっきりは分かりません。

 この写真は、年の初めの新鮮な、それでいて静かな雰囲気が感じられて、好きです。
 ぼくは朝、父の遺髪にお水を捧げ、祈りを捧げてから、出ていきます。
 そして、疲れ果てていても、どうにか生きて帰宅すると、父の遺髪にお水を捧げ、感謝をのべます。

 亡くなってから大切にしても駄目だ、生きているあいだに衝突ばかりしていたおまえは悔いろ、と、おのれに呟きながら。