ヒシャム・アラジのテニスは、まさに天才型のそれだった。
スポーツの世界には、ときおり、目に見えて才気をほとばしらせる選手がいる。
彼らは普通なら、100万回練習してもできないようなプレーをいとも簡単に、それこそ口笛でも吹きながら、あざやかにこなしてしまうことによって、我々凡人に感嘆と絶望の、ため息をもらさせる。
テニスでいえば、一番わかりやすいのはジョン・マッケンローであろう。
あの天才的としか表現できない、繊細なボレーは、
「フェザータッチ」
と呼ばれ、まさに彼しか披露することが、できないものであった。
他にもアンドレ・アガシやロジャー・フェデラーなど、神に愛されていたとしか思えないような、すばらしいショットを打つ選手は多くいるが、その中から、個人的な見立てで、一人輝く才を持った選手を選べと言われれば、彼らを押しのけてこの男になるかもしれない。
それがモロッコのヒシャム・アラジ。
カリム・アラミやユーネス・エル・アイナウイらとともに、モロッコのテニスを引っぱってきたエースである。
身長は175センチと、テニス選手としては相当に恵まれない体型であったが、それをカバーするだけのフットワークと、なによりムチのようにしなる腕と、強靱な肉体を持っていた。
特に、その形のよい筋肉は見事なもの。
インターバルで、彼が着がえのためシャツを脱ぐと、見事な形の腹筋に、客席から歓声が上がるほどであった。
毎試合のように、それを披露するところから見て、本人もかなり自覚があったらしい。
華麗なラケットジャグリングでも客席を沸かせる彼は、まるで少年のようなベビーフェイスも相まって、2歳から過ごしているフランスで、特に人気者であった。
アラジのテニスは、とにかく美しかった。
ショットは一見やわらかい。
それは彼の動きとフォームが、流れるように進むからで、実際にそこから飛んでくるボールは、予想を裏切って鋭くて伸びがある。
その小さな体の、どこにそんなパワーがあるのかというような、ものすごいエースが、次々飛んでくる。
それもこれも彼の、しなやかな筋肉のたまものであるが、特にクレーコートの上で躍動する姿は惚れ惚れさせられる。
いつまでもプレーを見ていたい、と思わせるようなその芸術性は、グスタボ・クエルテンと双璧ではなかろうか。
アラジのその才能が、もっとも発揮されたのが、1997年のフレンチ・オープンであった。
この年アラジは好調で、ローラン・ギャロスでも快進撃を見せベスト8に残る活躍。
その4回戦で戦うこととなった、マルセロ・リオス戦は大会のベストマッチ、いやさ、これまでクレーコートの上で見たテニスの中で、もっとも、すばらしい試合だったかもしれない。
リオスもまた、アラジと同じ「天才型」の選手。
どちらも、身長175センチのサウスポーで、やはりスピードと、しなやかなスイングを武器とし、天才肌の選手にありがちな、ムラッ気も持つなど共通点の多い者同士。
その戦いは、全身からほとばしる才とセンスが、真っ向からぶつかり合う好勝負となる。
専門誌のレポートでも賞賛された、すばらしいゲーム。
「金の取れるテニス」というのは、こういうパフォーマンスのことをいうのだろう、と感じ入ったものだ。
そんな「魅せる男」アラジの試合を、私は生で観たことがある。
それは1998年のオーストラリアン・オープンを観に、メルボルンまで出向いたときのこと。
アラジは2回戦で、地元期待の若手マーク・フィリポーシスと相対した。
スピードと柔軟性で戦う「柔」のアラジと、破壊力抜群のビッグサーブを、無差別爆撃のように打ちこんでくる「豪」のフィリポーシス。
相反するかのようなプレースタイルのふたりが、灼熱のメルボルンで、ぶつかり合う。
これが、おもしろく、ならないはずがない。
私はこれこそ、前半戦屈指の好カードと見積もって、センターコートのチケットを手に、会場へ向かったのである。
(続く【→こちら】)