ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市の和田は島地川沿いの山間集落

2021年04月09日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         島地川およびその支流串川流域に位置し、地内を地下(じげ)道として、米光から島地川
        さかのぼるかたちで和田、中村、小津(高瀬)を通り、熊坂峠を経て仁保津に至る道があっ
        た。(歩行距離約2km)

        
        
         米光バス停からバス便がないため、和田までの1.2㎞の道は歩く他ない。和田橋で旧道
        に入る。

        
         和田農協前バス停から旧道を下る。

        
         農協裏手に松田家長屋門がある。同家は藩政時代に支配階級の末端としての面と被支配
        者階級の代表者という面を持つ垰村の庄屋であった。長屋門は藩政時代とされるが、建造
        された年代は不詳とのこと。6畳2間には中間部屋として下男下女を住まわせたという。

        
         商店もあったようだがすべて廃業されている。

        
         元広島東洋カープの投手だった津田恒美生家を案内する看板が設置してある。1960
        (昭和35)年8月生まれで、同地区の小・中学校を卒業し、南陽工高~協和発酵を経て広島
        カープに入団する。
         しかし、病に冒され32年の短い人生を閉じ、今はこの地に静かに眠る。 

        
         通りには石州瓦の家並みが続く。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、高瀬、夏切、垰、米光、馬神村をもって佐波
        郡和田村が発足する。現在の周南市和田支所付近に村役場が置かれ、1955(昭和30)
        都濃郡南陽町に編入されるまで村の中心であった。 

        
         1947(昭和22)年に開校した和田中学校は、2021(令和3)年3月末をもって64年
        の歴史に幕を閉じ、富田中学校へ統合された。

        
         津田恒美はわずか10年のプロ野球人生であったが、旧中学校跡に顕彰碑が建立されて
        いる。
         碑には当時監督だった山本浩二氏が、彼に「直球人生」という言葉を贈っている。(20
        12年野球殿堂入り)

        
         旧中学校とグランドなどを共有していた和田小学校。声掛けすると「和田には何にもな
        いよ。ゆめタウンもないので寂しいけど、パパもママもここが好きだから僕も大好きだよ」
        と言ってグラウンドに駆け出す。

        
         小学校を過ごすと人家は少なくなる。右手の建物に「和田丸太」の看板あり。1978
        (昭和53)年当時新南陽市の本田市長が「和田丸太」と命名し、木材製品として高い評価を
        得ていた。

        
         左に島地川ダム、右に和田丸太の山林、下にホタルがデザインされた新南陽市時代の環
        境保全型マンホール蓋。

        
         高瀬郵便局は1880(明治13)年高瀬村に開設されて、和田と串村の集配業務を行って
        いたが、行政区域の変更で串地区の集配業務を島地局が行うようになった。
         その後、当地に移転して和田郵便局とすべきところだったが、大島郡に和田郵便局があ
        るので高瀬にしたという。

        
         日露戦役従軍碑とあるが小文字は判読できない。

        
        島地川が寄り添うようになると三作(みつくり)バス停が見えてくる。
 
        
         バス乗車まで少し時間があったので三作神楽伝承館まで往復する。
        
        
         国指定重要無形文化財の「三作(みつくり)神楽」は、和田三作地区(林・原赤。中村)に古
        くから伝承され、7年目毎の式年祭で地元河内社へ奉納されてきた。言い伝えによると、
        大宝年間(701-704)に五穀が実らず、疫病が流行したため五穀豊穣と疫病退散を祈願したと
        ころ、翌年から作物は実り疫病も絶えたため、そのお礼として神楽を奉納するようになっ
        たという。


        
         JR徳山駅行きの防長バスに乗車する。
                 


周南市の米光は島地川右岸に集落 

2021年04月09日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         米光(よねみつ)は島地川流域に位置する。地名の由来は、往古村民が富裕な生活を営み、
        有徳者も多く、米穀も多くとれたことによるという。(歩行約1.9km)

        
         JR福川駅から防長バス高瀬行き35分、米光バス停で下車する。
        
        
         小郡から高森へ至る裏往還道は、徳地・上村境の天王峠を下り、地内を通り島地川を渡
        って大谷・垰の車坂に至る道があった。 

        
         北背後にある岡の山に築城年代は定かでないが米光城があったとされる。「和田村誌」
        は、1557(弘治3)年毛利氏が防長に進軍した際、陶の残党が富田・徳地・防府地方で蜂
        起したので、毛利輝元は野上庄の領主・杉元相を上徳地に置き、徳地を沈む鎮撫するため
        山上に城を築いたという。風土注進案は杉次郎左衛門行並(つらなみ)の古城と伝えるが、同
        一人物否かの確証はないとする。

        
         商売をされていたのであろう軒下に〇キの文字が残る。

        
         明治期の局舎を思い出させるような造りの米光簡易郵便局。1933(昭和8)年米光郵便
        取扱所として開設され、その後に米光郵便局となったが、高瀬郵便局移転の頃に簡易郵便
        局に改定された。

        
         郵便局の斜め向かいに河内神社の参道。

        
         弘化年間(1844-1848)創建と伝える河内社と、近くにあった柿本大明神を合祀して河内神
        社を再建したと伝える。大豪雨で後山が崩れて社殿が崩壊し、1944(昭和19)年に再建
        されたのが現社殿である。

        
         境内の右手に石像が並ぶが、それぞれに何番と刻字されいるので八十八ヶ所の石仏のよ
        うだ。

        
         参道から見る米光の家並み。

        
         ほぼ直線的な通りである。

        
         商店名のあるテントに懐かしさを感じる。

        
         通りに流れる水路は灌漑用水。

        
         山手に石組みされた棚田。

        
         左に島地川ダム、右に和田丸太の山林、下にホタルがデザインされた新南陽市時代の環
        境保全用マンホール蓋。

        
         山裾に石州瓦が映える。

        
         家前の池に鯉。

        
         このような家屋も少なくなった。

        
        
         伝福寺(曹洞宗)の寺伝によると、もとは伝福庵と称して創建の時期ははっきりしない。
         1929(昭和4)年馬神の万福寺と合併して現寺号に改めた。

        
         寺から集落道に沿うと河内神社参道を横断する。