ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市油谷の川尻は背負い駕籠が活躍する集落

2021年04月02日 | 山口県長門市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         川尻(かわじり)は向津具(むかつく)半島の北東部に位置し、東は日本海に面する。背後に
        200m前後の丘陵が迫り、川尻川河口周辺に集落と川尻漁港がある。(歩行約3.4km)

        
         JR人丸駅(11:41)からブルーライン交通油谷島行き20分、川尻バス停で下車する。

        
         一段高い道が県道久津小田線。

        
         山手側にある住宅は、細い階段道で結ばれているため、運搬手段は背負い駕籠で対応さ
        れているとのこと。

        
         漁業の神である恵比須神社。

        
         神社横から路地に入ると急階段。

        
         階段を上がると道路沿いにある家の屋根と同位置になる。

        
         家々は山の急斜面にへばりつくように建てられ、道のほとんどが階段で、この道を中心
        に各民家は枝道で繋がっている。

        
         川尻は全戸が真宗で、向津具上白木にある向岸寺の檀家であったが、先祖の命日等に参
        詣するには遠くて不便であった。そこで大島郡屋代村の古跡・奥之坊の引寺を出願し、1
        733(享保18)年許可され、1947(昭和22)年法泉寺と改称する。

        
         更に上がって行くと、地元の方が港を一望できる場所があると案内していただく。

        
         背負い駕籠はなくてはならない必需品のようだ。

        
         防波堤の中は波穏やかである。

        
        
         かっては商店などもあって、集落の中心であったと思われる通り。

        
         この階段の右手が河内神社、左手が浄念寺への道。

        
         階段の途中にある火除けの神・河内神社は、1700(元禄13)年河内国より勧請し、川
        尻鯨組が社を建立して鎮守同様とする。

        
         冷蔵庫など重たい荷物はどのように運搬されているのであろうか。 

        
         浄念寺(真宗)の旧寺号は潮声庵と称し、元河内神社の社地にあったが創建開基は不明で
        ある。1868(明治元)年に廃庵となったが、後に再興されて現在地へ移転し、戦後に現寺
        号となる。

        
         寺前より川尻の家並み。

        
         田代堤を源にする川尻川沿いの家並み。

        
         家も地形に沿って形成されている。

        
         1873(明治6)年に創立された川尻小学校は、その後、校名や所在地を変えたが、川尻
        地区の小学校としての役割を果たす。児童数の減少により、2004(平成16)年廃校とな
        るが、1971(昭和46)年築の校舎は、当時のままの姿で佇んでいる。
 
        
         当地は捕鯨漁が盛んで、創業は1698(元禄11)年鯨組を取り立てたことに始まる。
         しかし、獲れる鯨の量は一定せず1807(文化4)年には多大な負債を抱え、事業を一時
        代官所に移譲する。川尻には増船しようにも波止がなく、1845(弘化2)年波止の築造が
        始められ、5年の歳月と巨費が投じられた。 

        
         1951(昭和26)年第4種漁港(離島その他辺地にあって避難上必要とされる漁港)に指
        定され、翌年から30余年間大改修工事が行われ、その後も防波堤の改良もあって外海の
        漁港としての機能を有することなった。

        
         最近は少なくなった風景の1つである。

        
         川尻バス停よりJR長門市駅に戻る。


長門市油谷の久津は楊貴妃の墓で知られた地

2021年04月01日 | 山口県長門市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         久津(くづ)は向津具(むかつく)半島の中央部に位置し、南は油谷湾に、三方は丘陵地に囲
        まれ平坦地はほとんどない。(歩行距離2.8km)

        
         大浦中央バス停からブルーライン交通長門市駅行き4分、久津バス停で下車する。車窓
        から集落を一望できる場所があったので引き返す。

        
         二尊院のある対岸。

        
         集落北側の丘陵地に棚田。

        
         JAのヤマサキショップ前から県道久津小田線を上がって行くと、左手に階段が見えて
        くる。1889(明治22)年町村制施行により、向津具上、向津具下、川尻村の区域をもっ
        て向津具村が発足し、この地に村役場が置かれた。
         向津具の地名由来は、かってこの地が「向国(むかつくに)」や「向津(むこうつ)」などと呼
        ばれ、これが転じたとされる。(建物は高齢者センター)

        
         峠のお地蔵さん。

        
         小・中学校と日置農高向津具分校がある時代の通学路であった。今も昔も変わらず急な
        坂道で道幅も狭い。

        
         1945~1955年代には文具店、菓子屋、旅館、映画館などもあって、必要なもの
        は地元で調達・利用できたようだが、その多くは姿を消して閑散とした通りになっている。

