▼きょうの「水曜アンカー」(関西テレビ)は、地方創生担当相の石破さんが参加されます。
それは昨日、この地味ブログでお伝えしたとおりですが、明日9月11日木曜の「ザ・ボイス」(ニッポン放送)には、安倍総理が参加されます。
もちろん、いずれも生です。
今日のアンカーの石破さんは、午後5時から5時半まで、そしてそのあとに「青山のニュースでズバリ」コーナーの短い第2部として、ぼくの”即時解説”も生で放送します。
安倍さんは、明日の午後4時から4時半の放送です。
今まで石破さんにしろ安倍さんにしろ、それから例えば橋下徹さんにしろ、ぼくと事前の打ち合わせ、話のすり合わせの類いは一切やらずに、ほんとうの意味の生でやって来ました。
今回も、まったく同じです。
これからも同じです。
▼石破さんの番組参加をブログに記すと、胸を打たれるような書き込み、すなわち、どうにか日本に希望を見いだそうとする主権者の願いがぼくにも伝わってくる書き込みをたくさん頂きました。
みなさん、ありがとう。
「参加される」という敬語を使っているのは、日本国民が民主主義に基づいて、意見や立場の違いを踏まえつつ選んだ議員だからです。ぼくの敬意の根っこは、みなさんにあります。
一方、石破さんが参加することをアップすると、嫌がらせ、中傷誹謗の書き込みも、数は非常に少ないですが、執拗に来ています。
そうした書き込みはすべて、ぼく自身が読むことなく削除され、IPアドレスの遡及が行われているので、嫌がらせの目的を達していません。
▼9月7日の日曜日、クリスチャンだった母の埋骨式(プロテスタントのキリスト教では納骨をこう呼ぶそうです)を神戸で終えて、そのまま名古屋へ向かい、「月詠みの森」の名で知られる神社の境内で車座になった地元のひとと一緒に考える時間を過ごしました。
キリスト教の埋骨は、ぼくにとっても初めての体験でした。
「死者は世界の最後の日に蘇る」という宗教思想に基づいて、骨をそのまま素手で掴んで、他の信者のお骨の眠る地下にお骨が混ざる形で一緒に収めるのですね。
小さなカケラは風に舞い、母の全身をつくっていた骨の手触りが胸に深々と刻まれました。
その直後の、前述の神社境内の講演会でも、非力なりに死力を尽くして、新幹線最終のギリギリまで時間を延長して語りましたが、おのれでも思いがけないほど心身を消耗したようでした。
翌日の月曜のチャンネル桜「青山繁晴の答えて、答えて、答える」の収録では、3本分の収録とも、これまでにないほど噛んで噛んで、内容も含めて、取り直しをしたいほどでした。
チャンネル桜の井上ディレクターが、いつものように公平な様子で「いや、これはこれで、良いと思います」と言われたので、そのままにしては居るけど、今日まで深い疲れ、これまでに一度も無かった疲れのなかにありました。
今日と明日の生討論に備えて、心身がゆっくり立ち上がってくるのを、いま感じています。
ぼくもいずれ骨になるときが来ます。
そのときまで、この世に生きる場を与えてくださった祖国に、ほんのささやかに献身したいと思います。
ぼくの精神の背骨を造る、峻厳な家庭教育をさずけてくれたわが母は、ぼくを産み落としたその日というだけではなく、時刻までぴたりと合わせて、7月25日午後3時59分にこの世を去りました。
その遺志を考えないわけには、いきません。
そして本人の意志だけでは、こんな死に方はできないでしょうから、天のご意思も考えたく思います。
それは昨日、この地味ブログでお伝えしたとおりですが、明日9月11日木曜の「ザ・ボイス」(ニッポン放送)には、安倍総理が参加されます。
もちろん、いずれも生です。
今日のアンカーの石破さんは、午後5時から5時半まで、そしてそのあとに「青山のニュースでズバリ」コーナーの短い第2部として、ぼくの”即時解説”も生で放送します。
安倍さんは、明日の午後4時から4時半の放送です。
今まで石破さんにしろ安倍さんにしろ、それから例えば橋下徹さんにしろ、ぼくと事前の打ち合わせ、話のすり合わせの類いは一切やらずに、ほんとうの意味の生でやって来ました。
今回も、まったく同じです。
これからも同じです。
▼石破さんの番組参加をブログに記すと、胸を打たれるような書き込み、すなわち、どうにか日本に希望を見いだそうとする主権者の願いがぼくにも伝わってくる書き込みをたくさん頂きました。
みなさん、ありがとう。
「参加される」という敬語を使っているのは、日本国民が民主主義に基づいて、意見や立場の違いを踏まえつつ選んだ議員だからです。ぼくの敬意の根っこは、みなさんにあります。
一方、石破さんが参加することをアップすると、嫌がらせ、中傷誹謗の書き込みも、数は非常に少ないですが、執拗に来ています。
そうした書き込みはすべて、ぼく自身が読むことなく削除され、IPアドレスの遡及が行われているので、嫌がらせの目的を達していません。
▼9月7日の日曜日、クリスチャンだった母の埋骨式(プロテスタントのキリスト教では納骨をこう呼ぶそうです)を神戸で終えて、そのまま名古屋へ向かい、「月詠みの森」の名で知られる神社の境内で車座になった地元のひとと一緒に考える時間を過ごしました。
キリスト教の埋骨は、ぼくにとっても初めての体験でした。
「死者は世界の最後の日に蘇る」という宗教思想に基づいて、骨をそのまま素手で掴んで、他の信者のお骨の眠る地下にお骨が混ざる形で一緒に収めるのですね。
小さなカケラは風に舞い、母の全身をつくっていた骨の手触りが胸に深々と刻まれました。
その直後の、前述の神社境内の講演会でも、非力なりに死力を尽くして、新幹線最終のギリギリまで時間を延長して語りましたが、おのれでも思いがけないほど心身を消耗したようでした。
翌日の月曜のチャンネル桜「青山繁晴の答えて、答えて、答える」の収録では、3本分の収録とも、これまでにないほど噛んで噛んで、内容も含めて、取り直しをしたいほどでした。
チャンネル桜の井上ディレクターが、いつものように公平な様子で「いや、これはこれで、良いと思います」と言われたので、そのままにしては居るけど、今日まで深い疲れ、これまでに一度も無かった疲れのなかにありました。
今日と明日の生討論に備えて、心身がゆっくり立ち上がってくるのを、いま感じています。
ぼくもいずれ骨になるときが来ます。
そのときまで、この世に生きる場を与えてくださった祖国に、ほんのささやかに献身したいと思います。
ぼくの精神の背骨を造る、峻厳な家庭教育をさずけてくれたわが母は、ぼくを産み落としたその日というだけではなく、時刻までぴたりと合わせて、7月25日午後3時59分にこの世を去りました。
その遺志を考えないわけには、いきません。
そして本人の意志だけでは、こんな死に方はできないでしょうから、天のご意思も考えたく思います。