菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

娘と義姉と一緒に、新潟県魚沼市の科学の碑(私たち夫婦の墓)を下見に

2019年05月29日 18時50分17秒 | 日々の雑感
 私たち夫婦の墓をどうするかと相談したとき、どうせ死んだら「原子と分子になる」のだから、個人的な墓は必要ない。しかし、骨を焼いた後、どこかに骨を埋めなければ、子どもたち(娘2人と息子1人)が、世間からいやな目でみられることになっても困るだろう。とにかく、遺骨を埋める場所を決めなければと考えていたとき(2年前の春)、私が長年携わっていた仮説実験研究会が、「科学の碑」の再募集をしていました。奥さんも同意してくれたので、一緒に申し込みをしました。

 仮説実験研究会では、提唱者であり、代表をしている板倉聖宣氏の蔵書を保存するに当たり、当時の新潟県湯の谷村の東養寺の住職・細井心円(むねまる)さん(故人)が仮説実験研究会の会員でもあるということで、その敷地に蔵書の置き場兼集会所をつくりました。そのとき、同時に科学の碑をつくり、墓地もつくりました。

 板倉さんは昨年2月死去し、そこに、「原子・分子となって」葬られています。私は、自宅のある府中市での葬儀は参加しました。無宗教で、数人が弔辞を述べて、献花をするというもので、線香も焼香もない、葬儀でした。
 しかし、後日行なわれた科学の碑での納骨には参加していません。

 私たちの葬儀の内容の方向性は、親族には、その旨、伝えてあります。
 ところが、80歳になる義姉が、「私もその墓を死ぬ前に見ておきたい」と言い出しました。「順番にいけば、私が先だから、死ぬ前に見ておきたい。早く連れていってほしい」というのです。もっともな話です。
 たまたま、今月末、パティシエをしている次女が、「店の改造」で2週間の休みがとれたということで、昨日いってきたのです。当然、子どもたちにも、納骨さきを知っておいて、現地を見てもらわなければ、なりませんから、いい機会となりました。ただし、ここは豪雪地帯ですから(3メートルもつもるときがあるとのことでした)、冬場の納骨は困難です。

 娘の車で、北関東高速道、関越高速道をすすみ、小出ICでおりて、4キロほど往くと、東養寺です。
 入口に科学の碑のおおきな案内板が立っています。
 

細井心円さんの息子さんと記念写真



 墓には、菊池伸浩と菊池節子の名前が刻まれています。
 

 これが科学の碑です。

 
ここに私も奥さんの遺骨は納骨されます。

 

 

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布川事件の桜井昌司さんと谷萩弁護士のこと

2019年05月28日 06時57分26秒 | 日々の雑感
 昨日、夜、寝しなにNHKラジオは、「布川事件損害賠償判決」で、原告(桜井昌司さん)側の勝利を報じていた。今朝の新聞の報道が待ち遠したかった。
 みなさんは、あまり知らないと思うが、利根町(取手市に隣接した町)の布川で殺人事件があり(1967年8月)、当時の「やんちゃな青年」桜井昌司さんと杉山卓男さんが逮捕された。最高裁までいき、無期懲役が確定した。(1978年7月)。
 しかし、当時から、ずさんな捜査が問題となり、2人は再審請求をし、2005年には再審が決定し、2011年には「無罪判決」が確定した。

 私は、国民救援会にも加入しているので、陰ながら応援していた。無罪判決後、杉山さんは、「余生を静かに暮したい」として、静かな生活をし、病気で死去した。

 桜井さんは、国民救援会にも入り、「損害賠償請求訴訟」を起こし、昨日の判決を勝ちとった。桜井さんは、いつも明るく、元気で気さくな人である。また、歌がとても上手な人でもある。
 今日の東京新聞は、「捜査官がウソをいい、検察官が証拠を独占するやり方が冤罪を生む。それが許されないのは当たり前。裁判所が踏み込んで認定してくれて感謝している」という桜井昌司さんの談話を報じている。

