この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
米光(よねみつ)は島地川流域に位置する。地名の由来は、往古村民が富裕な生活を営み、
有徳者も多く、米穀も多くとれたことによるという。(歩行約1.9km)
JR福川駅から防長バス高瀬行き35分、米光バス停で下車する。
小郡から高森へ至る裏往還道は、徳地・上村境の天王峠を下り、地内を通り島地川を渡
って大谷・垰の車坂に至る道があった。
北背後にある岡の山に築城年代は定かでないが米光城があったとされる。「和田村誌」
は、1557(弘治3)年毛利氏が防長に進軍した際、陶の残党が富田・徳地・防府地方で蜂
起したので、毛利輝元は野上庄の領主・杉元相を上徳地に置き、徳地を沈む鎮撫するため
山上に城を築いたという。風土注進案は杉次郎左衛門行並(つらなみ)の古城と伝えるが、同
一人物否かの確証はないとする。
商売をされていたのであろう軒下に〇キの文字が残る。
明治期の局舎を思い出させるような造りの米光簡易郵便局。1933(昭和8)年米光郵便
取扱所として開設され、その後に米光郵便局となったが、高瀬郵便局移転の頃に簡易郵便
局に改定された。
郵便局の斜め向かいに河内神社の参道。
弘化年間(1844-1848)創建と伝える河内社と、近くにあった柿本大明神を合祀して河内神
社を再建したと伝える。大豪雨で後山が崩れて社殿が崩壊し、1944(昭和19)年に再建
されたのが現社殿である。
境内の右手に石像が並ぶが、それぞれに何番と刻字されいるので八十八ヶ所の石仏のよ
うだ。
参道から見る米光の家並み。
ほぼ直線的な通りである。
商店名のあるテントに懐かしさを感じる。
通りに流れる水路は灌漑用水。
山手に石組みされた棚田。
左に島地川ダム、右に和田丸太の山林、下にホタルがデザインされた新南陽市時代の環
境保全用マンホール蓋。
山裾に石州瓦が映える。
家前の池に鯉。
このような家屋も少なくなった。
伝福寺(曹洞宗)の寺伝によると、もとは伝福庵と称して創建の時期ははっきりしない。
1929(昭和4)年馬神の万福寺と合併して現寺号に改めた。
寺から集落道に沿うと河内神社参道を横断する。