ひとつの追記  (もうすこし分かりやすいように、手を入れました)

2012年09月15日 | Weblog


▼きょう9月15日土曜は、今回の短期入院の言わば「なかび」。
 東京は穏やかな薄曇りで、いつもは人が溢れているこの大病院も、外来診察がお休みで、すこし、ひっそりしています。

 先ほど、検査のために1階に下りると、それでも救急受付には少なからぬ患者さんたちがいて、ぼくが去年の3月に品川駅からタクシーでこの救急受付にやって来たときのことも、ほんのちらりとだけ思い出したけれども、それよりも世のひとびとの尽きせぬ苦難をやはり考えました。


▼この地味ブログに、たとえば下掲のようなコメントを頂きました。


(*以下、引用)

死に方  2012-09-15 13:22:46  しょうゆ (←このかたのハンドルネーム)


"死に方を考えるということは、どう生きたら自分の願う死に方が出来るかを考えるということだ"とあるラジオ番組で聞いたことを思い出しました。

自分のような甘っちょろい生き方をしている人間は
"家の布団の中で眠ったまま"
といったことを理想としますが
"病院では死にたくない"
なんてことも考えたりします。

大病をされて、死に直面してからの青山さんの
このまとめ記事を読んでいると
"青山さんの生き方"
がよく分かるような気がしました。

(*以上、原文のまま)


▼後半の「大病をされて」以下を読み、ぼくがなぜ、ひとつ下のエントリー(書き込み)をしたか、よく理解してくださる人がやはり居るんだなぁと、嬉しくなりました。
 そうです、ある種の「まとめ記事」ですね。

 そして、「しょうゆ」さんが「家の布団で眠ったまま」を理想とされるのは、ごく自然です。「甘っちょろい生き方」ではなくて、自然な生き方をされているのではないかと思います。

 それから、実はぼくは「どこでどう死ぬか」を考えたことがありません。
 それには関心が無いのです。
 関心があるのは、いかに生きるかであり、「最後には、ただ名誉ある死があるだけ」というのは、死に方に何かの理想があるのではなく、報いを求めない生き方をする、という、ぼくなりのささやかな決意の表明なのです。
 奮闘しても、努力しても、報いはない、最後にはただ死すだけ。しかし、士道に照らして名誉だけは大切にしつつ何にも屈せず果てる、ということです。

 こないだのチャンネル桜「答えて、答えて、答える」で、すこしは身体に気をつけますという趣旨を述べました。
 すると、いくつか歓びのメールや書き込みを頂きました。
 遠くニューヨークの大学院生からも、ほんとうに気持ちの溢れるようなメールも頂きました。

 安心してください。述べた以上は実行します。
 ただ、「ご自愛ください」という、こころの籠もった言葉を頂くとき、「ごめんなさい、自愛はしないのです」と申してきたのは、健康を軽視しているのではなくて、両立できないからです。

 何を両立できないのか。
 自分を守ることと、ぼくらの祖国再建に寄与することです。
 その両立は、非力なぼくにはできないと考えます。
 それは、日本国がそこまで深い落とし穴に陥っているということでもあります。

 自分を守りつつ同時に、ここまでの国難にある祖国に献身するということは、ぼくの器では難しい。身を捨ててこそ初めて、献身が可能になる。
 だから、どなたにも当てはまることではなくて、おのれを謙虚に顧みての、青山繁晴という男についての話です。

 チャンネル桜の番組でみんなに約束したのは「自愛と、祖国への献身を、両立させる」ことではないのです。ごめんなさいね。「献身と言えるほどのことはできていないけど、ささやかな献身をこれからもいちばんとしつつ、おのれの健康にも最低限の工夫はします」ということです。

「しょうゆ」さんの思い出された、ラジオの言葉も印象深いですね。
 ただ、上述したように、「自分の願う死に方」というのは、ぼくは考えたことがありません。
 今後もないでしょう。
 それを含めて、一切を、天に預けているからです。



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