将棋 大山康晴十五世名人の受けの妙技 vs米長邦雄 編 その2

2019年06月18日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 1969年の王座戦。

 大山康晴名人は、当時若手棋士で「打倒大山」の旗頭だった米長邦雄七段の猛攻の前に、ピンチに立たされる。

 ▲55馬と寄ったこの局面。

 先手に3枚もあり、▲85▲65に足されると、相当に気持ち悪い形。

 



 だがここで、後手に一撃必殺のしのぎがあった。

 食らった米長も、スタンディングオベーションの、あざやかすぎるディフェンスとは……。

 

 

 



 

 △54金とあがるのが、「受けの大山」が見せた、あざやかな一撃。

 少し前に放たれた、意味の分かりにくい△36角は、この手のために用意されたものだったのだ。

 先手のカナメ駒である、▲55にアタックをかけながら、遊んでいた△43中央を制圧。

 と同時に、門が開いて△13の地点で蟄居していたが、進路オールグリーンと一気に動き出す。

 まるでオセロで、黒の駒がパタパタと白にぬりかえられるかのごとく、その利きが△73まで通ってくる仕掛けなのだ! 

 すばらしい視野の広さ。まさに「景色が変わる」とはこのことではないか。

 この手を軽視していた米長だが、感心しているヒマはない。

 まだ手はあるはずと、気を取り直して▲73馬と飛びこむ。△同竜▲同桂成△同玉

 一回▲23飛と王手して、△53歩の合駒に▲85桂△63玉▲73金。

 △52玉は飛車打ちの効果で、▲43銀から先手勝ちだから、△64玉と危ない方に逃げるしかない。

 そこで、▲66銀打としばる。

 

 

 

 クライマックスはこの場面。

 後手は△55への逃走ラインを封じられ、次に▲56桂の一手詰がある。

 △45銀など△56の地点に駒を足しても、▲56桂と打って、△同銀▲同銀で、▲55と▲65に駒を打つ筋が、同時に受けられず必至。

 すごい切り返しこそあったが、そこから立て直した米長も、さすがの腕力と精神力ではないか。

 が、ここで「受けの大山」の妙技、第二弾が炸裂する。

 金縛り状態の後手玉だが、この包囲網を突破する手が、ひとつだけあったのだ。

 ヒントは、ある格言を思い出してほしい。そしてやはり、主役になるのはあので……。

 

 



 

 △56桂とここに打つのが、

 「敵の打ちたいところに打て

 を実践した、盤上この一手の見事すぎるしのぎ。

 これが桂打ちの詰みをつぶすだけでなく、次に△68桂成から△69角成がねらい。

 これで先手玉を一気に攻略する、

 「詰めろ逃れの詰めろ

 になっているのだ。またしても、△36角が光り輝いているではないか!

 ▲同銀と取るしかないが、そこで△65歩と強く打つのが、眉間で受ける真剣白羽取り。

 


 危ないようでも、桂馬しか持っていない先手には、後手玉に王手をかける形がない。

 後手玉をここまで追い詰めながら、あと数ミリが届かないとは、まあなんたること。

 手段に窮した先手は▲28飛成と駒を補充しに行くが、冷静に△59竜と逃げられて後続はない。

 以下後手は、角を取らせている間に、悠々と△66歩△56竜と押さえの駒をきれいに掃除して憂いはなく、そのまま押し切った。

 いかがであろうか。これが「受けの大山」が見せた、見事なしのぎの手順である。

 絶体絶命の局面から、ほれぼれするような体返しではないか。

 この将棋は、『将棋世界』か『将棋マガジン』かに連載されていた、米長の自戦記で紹介されていたのだが、あまりのおもしろさに何度も並べてしまったもの。

 なにかこう、昭和将棋のコクのようなものが、凝縮されているような内容で、今の視点で見ても十分に興味深い。

 渡辺明棋王王将は自身の将棋に幅を持たせるため、中原誠十六世名人の将棋を勉強したそうだが、振り飛車党のファンや私のような「受け将棋萌え」の方は、ぜひ大山将棋を堪能してみてはいかがでしょうか。

 

 (木村一基のど根性編に続く→こちら

 

 


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