団鬼六『果たし合い』を読む。
鬼六先生といえば、SMなどポルノ小説の大家であるが、私としては将棋ファンとしてのイメージの方が強い。
今はなき『将棋ジャーナル』のオーナーになったり(その後大赤字を出して廃刊)、戦時中、捕虜になったオーストラリア人兵と、将棋を通じて交流したことを描いた『ジャパニーズ・チェス』。
非業の死を遂げた森安秀光九段との思い出をつづった『牛丼屋にて』など、将棋を題材にしたエッセイに名作が多いのだ。
団先生の語りには、独特の人情味があるが、その魅力を先生と交流の深かった先崎学九段はこう語っている(改行引用者)。
団さんという人は、失敗した人間、寄り道や回り道をする人間に対して、異常なまでに寛容なところがある。
それは、職業からくる気質というよりも、個人的な嗜好からきているような気がする。
また、そのようなタイプの人間に頼られると、絶対に無下にはできない。
といわれると、涙もろい人なのかといえば、そうでもなく、
その情けのかけ方も独特であって、人情にほだされてというのとはちょっと違い、相手の人生に、ちょっとだけ付き合ってみるかという感じで、遊び心があふれていて、だから湿っぽくならない。
その情でもなく理でもなく、「遊び心」という独特のスタンスが団先生の魅力である。
そんな団先生による将棋エッセイの傑作といえば、名作『真剣師 小池重明』の元となった『果たし合い』であろう。
賭け将棋を生業にし、アマチュアながらプロ相手に勝ちまくった、伝説の真剣師小池重明とのやりとりを描いたものだが、これがめっぽうおもしろい。
この小池重明という人は、将棋の腕は一流だが、人としてはまったくダメダメであった。
大酒飲みの博打好きと、これだけでもそこそこ問題なのに、加えて癖(へき)のようなものがあり、人生で重大な局面を迎えると、かならずといっていいほど、女とかけおちをしてしまうのだ。
その際、人のお金も持ち逃げする。立派な犯罪である。
そんなことをしていて、まともな生活などできるはずもなく、金もなくし、女も逃げ、体もこわしてしまう。
そうして尾羽打ち枯らし、頭を下げやりなおすことになるのだが、やはり同じことをくり返して遁走。
その「生き方下手」ぶりには、読んでいて
「なんでそーなるの?」
100万回くらい、欽ちゃんごとくツッコミを入れたくなる。まるで、西原理恵子さんのマンガみたいだ。
ところがこの「ダメのフルコース」ともいえる小池重明が、将棋だけはおそろしく強いのだか、なんともすさまじい。
プロを、それも並のそれでなく、田中寅彦、中村修、森雞二といった、のちのタイトルホルダーになる一流どころをも、次々と破ってしまう。
その戦いぶりも破天荒極まりなく、二日酔いを迎え酒のビールでいさめながらアマチュア名人になったり。
徹夜で飲み明かし、トラ箱にぶちこまれながら、そこから出てすぐ大山名人との対局(角落ち戦)に駆けつけ勝ったりする。
その強さは、アマチュアながら、
「特例で、プロにしてもいいのでは」
という声が出たほどのものだが、このときもやはり、お世話になった人を裏切って女とかけおちし、ご破算にしてしまう。
なにをやってるんや……。
そんな小池の生き様を物語にしたのが団鬼六先生であり、そのもっとも密な関わりの時期が、『果たし合い』で書かれている。
その圧倒的な力にもかかわらず、数々の不始末で将棋界から追放された小池は、すべてを失い、ボロボロの状態で団邸をおとずれる。
そこで言うことには、
「将棋指南に、やとっていただけませんか」
これには団先生も、大いにあきれることに。
これまで散々、小池重明は人に迷惑をかけてきたわけだが、その被害者の中に先生もふくまれていたからだ。
それを今さら「やとってくれ」とは、どの口が言うてるねん、と。
はねつけてしまうのは簡単だが、団先生は思うところがあったのか、ここに、こんな提案をすることになる。
「こちらが用意する刺客を倒せれば、やとってやろうではないか」
(続く→こちら)