「人生の意味」に悩む女子高生に、わりと真剣な「正解」を考えてみた その3

2019年08月08日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 人生を生きる意味は、
 
 「自分が好きなもの、影響を受けたもの、その感動から生じたなにかを伝えていく」。
 
 ということだと、私は創作活動から学んだわけで、そのことをカフェで隣り合った悩める少女に伝えたくなった。
 
 これには同じことを言ってくれている著名人もいて、たとえば内田樹さん。
 
 内田先生が、その著作でよく使われる言葉に
 
 
 「パスを出す」
 
 
 というものがある。
 
 お金でも人材でも情報でもなんでも、先生はどんどん誰かにわたしていけという。
 
 そうしてモノや情報がぐるぐると回っていくことによって、社会が活性化し、そこに仕事や経済やコミュニティーなどが出来てくる。
 
 金がないならオレんとこへこい。
 
 この古い歌の歌詞のような生き方こそが、人の本質だと内田先生は言うのだ。
 
 内田先生との対談本もある、岡田斗司夫さんもまた、似たようなことをいっておられて、あるイベントでは、
 
 
 「人の生きる意味は簡単。受け取って、考えて、真似して、伝える」
 
 
 内田先生と、そして私とも本質的には同じ答えです。
 
 さらにもう一人は、作家の関川夏央さん。
 
 その著書『おじさんはなぜ時代小説が好きか』という著書の中で、
 
 
 「以前に誰かが成し遂げた仕事を無駄にはしない。先人の遺業を尊重し、参考にしつつ、さらに遠くまで行こうとするとき、作家はオリジナリティを発揮するのです。

  そしてそのたびにその作品世界は広く、かつ深くなるのです。」
 
 
 ね、これも同じだ。
 
 我々の生きる意味は、
 
 
 1「まず、誰かから受け取る」

 2「それについて尊重し、そしてじっくりと考えてみる」

 3「自分なりにまねをしたり、答えらしきものを出したりしてみる」

  4「あとは、それをどんどん回していく」
 
 
 そのパスが回り回って自分のところに戻ってきたら、また1に戻る。
 
 ね、簡単でしょ?
 
 これは私だけじゃない、内田樹、岡田斗司夫、関川夏央といった社会的影響力がある人もいっているんだから、相当に「正しい」はず。
 
 私が知らないだけで、きっと似たようなことを発表している人は、他にもっといるんだろう。
 
 「スキあらばパスを出せ」。
 
 そうしているかぎり、キミは決して無意味でも孤独でもない。
 
 だからマムコちゃん、なにも悩むことはない。
 
 キミの生きる意味はそれだ。『オール東宝怪獣大進撃』をめくりながら、そういってあげたくなってしまった。
 
 なんて伝えてみると、もしかしたら彼女は、
 
 「でも、あたしには何の特技もない。伝えることもない」
 
 そう反論するかもしれないが、そんなことはない。
 
 たとえば岡田さんは言っていた、
 
 
 「ボクは、朝ほうきを持って家の外を掃除しているおばあさんの姿が好きなんだ。

  それは日本の良き姿のような気がするし、それを見た誰かがいいなと思って真似してくれたら、そういう文化が伝わっていって、その光景が日本に広がって、もしかしたら町が、少しきれいになったりするかもしれないでしょ」
 
 
 岡田さんの言葉を借りれば、そういった「ミーム」が広がることによって、社会が少しずつでも動き、活性化し、よい方向に転がっていくかもしれない。
 
 「バタフライ効果」というSF用語があるが、まさにそれ。大陸の蝶のはばたきが、どこかの国で台風になるかもしれない。
 
 え? バカバカしい? 
 
 でも、人の営みって案外とこういう「ささいなこと」で出来てないかな。
 
 ふと立ち寄った書店で出会った一冊の本が、自分の人生に大きな影響をあたえたりする。
 
 たまたまつけたテレビでやってた番組の影響を受けて、進路を決める子供もいる。
 
 落ちこんだとき勇気づけられたという友人が「あのとき、ありがとな」とお礼を言うけど、こっちの方は
 
 「あれ? オレ、そんなん言うたことあるっけ?」
 
 憶えてなかったりする(だから、よく怒られます)。
 
 我々が大小問わず人生を豊かにすることは、たいていがそういった「なにげないこと」だったりする。
 
 だから、伝えることも、渡すものも、そりゃすごい感動でも高価なプレゼントでもいいけど、別に特別でもない「なにげないこと」でもいいのだ。
 
 古いスマホとか、読み終えたマンガとか、ネットのおもしろ動画とか。
 
 近所のスーパーの安売り情報とか、簡単なしみ抜き方法とか、ジャムのフタの開け方とか、そんなんでもいい。
 
 だって、そのことがだれに、どんな影響をあたえるかなんて知る由もない。
 
 結果なんてわかんない。だから大事なのは種をまく「手数」だ。
 
 もう一度いう。人生を生きる意味とは、
 
 
 「なにかを受け取ったら、それを尊重しつつ考えてみて、自分なりに真似をして、あとはそれをどんどん伝えてまわしていく」
 
 
 だから、たまたまカフェで隣り合わせた見も知らぬ女子高生マムコちゃん、私はこれをキミにパスしよう。
 
 そりゃキミはこれを今読んでないだろうけど、なあに人生はムダに長い。
 
 もしかしたら数年後にでも、ここに行き着いてこないとも言い切れまい。だから、種だけまいておく。
 
 人生は受け取ったモノを咀嚼して、どんどんまわせばいい。
 
 キミの場合は、「人生に意味はあるのか」という問いを受け取った。だったら、それを
 
 「尊重しつつ考え」
 
 「自分なりの答えを出して」
 
 「それを伝え」ればいいのだ。
 
 伝える相手はそう、おそらくはキミの後に続いてくるであろう、第2第3の「生きる意味」に悩んでいる少女たちだ。
 
 いつか「答え」が出たら、いやもし出なくたって、彼女たちにそのことを教えてあげればいい。
 
 それは5年後かもしれないし死ぬ直前かもしれないけど、それでもキミなら若気の至っている「彼女たち」の気持ちを、少しは理解できるだろう。
 
 周囲の人のように「ウザ」「めんどくさ」とはいわないはずだ。「わたしもそうだった」と共感し、話を聞き、自分なりに考えて出した結論を伝える。
 
 「生きる意味」に悩む女子高生という存在は、きっと人類が滅ぶまで絶えることなどない。
 
 いつか、かならず出会うはずの、その「かつての自分」のためにキミはここにいる。彼女らに声をかけ、なぐさめ、もし迷子になったり間違えそうになっていたら、そっと導いてあげる。
 
 それこそがキミが今ここで悩み、生きている意味なんだ。
 
 
 
コメント
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