「サッカーとテニスはファン層が違いすぎやで!」。
そういって笑ったのは友人ダイモツ君であった。
今年のスポーツといえばサッカーのワールドカップに錦織圭のUSオープン決勝進出と大いに盛り上がったが、サッカーとテニス両方を愛するダイモツ君は、いつもこの両スポーツをくらべると、会場の雰囲気に差がありすぎて吹き出してしまうのだそうな。
サッカーと言えば、世界的に爆発的人気を誇っているが、にもかかわらず、その中身はと言えばかなりムチャクチャである。
ワールドカップの試合をいくつか見ればわかるが、選手たちのプレーぶりはとんでもなく荒い。接触プレーの多いスポーツだからやむを得ない部分もあるが、それにしても激しい。
チャージする、せりあいながら手で押さえつけるなどは、まだわかるが、よく見ると、いやさ別によく見なくても
「後ろから押す」
「脚をひっかける」
「ヒジ打ちをする」
「ユニフォームを引っぱる」
「相手に抱きつく」
などなど、どう考えても非紳士的プレーが散見される。
子供のころ読んだ野球マンガ『ドカベン』に出てきた高知県代表土佐丸高校は、ビーンボールや危険なスライディングなどを駆使する「殺人野球」を売り物にしていたが、まさにワールドカップなどほぼ全チーム(日本をのぞく)「殺人サッカー」である。
他にも、
「反則ほしさにわざと転ぶ」
「痛がっているフリをして時間を稼ぐ」
「きたない言葉で相手を脅す」
「審判の見てないところでセコイ報復をする」
などなど、「もう、なんでもありかよ!」とつっこみたくなる世界。
だが、そんな卑怯未練な手管もすべて
「サッカーとはそういうもの」
「南米勢はしたたか」
「審判との駆け引きも見所」
という言葉で、あたかも良きことのように語られるのがサッカーというスポーツの不思議。
以前、テレビの日本代表特集から興味を持ったある友人が、「サッカーって、おもしろそうやな」というので、昔のワールドカップの試合のビデオを貸してあげたら、次に会ったとき、
「初めてみたけど、サッカーってあんな汚いスポーツやったんか! ボクは認めへん! 正義はどこにあるんや!」
などと、猛烈に憤っていて、「キミ、サッカー観るには向いてないなあ」と苦笑してしまったものだ。
基本的に、スポーツマンシップとかルールとかモラルを重視するマジメな人とかは、サッカー観戦に向いていない。
あのカオスなスポーツを楽しむコツは、ラフプレーもシミュレーションも汚いビッグマネーの動きも、審判買収や八百長や独裁政権の政治利用や、フーリガンの大暴れ、そういったもろもろの事情もすべて「ユーモア」として観ることなのだ。
スポーツマンがどうとかよりも、そこには人間の持つ俗や悪といったもろもろのサガのようなものを見る、一種の「人生劇場」「人間喜劇」として鑑賞する。
なんというのか、大げさに言えばドストエフスキーとかガルシア=マルケスの小説を読むような感じというか。私はそういう「文学」な目線でサッカーを見ている。
その俗のカタマリのような土壌の上に、メッシやクリスチアーノ・ロナウドのスーパープレーといった神のごとき技が乗っかるからこそ、そこになんともいえない「美しさ」を感じることができるわけだ。そのギャップこそが、サッカーの魅力であろう。
一方、テニスの方は実におとなしいものだ。
選手も観客も紳士的。汚い野次もなければ、露骨な反則も審判の目をごまかすプレーもない。良いプレーには双方に拍手。特にウィンブルドンは白着用のドレスコードもあったりして、見た目にも地味。
タトゥーを入れている選手など、サッカーでは当たり前だが、テニスなどたまにいると「おお!」とちょっとした話題になるほどだ。育ちがおよろしいことで。
テレビで同時に鑑賞していると、この差違がハッキリして笑ってしまう。ワールドカップの狂乱のあと、ハーフタイムにチャンネルを変えてウィンブルドンを見ていると、パーンパーンというボールの乾いた音と、観客の温かい拍手がときおり聞こえるという、「皇室チャンネル」みたいな空気がそこには流れており、
「これが、同じ地球の出来事なのか?」
と、なんとも不思議な気分になってしまう。
ゴッタ煮のようなワールドカップと、整然と落ち着いたウィンブルドン。好みは分かれるところであろうが、両方とも好きな私としては、人生が2倍楽しいのであるが、見るのが大変なので、願わくばどっちかを1月くらいずらしてほしいところである。