 新聞写真では、桜井昌司さんの右横にいる白髪の弁護士が谷萩陽一弁護士である。谷萩弁護士は、4月の水戸市長選挙に、共産党や市民団体の推薦で立候補し、善戦した。共産党の推薦した候補者のなかでは、最高の得票率をえた。
 谷萩弁護士には、福田の産廃処分場(エコフロンティア・かさま)建設反対運動でもお世話になった。
 
 実は、桜川市でもお世話になっているのである。前市長の時代に、「高久ストックヤード事件」という「残土処理」を巡る事件が起こり、議会が紛糾した。
 このとき、裁判を起こした側の議員から、「茨城県で、オンブズマンで一番優秀な弁護士を紹介してほしい」との声がかかった。こんな時は、保守系の議員でも、共産党系の弁護士が一番信頼できることをしっているのである。
 私は、「茨城県では、谷萩陽一弁護士が一番ではないか」といって、水戸にある弁護士事務所まで一緒にいき、紹介した。
 この裁判で、原告側が勝利し、市長側がまけ、政治の流れが変わった。桜川市の政治変化のながれに、一番貢献したのが、ある意味では谷萩陽一弁護士であったのかもしれない。


 

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宣伝カーを車検に出したので、今日は読書

2019年05月27日 18時48分11秒 | 日々の雑感
 宣伝カー仕上げてから、2回目の車検がきた。そんなわけで、今日は暑すぎることもあり読書に専念というほどではないが、1冊読んだ。
 山川謙一著「太宰治の女たち」(幻冬舎)である。
 私の東京の実家は、小金井市ですが、高校は三鷹高校であることもあり、近くには玉川上水が流れていることもあり、太宰治が「情死」した川としても知られており、関心がないわけではなかった。暑いときの頭休めの本としてはいいのかなあと、本の題名に惹かれて借りてきた。今回は、鎌田慧著「津軽・斜陽の家 太宰治を生んだ地主貴族の光芒」(祥伝社)も借りてきているので、生い立ちは、この本を読んだときに語る。

 今回の本は、プロローグからして、「女たらしのリレー」となっているのだから、すごい。

 まず出てくるのは、最初の心中相手である田部あつみ。21歳のとき心中を試みたとき、海に沈む直前に、相手の女(田部あつみ)が呼んだのは「彼の名前ではなかった」。それに気づいた太宰は、2人の手首に結んだ紐を切り、1人生き残ったという。

 2番目に出てくるのは、最初の妻・小山初代。不貞をはたらき離縁されたという。

 3番目に出てくるのは、2番目の妻になった津島美知子。太宰の姓は、津島であるから、正妻といっていい女性である。

 4番目は太田静子。この方は、太宰の代表作といわれる「斜陽」の影の作者といわれている人です。太宰と間にできた娘さんは太田治子として作家として活躍しています。お母さんの静子さんには、作家の素養があったと考えられています。

 5番目は、玉川上水で情死した山崎富栄さん。太宰治は39歳で死んだ。生きていても結核でそう長くは生きられなかったともいわれている。

 戦後の昭和23年の情死であったからマスコミもまだ発達していなかったから、それほどの大騒ぎにならなかったが、これが今なら、大きな騒ぎとなっていただろう。

 頭休めには、悪くない本であった。


 

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宣伝カーを車検に出したので、今日は読書

2019年05月27日 18時48分11秒 | 日々の雑感
 宣伝カー仕上げてから、2回目の車検がきた。そんなわけで、今日は暑すぎることもあり読書に専念というほどではないが、1冊読んだ。
 山川謙一著「太宰治の女たち」(幻冬舎)である。
 私の東京の実家は、小金井市ですが、高校は三鷹高校であることもあり、近くには玉川上水が流れていることもあり、太宰治が「情死」した川としても知られており、関心がないわけではなかった。暑いときの頭休めの本としてはいいのかなあと、本の題名に惹かれて借りてきた。今回は、鎌田慧著「津軽・斜陽の家 太宰治を生んだ地主貴族の光芒」(祥伝社)も借りてきているので、生い立ちは、この本を読んだときに語る。

 今回の本は、プロローグからして、「女たらしのリレー」となっているのだから、すごい。

 まず出てくるのは、最初の心中相手である田部あつみ。21歳のとき心中を試みたとき、海に沈む直前に、相手の女(田部あつみ)が呼んだのは「彼の名前ではなかった」。それに気づいた太宰は、2人の手首に結んだ紐を切り、1人生き残ったという。

