映画『レッド・バロン』には致命的な欠点がある。
第一次大戦時における撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンを題材にした伝記映画。
タイトルは彼が、愛機を赤く塗装したことから「赤い男爵」の異名を取ったことに由来する。
というと、カンのいい人には「あー、もしかして」となるかもしれない。
そう、あの「シャア専用ザク」の元ネタになったのは、このドイツ空軍パイロットなのである(たぶん)。
内容としては、まだ戦争というものに「大義」や「騎士道精神」といったアナクロニズムが幻想とはいえ残っていた時代をあつかっている。
ドイツ軍、エースパイロット、貴族、複葉機、スポーツマンシップ、空への無限のあこがれ、敵味方を越えたライバルたち。
何かもう男の子の好物をこれでもかと詰めこんだ「おとぎ話」であり、宮崎駿も『紅の豚』なんかよりも、ストレートにこの映画を作ってほしかったものだ。
そんな『レッド・バロン』は絵的にもストーリー的にも楽しめて、なかなかの満足だったのだが、ここにひとつ大きな瑕疵が存在する。
これはかなり致命的ともいえるもので、映画が開始したその瞬間に、
「あー、こらダメ! これはもう、映画の出来がどれだけ良くても採点に4割減やな」
ガッカリしてしまったものだ。
そんなテンションダダ下がりなところとは、
「登場人物が全員、英語をしゃべっている」。
映画といえばハリウッドが支配している現状では、どの国が舞台で、どのような人種や民族が出ようが、英語で会話をするというのは、わりと当たり前のことである。
『ローマの休日』だろうが『巴里のアメリカ人』だろうが、登場人物はイタリア語もフランス語もカケラもなく英語でしゃべる。
スペイン階段で「ハロー」セーヌ川で「アイラブユー」である。古代ローマや『猿の惑星』ですら英語だ。
まあこれらは古い作品だし、お話としてもファンタジーに近いからまだいい。日本でだって、『西遊記』の猿も河童も日本語でやりとりしていた。
しかしだ、現代の映画で、しかもリアリズムな作品でそういうことをやられると、格段に冷める。
特に戦争映画など、その国の特色がモロに出るものや、各国の人種が入り混じるようなシチュエーションで全員が英語だと、正直「はあ?」である。
もう極端な話、そこでイスを立とうというくらいにドッチラケけなのだ。
戦場経験の多いカメラマンの宮嶋茂樹さんも同じようなことをいっておられ、
「ドイツ軍兵士や指揮官が英語を、特に《ドッグタグ》(認証評のこと。犬の首にぶらさげる鑑札みたいだから)みたいなアメリカ軍の用語を使うのにはホンマに興ざめや」
まったくもって、その通りである。
宮嶋さんがここで取り上げていたのは『スターリングラード』だが、この映画も廃墟と化したスターリングラードの街などは非常に雰囲気が出ていて良かったのに、ドイツ軍もロシア軍さえも(!)みな英語でしゃべっていて、「なんでやねん」と萎えること、おびただしい。
『ワルキューレ』もそうだったよなあ。
これがわかってる監督や制作陣だと、『プライベート・ライアン』ではドイツ兵はドイツ語を。『トラ・トラ・トラ!』や『硫黄島からの手紙』では日本兵はちゃんと日本語でしゃべってるのに……。
この『レッド・バロン』も全編英語。でもなあ、英語って日本人にはそれなりになじみもあるせいで、ものすごく軽く聞こえるんだよなあ。
「アイラブユー」とか「イエス、サー」とか「OK」とか、思わず
「リヒトホーフェン男爵はそんな軽薄な口調やない!」
憤りを感じてしまうほどだ。ドイツの貴族をなめるなよ! と。
なにより許せないのは、この映画がドイツ映画なこと。
なんでドイツで作って、スタッフも全員ドイツ人なのに、英語でしゃべっとるのや!
意味わからんわ。アメリカとかで売りたいから? 日本で「海外を意識して」タイトルに『RONIN』『GOEMON』とか横文字を入れるようなもんか?
しゃらくさい。だいたいそんなことする映画は、上滑りしとると相場が決まっとるんや!
まあ、『レッド・バロン』はおもろしかったけどさ……。
まったく納得のいかない英語セリフである。これだったら、日本語吹き替えで観た方が、なんぼかマシであった。
色々と事情はあるんだろうけど、スタッフには猛省をうながしたい。なんでやねん、ホンマ。