W杯誤審問題とトーマス・ブルスィヒ『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』 その2

2014年06月20日 | スポーツ
 前回(→こちら)の続き

 「対戦相手のブラジルに薬を盛ったのでは」との疑惑を持たれた1990年W杯イタリア大会でのアルゼンチン代表。

 これに関しては、証拠がない以上なにを言ってもしょうがないわけで、アルゼンチン代表のマラドーナや向こうのメディアは、やったやらないにかかわらず「知らんがな」で押し通せば終わる話である。

 だが、あにはからんや、ディエゴとアルゼンチン人記者は口をそろえて、こう言うのである。

 「おお、あれはな、オレたちがやってやったぜ!」


 やっとるんかい!(笑)


 これには私も、テレビの前で豪快にコケそうになったものである。対戦相手に毒を盛る。こんな卑怯未練な話はマンガかドラマの世界くらいしかないと思いきや、堂々の真相暴露。

 いや、これは「白状」なんていう殊勝なものではない。ディエゴも記者も、これ以上ないというくらいのうれしそうな顔で、

 「おうよ! あれはオレたちのファインプレーさ。お人好しのブラジル野郎どもは、なにも知らずにゴクゴク飲んで青くなってたぜ! オレたちはアイツらが大嫌いだったからな。試合も勝ったし、まったくスーッとしたぜ!」

 これには、開き直っているのか、それとも文字通り話を「盛る」過剰なサービス精神なのか、はたまた自虐的ユーモアなのか、逆に色々とひねって考えてしまうところであるが、アルゼンチン記者の、

 「これは我々アルゼンチンの民族性なのです。こういう手を使って相手を出し抜く。このようなやり方を成功させることに、非常なるよろこびを覚えるのです」

 という言葉を聞けば、そんな人の好い邪推も吹っ飛ぶというもの。

 なにを自慢しているのかという話だが、記者のこれ以上ない「どや」な顔と、ディエゴのガキ大将みたいな無邪気な態度を観ると、いまひとつつっこむ気になれないというか、そのときに思ったのである。

 「嗚呼、いい悪いは別にして、サッカーってのはこういうスポーツなんだなあ」。

 それを許していいかどうかは別にして、サッカーとは「そういうもの」なのだ。だって、相手に睡眠薬飲ませて勝って「よろこぶ」って言われたら、こらもう、どうも言いようありませんわなあ。

 日本とは文化が違うとしかいいようがない。いやもちろん、日本人だって対戦相手に薬入りのオレンジ食べさせたりするとかもあるけど、それはあくまで、コッソリとやること。ディエゴみたいに「わーい、大成功!」とは公言しないよ。

 よくも悪くも判断基準が違う。もしあれが「だまされた」なら西村主審が批判されるのも仕方がないが、クロアチア側があれこれ怒るのは、その言い分は120%正しいし、わかるんだけど、たぶんそれは、きっと、どこまでいっても「引かれ者の小唄」なのだ。やられた方が負け。

 きびしい言い方だが、クロアチアが自らの正当性を貫こうと思ったら、方法は一つで「あの試合に勝つ」しかなかった。

 いや、勝っても負けても誤審なら正当性もくそもないだろうと言う人もいるだろうが、勝負の世界というのはそういうものだと思う。

 どんな状況であれ、結局一番強いのは「勝つ」ことなんだよなあ。勝って、せめて引き分けてあの判定を「なかったこと」にできなかった時点で「負け」なんだ。

 私自身は基本的に勝ち負けに淡泊なボーッとした性格だから、サッカーのこういったゴタゴタには、「そこまでやるかあ」とあきれるし、フレッジみたいなプレーは自分でもしようとも思わないけど、それゆえにか逆に実感してしまう。

 「勝負の世界は、勝った奴が勝ち」。

 実際、メキシコなんかは似たような局面から、それをやってのけた。

 ただまあ、サッカーの場合は1点の比重がすごく高いスポーツだから、誤審が騒がれるのは仕方がない面もある。だって、得点にからむミスは、大げさではなく選手のその後の運命を激変させる可能性もあるわけだからなあ。

 特に西村主審を擁護する気もないけど、サッカーに限らず審判は大変な仕事だとは思います。




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