 2番目に出てくるのは、最初の妻・小山初代。不貞をはたらき離縁されたという。

 3番目に出てくるのは、2番目の妻になった津島美知子。太宰の姓は、津島で会ったから、正妻といっていい女性である。

 4番目は太田静子。この方は、太宰の代表作といわれる「斜陽」の影の作者といわれている人です。太宰との娘さんは太田治子として作家として活躍しています。お母さんの静子さんにはも作家の素養があったと考えられています。

 5番目は、玉川上水で情死した山崎富栄さん。太宰治は39歳で死んだ。生きていても結核でそう長くは生きられなかったともいわれている。

 戦後の昭和23年の情死であったからマスコミもまだ発達していなかったから、それほどの大騒ぎにならなかったが、これが今なら、大きな騒ぎとなっていただろう。

 頭休めには、悪くない本であった。


 

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「元号制定は違憲」の裁判がはじまる

2019年05月27日 06時18分50秒 | 国際・政治
 今日の東京新聞・こちら特報部は、標記の記事を書いている。
 平成への改元の時は、今回のような「異常とも思える祝賀騒ぎ」はおきなかった。テレビに至っては「平成最後のランチ」なるものも飛びだしていたし、「令和最初の・・・・」の言葉もいやになるほど聞いた。ただ4月から5月に代わっただけなのに。

 裁判を起こした原告の山根二郎(82)氏らの主張を紹介する。

 第一の主張は、元号の制定が、憲法が基本的人権として保障する「個人の尊厳」「人格権」を脅かすということだ。「連続した時間の意識とは、私が私であるという自己同一性の意識にかかわるということだが、元号が細切れになってしまう。昭和が何年あったのかわかりますか? 64年じゃない。62年と2週間です。早見表でもみないとわからないでしょう」

 「元号で数えるということは、無意識のうちにも天皇の存在があって、天皇の御代に生きることに他ならない」と指摘する。「天皇とともに一旦生き。一旦死ぬ。そして新たな天皇の御代の下で再び生き始める。こんなことが強いられるなんて、国民主権を原理とする日本国憲法の精神に真っ向から反する」

 注)確かに、大正は1912年7月30日から1926年12月25日までであったから、大正元年生まれの父や、大正7年生まれの母の年齢を数えるのが大変だった。
 昭和64年は1926年12月25日から1989年1月7日までであった。
 昭和元年は1週間しかなかったことになる。また、昭和64年も1週間しかなかった。
 平成は31年で終わったが、実質は30年と3ヶ月3週間あったという計算になる。
 こんな面倒な計算をすることは、不便極まりない。

 第二の主張は、「元号法を改める政令の根拠とされるこの法が、そもそも憲法の精神に反する」と説明する。
 元号法は「元号は制令で定める」「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」とする。
 だが、法の目的が、一切記されておらず、元号が何かという定義がない。元号制定によって国の機関や国民のとってどんな義務が生じるか、生じないかも記されていない。
 「元号の趣旨は、元号を制定する場合には制令をもって定める、と言っているにすぎない。本来、国が元号を定めるには、国に元号の制定を義務づける条項がなくてはならないはずだが、それがない。元号法は極めて不自然で法律の体をなしていない」

 さらに問題なのは、政府が法制定時、国会答弁で「元号の使用を国民に義務づけるものではない」としながら、事実上強いていることだ。

 注)この裁判は、改めて元号法制定当時のことを想い出させる。もちろん日本共産党は「元号法の制定には反対」し、国会質問のなかで、「元号は強制するものではない」との答弁をさせている。
 この記事を書いた「デスクメモ」も言っている。
 改元の祝賀騒ぎを薄気味悪く見ていたが、本訴訟の主張を知って得心した。今や「令和最初の」と言えば、国民の大半は大半は改元を喜ぶのではないか。
 元号について「伝統」の二字で思考停止せず、実生活からそのあり方を問う本訴訟の原告の姿勢にこそ未来がある。

 私の改元騒ぎのモヤモヤを晴らすいい記事であったので紹介した次第です。



 
 
 

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