ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市の有帆は石炭の積出などで栄えた地 

2021年04月26日 | 山口県山陽小野田市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         有帆(ありほ)は菩提寺山系の西部、有帆川流域に位置する。同川は地内のほぼ中央を南流
        し、近世、高泊開作が造成されるまでは岩崎寺付近に河口があった。
         地名の由来については、一連の神功皇后伝説があり、神功皇后一行は船木で軍船を造り、
        有帆で帆を上げ、梶浦で梶を造ったという。(歩行約8.5km)

        
         JR小野田駅(12:17)から船鉄バス船木行き7分、有帆小前バス停で下車する。

        
         有帆川左岸。

        
         高泊開作の灌漑用水のために、有帆川に石堰を造り、取水口に樋箱(火箱)を設けて開作
        の用水路に流した。この取付口付近を石井手、対岸を火箱と称するようになった。
         1765(明和2)年火箱に有帆炭の積み荷場が設けられ、三田尻塩田などへ出荷された。
        この付近に石炭問屋も形成され、市も立つようになった。高千帆橋の袂に恵比須明神が祀
        られているが、石炭問屋が奉納したであろう15軒の問屋名が刻まれている。

        
         有帆川の右岸を北上すると石碑が立っているが、風化して刻字を読むことができない。

        
         県道小野田美東線を横断すると、川土手に庚申塚と石祠。

        
         岩崎寺(がんきじ)は門前を有帆川が流れ、背後に岩崎山を臨む閑静な所にある曹洞宗の禅
        寺である。

        
         岩崎寺の寺伝によると、坂上田村麿が東夷征伐の戦勝報賽として、一国一佛を奉納した
        時の御仏で、弘法大師作とされる千手観音菩薩を本尊としている。平安期の806(大同元)
        年創建の古刹である。 

        
         正面に山陽自動車道を見ながら有帆川を離れる。

        
         集落の境にある庚申塚。

        
         岩崎寺の北方500mに、石垣の高さ1mと正面の長さ37mの石組遺構がある。室町
        期特有の石組みで近郊を領地とした中世豪族の屋敷跡と考えられている。
         岩崎寺観音堂に掲げる明徳3年(1392)の鰐口銘に、「道乾(どうかん)」という字
が見え、
        俗称が記されていない人物の屋敷跡だと云われ、「どうかん屋敷跡」として市の指定遺跡
        
になっている。

        
         仁保の上集落への道。

        
         集落内に入ると古墳が案内されている。(左に50m)

        
        
         仁保の上古墳は横穴式石室墳で覆っていた土は、流失して玄室のみで、ほぼ完全な形で
        遺存されている。玄室の中には大師像が祀られ、地域の人々の信仰の対象となっている。

        
         古墳の上方に山の斜面をくり抜いて造られた横穴墓(おうけつぼ)があり、6世紀末のもの
        とされる。横穴墓は墓道、羨道、玄室で構成され、南に開口しているが、石室を持たない
        横穴である。

        
         有帆川の中国橋を渡ると大休団地。

        
         覚天寺の上り口に「三界萬霊 安政四年(1857)巳三月吉日」とあり。

        
         瑞松庵4世守邦和尚が隠居所として、室町期の1428(正長元)年に創建して大休庵と名
        付けた。その後、宍戸家の菩提所としたが、1873(明治6)年豊北町田耕の覚天寺を引寺
        して現在に至る。

        
         1820(文政3)年有帆の給領主であった宍戸房寛が、初代宍戸就俊の150回忌追善の
        ために宝篋印塔を境内に建てた。

        
         本堂の裏山に十三仏の石像が建立されている。十三仏とは死者のために仏事などを執り
        行う初7日から33回忌までの13回の追善供養に、本尊として拝まれる13体の仏のこ
        とで、室町期に始まったとされる。 

        
         船木への道を横断して別府八幡宮へ向かう。

        
         民家入口にも三界萬霊塔。

        
         もと船木鉄道の線路地だった道から東の奥に入ると、丘に別府八幡宮が鎮座している。

        
         創建については2説あるようで、奈良期の724(神亀元)年宇佐八幡宮から勧請したとす
        る説と、
770(宝亀元)年に和気清麻呂が九州から帰京の途中に勧請し、村人が同年社殿を
        建立したとするが、社伝は和気清麻呂の説を伝えている。 

        
         1982(昭和57)年神殿の修理の他は新築されたが、この年から新社殿にふさわしい注
        連縄が掲げられた。直径1m、長さ9m、重さ400㎏のビッグサイズである。

        
         厄除け祈願として「厄割り玉」が設けてある。玉に息を3度吹きかけて心身の罪・穢・
        厄を移し、これを割ることにより厄を砕くという。割り方は投げるか、叩くか、落とすか
        という方法のようだ。

        
         別府八幡宮社務所は百済文輔の旧宅である。神職である百済忠敬の息子として1883
        (明治16)年に生まれ、官選知事として群馬県知事などを歴任する。

        
         有帆一里塚には地蔵尊と庚申塚が並んでいるが、もとは少し西にあり、船木から刈屋に
        至る「かりや道」にあった。

        
         北向き地蔵尊は引込集落出口にあったが、山陽自動車道の建設に伴い、今の位置に移設
        された。道祖神も同じ堂の中に祀られている。

        
         山陽自動車道の函渠で南側に移動する。

        
         祇園神社も山陽自動車道の建設に伴い移転を余儀なくされ、1997(平成9)年この地に
        移転した。梅田祇園神社は、その昔、地域一帯に疫病が流行した時に創建されたもので、
        鳥居の額束は疫神社とされている。

        
         雨乞碑には「雨乞成就記念碑 大正11年(1922)9月4日、梅田区中」とある。
         その年は7月7日の小雨以降、まったく雨が降らない日が続き、8月も降る気配がない
        ので9月4日、地下(じげ)の人たちが総出で雨乞いの祈祷を始めた。その心が通じたのか5
        日の夜から7日にかけて雨をもたらした。感謝の気持ちを忘れることのないようにと建立
        された。

        
         杵築山王社の社伝によると、この地は入江であって、埋め立てて田地を造成しようとし
        たが、開作工事は難事業のため挫折した。
         平安期の1004(寛弘元)年出雲国杵築神社の三神を勧請すると、加護により事業は成就
        したとされる。

        
         別府八幡宮末社で境内には芭蕉の句もあり、桜の名所にもなっている。 

        
         コンビニ前の土取バス停からJR宇部駅に戻る。
     


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