そういって笑ったのは友人ダイモツ君であった。
今年のスポーツといえばサッカーのワールドカップに錦織圭のUSオープン決勝進出と大いに盛り上がったが、サッカーとテニス両方を愛するダイモツ君は、いつもこの両スポーツをくらべると、会場の雰囲気に差がありすぎて吹き出してしまうのだそうな。
サッカーと言えば、世界的に爆発的人気を誇っているが、にもかかわらず、その中身はと言えばかなりムチャクチャである。
ワールドカップの試合をいくつか見ればわかるが、選手たちのプレーぶりはとんでもなく荒い。接触プレーの多いスポーツだからやむを得ない部分もあるが、それにしても激しい。
チャージする、せりあいながら手で押さえつけるなどは、まだわかるが、よく見ると、いやさ別によく見なくても
「後ろから押す」
「脚をひっかける」
「ヒジ打ちをする」
「ユニフォームを引っぱる」
「相手に抱きつく」
などなど、どう考えても非紳士的プレーが散見される。
子供のころ読んだ野球マンガ『ドカベン』に出てきた高知県代表土佐丸高校は、ビーンボールや危険なスライディングなどを駆使する「殺人野球」を売り物にしていたが、まさにワールドカップなどほぼ全チーム(日本をのぞく)「殺人サッカー」である。
他にも、
「反則ほしさにわざと転ぶ」
「痛がっているフリをして時間を稼ぐ」
「きたない言葉で相手を脅す」
「審判の見てないところでセコイ報復をする」
などなど、「もう、なんでもありかよ!」とつっこみたくなる世界。
だが、そんな卑怯未練な手管もすべて
「サッカーとはそういうもの」
「南米勢はしたたか」
「審判との駆け引きも見所」
という言葉で、あたかも良きことのように語られるのがサッカーというスポーツの不思議。
以前、テレビの日本代表特集から興味を持ったある友人が、「サッカーって、おもしろそうやな」というので、昔のワールドカップの試合のビデオを貸してあげたら、次に会ったとき、
「初めてみたけど、サッカーってあんな汚いスポーツやったんか! ボクは認めへん! 正義はどこにあるんや!」
などと、猛烈に憤っていて、「キミ、サッカー観るには向いてないなあ」と苦笑してしまったものだ。
基本的に、スポーツマンシップとかルールとかモラルを重視するマジメな人とかは、サッカー観戦に向いていない。
あのカオスなスポーツを楽しむコツは、ラフプレーもシミュレーションも汚いビッグマネーの動きも、審判買収や八百長や独裁政権の政治利用や、フーリガンの大暴れ、そういったもろもろの事情もすべて「ユーモア」として観ることなのだ。
スポーツマンがどうとかよりも、そこには人間の持つ俗や悪といったもろもろのサガのようなものを見る、一種の「人生劇場」「人間喜劇」として鑑賞する。
なんというのか、大げさに言えばドストエフスキーとかガルシア=マルケスの小説を読むような感じというか。私はそういう「文学」な目線でサッカーを見ている。
その俗のカタマリのような土壌の上に、メッシやクリスチアーノ・ロナウドのスーパープレーといった神のごとき技が乗っかるからこそ、そこになんともいえない「美しさ」を感じることができるわけだ。そのギャップこそが、サッカーの魅力であろう。
一方、テニスの方は実におとなしいものだ。
選手も観客も紳士的。汚い野次もなければ、露骨な反則も審判の目をごまかすプレーもない。良いプレーには双方に拍手。特にウィンブルドンは白着用のドレスコードもあったりして、見た目にも地味。
タトゥーを入れている選手など、サッカーでは当たり前だが、テニスなどたまにいると「おお!」とちょっとした話題になるほどだ。育ちがおよろしいことで。
テレビで同時に鑑賞していると、この差違がハッキリして笑ってしまう。ワールドカップの狂乱のあと、ハーフタイムにチャンネルを変えてウィンブルドンを見ていると、パーンパーンというボールの乾いた音と、観客の温かい拍手がときおり聞こえるという、「皇室チャンネル」みたいな空気がそこには流れており、
「これが、同じ地球の出来事なのか?」
と、なんとも不思議な気分になってしまう。
ゴッタ煮のようなワールドカップと、整然と落ち着いたウィンブルドン。好みは分かれるところであろうが、両方とも好きな私としては、人生が2倍楽しいのであるが、見るのが大変なので、願わくばどっちかを1月くらいずらしてほしいところである。