        
         1873(明治6)年久津小学校として創立された向津具小学校は、1912(大正元)年現在
        地へ新築移転して現校名に変更する。1960(昭和35)年築の校舎は建物耐震化に問題が
        あって、耐震化の完了している旧向津具中学校跡へ移転し、旧校舎はそのままにされてい
        る。

        
         往路を引き返して久津郵便局前から海側に下って行く。(油谷湾に浮かぶのが江ノ島)

        
         民家の間を抜けると漁港に出る。

        
         1970(昭和45)年から漁港改修事業が開始され、新防波堤、沖防波堤、漁港広場など
        が整備される。

        
         後背地は急傾斜地で棚田を形成し、狭い海岸部にへばりつく形で民家が並ぶ。

        
         二尊院は、平安期の807(大同2)年最澄が帰朝の途次、当地に立ち寄り創建したと伝承
        される。当初は天台宗であったが、のちに真言宗に改宗された。
         本尊である釈迦・阿弥陀如来は、唐の玄宗が楊貴妃追善供養のため贈ったという伝承が
        ある。 

        
         本寺の楊貴妃伝説と結びつき、地(じげ)上申及び風土注進案は、この五輪塔が楊貴妃と侍
        女の墓と伝えている。鎌倉末期の様式をふまえた調和のとれた五輪塔である。

        
         本堂前に立つ楊貴妃像は、町おこしのシンボルとして整備されたものである。楊貴妃は、
        奈良期の756(天平勝宝8)年38歳で亡くなったので、石像の高さが3.8mになっている
        とのこと。

        
         本堂前に願地蔵尊が祀られている。願いごとから水子供養まで、ただ1つだけを深く祈
        ることによって願いが叶うと‥

        
         宝篋印塔は罪障(ざいしょう)を消滅させ、災難を未然に防ぐことを願って、1814(文化
          11)
年向津具村の人々によって建立された。(後方の方形屋根が本堂)

        
         半島の道路が改修される以前は、半島部と本土間(粟野)を渡海船が結んでいた。

        
         集落内の狭い道はバス路線である。

        
         漁村集落であるが漁村の雰囲気を持たない。

        
         大避神社は,1645(正保2)年播州坂越浦(さこしうら)の大玉五郎左衛門が久津に来て祀
        ったと伝える。祭神は秦河勝が疱瘡を患った故事により,疱瘡の守護神として信仰されて
        きた。

        
         右手の戸嶋医院には、1932(昭和7)年築の洋風総モルタル仕上げの建物があったよう
        だが解体されたようである。 

        
         医院前の久津下バス停からJR長門市駅へ戻る


長門市油谷の大浦は海女士漁業と旧軍の水上飛行基地

2021年04月01日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         大浦は向津具(むかつく)半島の西部にあって、海抜200m前後の丘陵地帯の南側・油谷
        湾に面する地にある。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、昔、この一帯は小浦ばかりで、この地は家数が多
        いので大浦というようになったという。
         また、風土注進案では、世間では海土浦といっているが、実は三韓出兵の時、貝などを
        神功皇后に献上したところ大層賞美されて、以後王浦と唱えよと宣下があったことから、
        王の字をはばかって大浦と書くようになったと伝える。地下上申の考え方が自然のようで
        ある。(歩行約3.5km)

        
         JR人丸駅からブルーライン交通油谷島行き約40分、終点の油谷島バス停で下車する。

        
         油谷島は陸繋砂州の形成によって陸続きとなった島で、対面に大浦集落が見える。

        
         1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、海軍省は油谷湾周辺地域を要塞地帯に
        編入し、翌年3月油谷島に水上飛行機基地の建設を開始した。戦後は、兵舎や水源地など
        が向津具村に払い下げられ、引揚者などの住宅に使用された

        
         木造の兵舎2棟が残されているが、崩壊の途にあることや周囲が草木に覆われて立ち入
        ることはできない。

        
         地峡とされる地点から油谷島とハマダイコンの花。

        
         左手の旧道に入る。

        
         大浦は海土漁が有名で、福岡県鐘崎(玄海町)より鐘崎屋久兵衛が海女を率いて居住し、
        海女漁を始めたと伝える。地元では海女を海女士(アマシ)と呼んでいるそうだ。

        
        
         細長い1本の集落道は静かな通りである。

        
         道はS字を描いて山手に向かう。

        
        
         路地を中心として平坦地に民家が集中する。

       
        県道に戻って坂を上がると湾が垣間見られる。

       
        平坦地が少ないため丘陵地に民家が並ぶ。

       
        湾を挟んで対面に油谷島。

       
        細い草道を下ると県道油谷港線。

       
        魚の出荷中であろうか周囲に鳥たちが旋回する。

       
        劇場型スタイルの集落。

       
        細長く連なる第2種漁港は、県下で唯一海女漁する漁港である。

       
        漁業の神・恵比須神社。 

       
        大浦中央バス停より久津集落へ移動する。