解放

2014年07月25日 | Weblog
 きょう7月25日金曜のお昼12時23分に、青山千春博士からEメールがあり、ぼくの実母の青山喜賜子が、入院先で癌の末期症状としての痙攣を起こしたという緊急連絡でした。

 ぼくはその時、京都にいました。
 6分前の12時17分に新幹線が京都駅に着き、京都府全域の町村議会の議長や議員にお話をするために、タクシーで二条城近くの会場へ向かっているところでした。 

 前夜に医師から受けた連絡では、今週末から週明けが山だということでした。
 しかし母の死がたった今、切迫していることを、このEメールで知りました。

 ぼくは家庭教育で父と母に、根っこを造ってもらいました。
 母、青山喜賜子には、こころの背骨を造ってもらいました。
 母が病んでからそれを言うと、母はいつも「しょうもないことを言うな。そんなん、知らん。あんたは自分で努力したんや」と常に厳しい表情で言いました。

 母は『きちんと公務を果たしてから、ここへ来なさい』と言うだろうと思いました。
 京都の地方自治を支える人々に懸命にお話し終えてから、午後3時35分京都発の新幹線に、同行のM秘書とと共に乗りました。

 車中の午後3時42分、青山千春博士から電話があり、「最期の心臓の音を聞いて」と言い、母の心臓のモニター音を聞かせてくれました。
 ぼくは何も言わずに聴き、車内に迷惑はかかりませんでした。
 青山千春博士は、すすり泣いていました。
 ぼくは母と彼女に、永遠の感謝を捧げました。

 午後4時2分、青山千春博士から再び、連絡があり「午後3時59分でした」と言いました。
 ぼくは、やはり、ほとんど何も答えずに聞き、車内に迷惑はかかりませんでした。

 母は、かつてぼくを産んだ、ぴったりその日時、7月25日の午後4時ごろをまるで選んだかのように、魂を肉体から解放しました。
 晩年は、動かない肉体、次第に募る病状に、母は苦しみ抜きました。

 ぼくは末っ子ですが、母の足が動かなくなってからは、あえて長兄でもなく姉でもなく、ぼくのところへ来てもらって青山千春博士、それにふたりの孫(ぼくたちの男の子ふたり)と一緒に介護し、癌が見つかってからは日赤に相談のうえ、浴風会病院に入院してもらいました。
 浴風会病院は緑が多く、母はいつも、車椅子で散歩するとき大きな樹を見上げて感嘆していました。

 ぼくの感受性も責任感もすべて、母が父とともに、幼い頃に育んでくれたものです。
 まもなく新幹線は品川に着きます。
 やっと自由になった母に会いに行きます。



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