社会空間研究所 建築・まちづくり通信

社会空間研究所の所員が建築・まちづくりに関する情報等を気ままに綴ったブログです。
2007年6月からスタートしました。

大宮の盆栽町はハワードの日本型ガーデンシティだった

2019-07-01 18:00:38 | まち歩き(東京)

だいぶ以前に購入した本だが、ほとんど目を通していなかった

「近代日本の郊外住宅地」(鹿島出版会)

を久々に手に取り、ぺらぺらめくってたら、目次の「盆栽村/大宮」が目に留まった。

それも執筆は鈴木博之さんだった。鈴木さんが著した「東京の地霊」(文芸春秋)は面白かった。

ついでに、「郊外住宅地の系譜」(鹿島出版会/山口廣編)もお薦め。

こちらは東京の住宅地で、近代日本は全国。

 

盆栽村はだいぶ前に一度訪れたこともあり、

もともと駒込等に住んでいた植木職人が

関東大震災後にまとまって移住した場所である、程度の知識はあったが

まさか、移住してくる盆栽事業者の受け皿として

オーダーメードの区画整理事業が行われた土地だとは知らなかった。

ましてや、盆栽村は

良好な住環境のもとに職住近接を実現したハワードの日本型ガーデンシティだった、ということも。

驚きである。

▼案内サイン

▼現在の街並み(2011年8月に訪れた時の写真)

以下、この本(「近代日本の郊外住宅地)に書かれていた盆栽村の概略を記します。

◎植木屋さんは大名庭園がなくなり、職業として衰退していったこと

◎そんな中、盆栽は、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信等明治の有力者たちに好まれ、庶民にも人気を広げた。

◎市街化が進んで、環境的に植木や盆栽業を続けるのが難しかった時に、関東大震災が起き、郊外への脱出を決意させるきっかけとなった。

◎駒込新明町(現本駒込)、団子坂(現千駄木)に住んでいた盆栽業者が中心になって、「日本盆栽発展の根拠地たるにふさわしい土地」を探した。※今の不忍通り沿線の地域になる。

◎中心になった盆栽業者は、団子坂の清水利太郎、蔵石篤夫、加藤留吉、鈴木重太郎。

◎盆栽の栽培に必要なより広い土地、盆栽に適した土壌、新鮮な空気水があるところをさがし、そこが大宮の大砂土村本郷、土呂地であった。町名は、昭和15年に大宮市に大砂土村が合併された際、大宮市盆栽町になった。

◎面積は約10ha、減歩率は約25%、1区画は300坪~1,500坪(区画は盆栽業者のニーズに合わせた)、道路幅員は10.8m。

◎ここは分譲ではなく借地であった。

◎大正14年に最初に移り住んだのは、清水利太郎(清大園)、蔵石篤夫(薫風園)、内海親之亟(蔓青園)、米津梅太郎(好石園)等

◎団子坂から移ったのは7~8軒、新明町からは4~5軒、そして全国から20軒ほど集まった。

◎ハワードの田園都市は、住環境の良いところに、職住近接のまちをつくることであり、盆栽村はまさに日本型の田園都市を実現したところである。

◎ちなみに、森鴎外の長男も東京から移り住んでいる。

◎終戦後、町内の5軒が進駐軍に接収された。それだけ、この住宅地が質の高いものであったという証拠である。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヒマワリの芽がでました~~ | トップ | 都市農地賃借法の導入事例 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

まち歩き(東京)」カテゴリの最新記事